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塵壺379号 御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行



塵壺379号

御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行

戦国期の田村領では、平姓田村氏の一族である「御家門」を中心とした地域的な家臣団を形成し、それぞれの所領と城・舘を持ち、その土地の土豪・地侍いわゆる「在家」を配下として半自立的な立場であったとみられます。


このことは、室町時代末に記された『田母神氏旧記』や『田村家臣録』をみますと「田村四十八舘」と称された領内の東西南北に配置された各々の城舘、そして駐留する与力の騎馬武者衆やそれらに付随する小者の数、さらには、城(舘)下に整備された町並み等からも見て取れます。

また、田村領(田村庄・小野保)は、田村庄司家御代の室町時代中期に結ばれた一族一揆録「仙道国人一揆(応永十一)」の記名人を母体として形成され、田村荘(庄)を中心に小野保を含んで編成され、白川氏に大きく依存していた篠川・稲村両公方という鎌倉府体制下で、関東管領や奥州探題との関係でバランスをとりながら田村庄司家の田村氏は独立を保ち、後の戦国大名平姓三春田村氏へとつながっていきます。







「常葉城」 別名「旭城(朝日舘)」 

常葉伊賀守・東方与力四十騎 常葉彦右衛門・東方与力四騎

戦国期天正年間の常葉城主には、播磨国主赤松円心の孫の赤松越前守顕則から常葉氏に改名した5代常葉甲斐守貞久まで居城して三春田村氏に属し常葉地方を治めていました。

戦国時代真っただ中の常葉甲斐守定貞之の頃に、東の相馬義胤の田村攻略の際に常葉城は相馬勢の猛攻を受け落城し常葉勢は敗走してしまいます。

後に常葉氏は会津蒲生氏郷に仕え会津に居住、その子孫は会津に在りましたが現在は北海道に移住したと伝わっています。

常葉氏敗走後に常葉城を田村勢が奪い返し、岩井沢舘主(後に再記載)赤石澤修理亮が城主となって常葉城を預かります。








「岩井沢舘」 舘主 赤石澤修理亮

天正17年6月10日、 相馬義胤は田村家の内紛に乗じて岩井沢舘(都路) に侵攻して攻め落とします。

さらに、相馬義胤は岩井沢舘を拠点として稲ヶ瀬舘、そして常葉城を攻めます。

赤石澤修理亮以下田村勢300 人、伊達政宗からの援軍として桑折摂津守以下伊達勢300 人が加わり常葉城を守備、数日にわたり攻防を繰り返したのち相馬勢は外郭を落とし、三ノ曲輪をも破ります。

二ノ曲輪も危うく思われたころに田村宗顕は橋本刑部、田村宮内大輔に500の兵を差し添えて常葉城に駐屯させたので、本丸は堅固に持ちこたえました。

天正17年6月、会津の本城黒川 (後の若松) に入った政宗は、この報に接して伊達成実 、白石宗実、原田宗時、平田周防守に3千の軍勢を援軍として三春に派遣、さらに伊達郷、信夫郷、刈田郷、柴田郷の軍勢約150騎を二本松の塩松に布陣させて迎撃態勢を整えます。

佐竹氏、岩城氏、相馬氏の軍勢は7月まで対陣しますが、結局三春を攻められずに、ついに帰陣します。



「西向舘」 常葉町西向 三善中納言常光居住、千二百石 後舘主 新城宮内

・常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳 


「関本舘」 舘主関本太郎右エ門 大字関本上野(田村市常葉町山根)にありました。
後に青山忠興が居舘。

天正年間、岩城城主岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。

青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森舘の戦い」で伊達政宗勢に属した三春城主田村清顕公に従い参戦し、大内定綱勢と戦い負傷。



「古道舘」 都路町古道字舘ノ腰に在り、北畠勝光の居舘。


津島・葛尾・古道・岩井沢の4か村は、戦国時代に相馬顕胤の娘・喜多姫が三春2代城主田村隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りした際に相馬氏より田村氏へ喜多姫の化粧代として田村領に編入されています。






※訂正です。塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。



奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照


      蒼龍謹白 さすねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺第378号「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」 令和5年1月吉日発行




塵壺第378号「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」 令和5年1月吉日発行

「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」

 三春本城の防御態勢として、伊達政宗の三春城下滞在中の際に記された「三春要害廻り御覧御出」によれば、三春城下町構えの外枠に土塁・堀・沼・川などの防御施設があったことが解ります。

また、同文書の中に“天正16年8月、三春城滞在中の伊達政宗は田村家の重臣田村月斎宅にて饗応され~“と記されているところを見ると田村月斎の役宅「月斎舘」が現在の消防署三春分署の裏山に、そして、田村重臣橋本刑部の役宅「刑部舘」が紫雲寺の裏山に配されていました。

このように田村の重臣たちはそれぞれの所領に城舘を構えて居住・駐留していましたが、三春城下にもそれぞれ屋敷を与えられていたと考えられます。

さらに、「元和八年老人覚書」には「田村清顕と申は、常々千計の人数を抱置」と記されており、重臣らとともに、常に田村氏に近侍する直臣の旗本組「不断衆(ふだんしゅう)」の屋敷も御城山付近に集中して三春本城の直掩勢として駐屯していたと考えられます。

三春在城中の政宗が「町検断、町ノ者」を謁見しているのをみれば、三春城下町衆の地位が田村家中に準じるほどのものであったことが読み取れます。

その他、城下には大元帥明王堂別当・同学頭坊そのほかの寺院・社家・山伏があっ たことも、政宗滞在時の『伊達天正日記』に記されています。

後免町の田村家菩提寺福聚寺はいうまでもありませんが、明王堂以下の寺院・社家などは 城と城下のはずれの地に配置されて、三春城と城下の守りの役割を果たしたとみられま

す。





天正10年(1582)、大元帥明王学頭坊に宛てた「田村清顕挽書」によれば、田村2代隆顕以来、山中(明王町)の検断権は田村氏ではなく学頭坊に委ねられていたことが解ります。
同じく田村家の菩提寺である福聚寺も同じく「門前(御免町・尼ヶ谷)」の検断権を隆顕以来免許されていました。


これら有力寺院・社家は田村氏の外護を受けて、郷村を知行分(所領)として抱 え経済的基盤とし、さらに門前ないし門前町に対する治外法権・経済支配権を掌握していました。

永禄2年(1559)の大元帥明王大船若経の書写は、 田村義顕による進献の事業ですが、経櫃三合に収められた二百巻の折本の大般若経は、天沢和尚以下、薩摩の慶徳、日向の京文、肥後の昌恵、美濃の培など十数人の手で書写され、13350枚の和紙が用いられています。

これは、義顕の帰依の篤さとあわせて「大元帥明王」の権威の高さを知ることが出来ます。








「天正田村騒動」天正16年(1588) 5月・相馬義胤三春入城失敗

三春城主田村家三代田村清顕の突然の死により、田村家中は清顕妻(相馬顕胤娘)の弟相馬義胤が当主の相馬氏と、清顕母(伊達稙宗娘)、そして、娘「愛姫」の婿伊達政宗が当主の伊達氏のどちらに今後の田村家の行く末を暫定的に後見してもらうかを巡り家中は二分していました。

天正16年2月から7月にかけての安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる伊達政宗勢と蘆名義広・相馬義胤勢が相対した戦闘を総称とした“郡山合戦”の後、政宗が三春へ入る前に政宗の片腕である伊達家重臣片倉小十郎が先に三春に入り政宗を迎える準備をします。

5月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ移し、三春城には清顕の甥の孫七郎(宗顕)が入りました。

そして、翌日には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣三十数名が城下の屋敷を引き払って小野城(以下、小野保内の自分の所領・領諸城)へ退きます。

その混乱の最中に相馬義胤は手勢を率いて三春城乗っ取りの為に強襲入城を謀り、相馬勢が三春城の途中まで登った時に、その動きを事前に察知した伊達派重臣橋本刑部指揮する田村勢の精鋭旗本不断衆の迎撃により、東の小口(虎口)に押し返されます。









しかし、ここでも田村勢の猛攻に遭い撃退されてしまいます。

兵の強さもさることながら、三春城は難攻不落の堅固な山城のために相馬勢は御城を攻略できず中々入城は果たせません。

さらに相馬勢の騎馬武者200騎と弓・鉄砲組が合流して三春城に攻め込む手はずとなっていましたが遅参して役に立たず、義胤は築館(東和町)にも、相馬にも帰れず配下の兵と共に一時船引城に立て籠りますが後に相馬へ撤収しています。





相馬義胤が三春城攻略討に失敗した翌日、伊達政宗は白石若狭守宗実の宮森城に着陣。伊達勢(信夫郡・伊達郡の軍勢)に田村勢も加えて築山舘(月舘・旧東和町戸沢)を攻略し所領の作毛をすべて刈り取ります。

翌日、伊達主力・旗本以下の軍勢を動員し、相馬氏に組した石川弾正の小手森城(旧東和町針道)を陥落させて宮森城に引き揚げました。


蒼龍謹白 さすねぇぞい三春!  拝


付録: 奥羽永慶軍記(抄), 政宗記(抄), 奥陽仙道表鑑(抄), 奥州仙道一覽記(抄)






| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺377号 「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5 




「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。


「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。







「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝





付録: 奥羽永慶軍記(抄), 政宗記(抄), 奥陽仙道表鑑(抄), 奥州仙道一覽記(抄)
先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。

「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。

訂正いたします。


| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺376号 令和4年11月発行 「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4




塵壺376号 令和4年11月発行

「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4

戦国期に書かれた伊達、片倉、田母神等の文書に「田村四十八舘」舘主(城主)が記載されています。
これらの舘には、新舘、古舘、オチ舘またはオツ舘と呼ばれる舘跡が付随し、”舘之腰”や“馬場”“的場”など城郭にちなむ地名が今も残っています。

また、時期の推移や戦況により築城や廃城があり、舘主の移動も見て取れます。


「木村城(舘)」旧逢隈村(現郡山市西田町)大字木村に在り「舘山」と呼ばれています。

木村越中守、木村内記(天正年間)が居舘。口伝では、木村越中守の先祖木村内記は、当初は同村の古舘に居住していましたが、後に「木村城」に移ります。

室町後期の永亨年間、田村庄司田村満顕の組下木村左京之介忠高の築城で”木村(城)舘”と呼ばれています。

以後、木村氏は忠高以来子孫子の9代に亘って栄え、天正10年迄150年間居城しています。

7代清慶木村右馬之介は永録六年の春、三春城主田村隆顕に従って二階堂信濃守輝行と石川郡江持で戦っています。

この時、敵将渡辺刀称外一将の首を討ちとり武功を立てた勇将と伝わります。

8代の信常左京之介英太郎は、永録8年2月18日田村清顕公につき石川小平大膳を攻めて敵将本田太郎右工門親子を討取りたる名将でしたが、天正10年に至って田村氏と不和を生じ、密かに会津芦名氏と親交を結んだことが露見して清顕公の怒りをかいます。





同年春には清顕公自らが軍勢を率いて木村氏を攻め、信常は戦いに利なく、田村の将鬼生田弾正(鬼生田舘主)勢及び前舘主水(前舘舘主)勢と戦って討ち死、その子信光も一族郎党と共に戦死して木村城は落城しています。

この時、信光の妹“鶴姫”は大隈川(阿武隈川)に身を投げて自害し、この淵は今でも「鶴ヶ淵」と呼ばれています。

尚、鬼生田の廣度寺に伝わる「鶴姫の鐘」は鶴姫供養に由来します。





木村氏滅亡後、この城は田村本家の持城となり、天正14年(1586)に田村清顕が没した後は、根木屋・宮田をふくむ木村郷は伊達政宗の命によって田村月斎・橋本刑部少輔顕徳らが統治しています。

木村城には橋本刑部が城主となり、城代として橋本太郎佐衛門(刑部弟)、橋本孫左衛門(刑部娘婿)が居住しています。

この時期は、伊達氏による奥州征覇の時期と重なり、田村家の内紛に係る「田村仕置」などの政治的な背景から、阿武隈川を望むこの本城跡が田村家伊達方の軍事的な最重要拠点として田村家重鎮の橋本刑部を配して城郭を現在の形に改築されたと思われます。

 後に橋本刑部は、田村家中伊達派の重臣として太閤秀吉による「田村仕置」田村家改易に異を唱え、豊臣の中枢大阪へ出向き五奉行筆頭石田三成に“田村家改易取り消し”を訴えたがその甲斐がなかったとの記述が残されています。「一関田村家田村系譜」






「三城目舘」旧逢隈村(現西田町三丁目)舘主今泉主水
三城目には「穴沢舘」舘主穴沢新助、「桜内舘」、「西田山王舘」が支舘として構築され防御を固めていました。

「前舘舘跡」 三城目(西田町) 舘主 前舘主水

「鬼生田舘(おにゅうだたて)」舘主 鬼生田弾正顕常

田村家一門 東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 「田村家臣録」(片倉文書) 田村家改易後、伊達家に仕官した鬼生田氏は伊達藩から分藩した宇和島藩藩士(江戸勤番)となっています。(田母神家旧記)

「大田村上舘」(現西田町)舘主 村上刑部之介の居舘と伝わっています。

「黒鹿毛山舘」旧丹伊田村にあり、田村月斎頼顕の二男・新田土佐守顕成(顕輝?)が与力三十五騎と新田内蔵助とその配下足軽五十人を従えて居住。

「阿久津舘」 田村月斎頼顕の六男・阿久津右京亮顕義、阿久津左京 田村家御家門衆

尚、月斎の息子たちは、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)は上宇津志城主、三男・新田民部顕輝は新田城主、四男・石見守顕朝、五男・湊川右馬助顕純、七男・木目澤善五郎顕継、八男・大槻内蔵頭顕直。(仙道表鑑参照)






「御春輩」とは、室町初期に記された「沙弥宗心書状」(結城古文書写)に表記された田村地方の武士衆を示す名称です。

付録: 奥羽永慶軍記(抄), 政宗記(抄), 奥陽仙道表鑑(抄), 奥州仙道一覽記(抄)



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「田村四十八舘東方与力」 御春輩(みはるのともがら) 田村武士団その3



御春輩(みはるのともがら)「田村四十八舘」田村武士団その3


室町幕府・足利政所の衰退からの戦国時代、織田信長による“いつでも”戦いをすることができる“銭で雇った兵”の創設を原資とする「農兵分離」政策によって軍事戦略が劇的に変革して、四季を通じて一年中戦が出来るようになります。

それまでの農民=武士(兵士)では、春秋の農繁期になると田植えや稲刈り等農作業で忙しく戦どころではありません。信長以前には戦国最強と云われた武田や上杉などの軍勢も既存の農民兵が主体なので、軍事行動は春と秋の農繁期を避けて行っていました。


地方の国人衆は、「兵農分離」そして太閤秀吉による「刀狩」等の政策を導入するという段になって、先祖伝来の所領(土地)がある「在家惣領家」は、その生活(収入)基盤である所領を手放してまで武士(兵士)として生きるという選択肢はあり得なかったと考えられます。


「上石過足舘」 中山太郎右衛門尉







「牛縊舘(うしくびりたて)・城」

 牛縊壱岐五郎エ門 三百五十石 三春札場迄一里半 出舘として「白石館」、「八幡館」がありました。


「樋渡舘」樋渡藤八郎

「駒枝舘」永井五郎


「黒木舘」黒木信濃守 田村旗本近習 与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳 

「海老根舘」三本木十郎右エ門


「赤沼舘」赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里







「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」

木目沢式部内蔵之助 田村家御一門中御家門方

内蔵之助の一男善次郎。 田村家宿老田村月斎末裔

孫大槻内蔵之助。(田母神氏旧記)

出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継(田村月斎の7男)の居館

そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。


 木目沢鎮守三渡神社では木目沢三匹獅子舞が伝承。

口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。








「下枝上舘(したえだかみたて)」 旧御舘村下枝 

三春城主田村氏の一門、田村四天王と呼ばれた重臣橋本刑部少輔顕徳(あきのり)の居舘。

田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。

田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も田村月斎顕頼二男との記載が在り.

弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春城主・田村家三代清顕の死後、田村家中が相馬方(清顕夫人実家)と伊達方(伊達政宗夫人・愛姫嫁先)に二分する御家騒動の際には伊達方につき、家中を伊達方へ導きます。

仙台藩片倉家文書の中には、田村宿老「橋本伊豫守」及び橋本又十郎の名がありますが刑部は別と考えられます。

天正17年には、清顕亡き後の田村家混乱に乗じた岩城城主岩城常隆勢が、田村家中の反伊達派の加勢を受けて田村領に侵入し伊達派の拠点となる鹿股舘、門澤館と次々に攻め落とし、次に伊達派の統帥橋本刑部が護る下枝舘に狙いを定め攻撃を仕掛けますが、逆に迎撃した田村勢によって撃退され大敗を喫しています。


その際、田村を離反し岩城勢に組した元船引城主田村清康、飯豊舘主郡司某(敏良?)など多数の田村家旧臣が討ち取られています。







「下枝脇舘」旧御舘村下枝 三春田村氏没落後に廃城。

三春城主田村氏の重臣、横田盛尊・平内左衛門の居舘

横田盛尊は、会津城主芦名盛實の二男綱實で、安積郡横田城に在って横田氏を名乗ります。

その五世の孫にあたる盛兼の代に、須賀川城主二階堂遠江守に攻められ横田城は陥落、平姓田村満顕に属します。

以来、代々田村氏に仕え金屋平舘に居住します。

盛兼の孫、盛尊になって下枝脇舘に移居し、後の綱晴の代、天正十八年に三春田村氏の没落により帰農し、柳橋村字篠坂(現中田町柳橋字篠坂)居住します。

以来、その子孫が継承して十四代(明治期)当代の朝右衛門まで横田氏伝来の寶を伝承していると伝わっています。




   

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塵壺374号 令和4年9月発行  「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2



塵壺374号 令和4年9月発行

 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2

 中世の室町時代、田村庄を含む仙道(現在の福島県中通り一帯)はもちろん東国では鎌倉公方、そして奥州探題白川(白河)結城氏の「田村御退治」に対抗した「田村庄の乱」など戦
国乱世と呼ばれるような所領を巡った絶え間ない戦が続きました。


 田村地方の領主である田村庄司田村氏及び後の三春田村氏は、御屋形・惣領を頂点として、「血縁」や「契り」によって結集した一族郎党や旗下に在郷の地侍の集団「洞(うつろ・ほら)」、又は「~内」、「~丸」といったこの時代独特の集合体をその統制下に置いて権力基盤を編成・構築していました。 

 平姓三春田村氏が永正子年に、三春大志多山に本城を築き、これを中心に田村領内に幾多の支城を設けます。これが後に云う「田村四十八舘」です。

 当時、関東では鎌倉公方(古川・堀越公方)と関東管領の混乱から始まったとされる「享徳の乱」以来、長い戦乱の中で兵器や戦術にも著しい発展を示しはじめ既成の秩序や価値観を含んだ領国経営の戦略や戦術などを考慮した城郭・舘も領内防衛上の必要性から進化し再構築されていきます。

 

「田子森舘」

要田村荒和田にあり、応永年中、田村持顕築き、持顕よりその子である直顕、そして弟の重顕、また、その子の広顕と続き以来子孫が相次ぎ領していました。

天正十八年、田村家の没落の折には、田村姓を橋本に代えて当代当主の時顕は帰農しに野に下り荒和田村の里正となります。

後に房に至り、文政六年、秋田氏に仕え子孫は、三春に居住。尚、その裔の荒和田に居る者は、荒和田を氏としています。


 「笹山舘」 笹山五郎兵衛の居住。六百九十三石

 「石森舘」 舘主 金堂右エ門  七百六十石 三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」 舘主 鹿又備前   七百九十石

 「長外路舘」旧美山村大字長外路字瀬戸久保に在り。鹿又孫作の居住。

 「船引城」 田村秀明 七千三百石 本丸、西ノ丸、東出丸、辰巳丸
 
 「春山舘」太田信濃守 千五百石 三春札場迄一里二十丁 旧文殊村春山の東部にあり。

 「五舘跡」 片曾根村大字今泉に五の舘跡があります。

 「日梅舘」は新屋敷に在り。「松舘」は字戸澤に在り。

 「平舘」は字堀之内、「甲舘」は字古舘に、「乙舘」は平澤前。

 この五舘は、三春城主田村氏の臣が居住していましたが、その詳細は不明です。


 「黄龍舘跡」

旧美山村大字北鹿又に在り、移ケ岳の麓に屹立(きつりつ)し、その地形たるや蜿蜒(えんえん)と龍が翻(ひるがえ)るが如く見えることから黄龍舘とよばれていました。

永禄年間には松平刑部太夫が居住。 天正期に至って没落したといわれています。  

 いつの事かは不明ですが、山の頭部に湛(たた)へ曲流(きょくりゅう)する流水を稲田に灌漑(かんがい)しようと、その頭部を切開しました。

その工事は至難と思われましたが、村のためにと村人が従事し成功に至ります。後に、七日間に亘って“紫の水”が流出したことからその川を「紫川」と呼ぶようになります。また、その場所に薬師様と稲荷様を勧請し祠を建立して「堀切薬師」「堀切稲荷」と称するようになったと伝わっています。

田村郡郷土史参照


別記の資料によりますと、天長7年(830年)鹿又字舘地内を曲流する流水を稲田に導くための工事を行い、工事の完成を見る頃にこの地に巣くっていた大蛇を発見、数十人でこれを退治します。

すると大蛇の胴体からの血潮が川水に混じると“紫色の川”となり、七昼夜にわたりこの川下を紫色に染めて流れ、人々はこの川を「紫川」と呼んだという。

 この大蛇の頭は、川を流れ川下一里余門鹿の樋の口に流れ着き、門鹿村の人々がこれを拾い上げ手厚く葬られます。

 その地が今も史跡蛇盛塚(蛇盛稲場)幕の内地内にとして残り、村人は、その労苦と霊を慰めるため、薬師堂を建立(後の廃仏毀釈により、別の寺に安置)。

また、飛田家の祖先が三春滝桜の地より求めこの蛇盛塚に植樹し「蛇盛塚桜」と呼ばれ、今でも春には可憐な桜花を咲かせています。
 

「移舘」

旧美山村大字南移字町に在り。回字型の濠跡など昔の姿をとどめています。

舘主は、菊池五郎右衛門の居住。その菊池一門と称される者は五家があり、現在も周辺に居住されています。



   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


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塵壺373号「自由民権運動資料と幻の{三陽雑誌}~三春町史編纂秘話」令和4年8月



塵壺373号「自由民権運動資料と幻の{三陽雑誌}~三春町史編纂秘話」令和4年8月10日発行

  自由民権運動資料と幻の「三陽雑誌」~三春町史編纂秘話

『塵壷』に歴史に係る原稿を掲載する場合には、私にとって“三春町史”が一番大切な参考書です。

索引も入れて全11巻からの町史は他に類を見ない規模で、昭和48年度から始まったこの事業は昭和61年の最終発刊まで約15年を費やし、その資料調査は、北は青森県浪岡町から、南は和歌山県新宮市と高知県高知市までに及んでいます。


その編纂業務が資料調査をはじめいかに大変なものだったかを、当時の事務局員であった大先輩の田中金弥さんに聞く機会がありました。


自由民権運動の執筆者は、故高橋哲夫氏(私の大伯父)で、田中さんと二人で48年の夏に東京の国会図書館など、そして翌年の夏には高知県立図書館などで資料調査を行っています。

当時は、今のような高性能のコピー機もなく、高橋先生から指示のあった個所は、すべてカメラによる接写であり、失敗は許されません。そのため田中さんにとっては、帰町してからフィルム現像が終わるまで心配でならなかったそうです。

初めての国会図書館での資料調査は『河野文書』が主目的だったそうで、その結果“戊辰戦争の際、会津攻めの途中で土佐藩家老の板垣退助が三春の春田橋で河野広中らと会談している”という新たな発見もあったりしましたが、すべてが緊張の連続だったそうです。

 高知での調査を終え、帰路の新幹線の中で田中さんが「先生。資料はどのようにして見つけるのですか?」と尋ねると、「君にはまだ分からないだろうが、真剣に研究を続けていると、不思議なくらい資料のほうからお呼びがかかるのだよ」という思いもかけない答えが返ってきたと話されていました。



 その時は「そんなことはない!」と思っていたそうですが、この言葉が現実となったのは、それから33年後の2007年11月のことで、その年には、70年以上に及ぶ自由民権運動に関する高橋先生の資料すべてが、三春町に寄贈されることになりました。


田中さんはその当時、議会事務局に籍を置き退職間近でしたが、先生宅で寄贈資料の整理のお手伝いを続けていました。

そんなある日、田中さんの友人である仙台市の博物館長の佐藤憲一氏から特別展に招かれ出かけて行きました。

観覧が終わり、館長室で歓談していたとき、信じられない『奇跡』が起こったそうです。

佐藤氏は席を立ち、自分の机の引き出しから古びた冊子を出し「金弥さん。三春にはこの冊子はあるんでしょう?」と尋ねられます。

その冊子を見た田中さんは自分の目を疑ったそうです。

それは何と、幻の雑誌と言われていた三春出身の河野廣中が主催する三春町にあった政治結社「三師社・正道館」が独自で発刊した自由民権運動にかかわる「三陽雑誌」全四巻すべてでした。





東京大学などに一部はあったものの、高橋先生の長年の心血を注いだ調査でさえも全四巻揃っては見つからなかった代物です。

高橋先生の資料が三春町に寄贈されることに理解を示された佐藤氏は「金弥さんにあげるから自由に使ってください」と話されたそうです。


田中さんは、すぐにその場で電話を借りて高橋先生のお宅に連絡をしてそのいきさつを報告したとの事です。


高橋先生も大喜びで、“三陽雑誌”も先生の資料と一緒に三春町に寄贈されることとなった、ということでした。

まさにこのことは、先生が話された「資料のほうからお呼びがかかる」という実体験だという話をしてくれました。






じっくりしっかりと事を行っていれば「吉報が向こうから来ることもある」ということも、私も実体験も重なって最近になって感じ始めています。

この三春町史編纂の陰には沢山の方々の努力とご協力があったことと思います。

さらに、全11巻という町史を発行する三春町の心意気に賛同され、編纂に携わった方々には、監修者も兼務した大竹正三郎氏はじめ、高橋哲夫氏・新田勝彦氏・大沢貞一郎氏・田中正能氏・菅野与氏・大内寛隆氏・田母野公彦氏・遠藤清一氏・渡辺康芳氏・川又恒一氏・渡辺義久氏など三春出身、そして、三春にご縁のある方々が多かったことは、我がふるさと三春町の誇りであると思っております。


     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


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