2024-10-30 Wed
三春舞鶴会第13回総会
令和6年10月27日(日) 於ルポール麹町(麹町会館)
私も、三春舞鶴会三春在幹事、役員として参加しました。
三春からは坂本町長はじめ、各種団体の代表の方々にご臨席賜りご挨拶及び近況報告などをいただきました。
担当は撮影班です。
八木沼今朝蔵三春舞鶴会会長の挨拶の中で、三つの良いことが今年あった。
一つは、長年のお付き合いのある友人と今年の春に念願かなって滝桜を身に三春へ帰省した。町の散策をした際に「いい町ですね」との言葉をもらった。
もう一つは、パリパラリンピックで男子車いすバスケットに競技に於いて三春出身の橋本君が中心選手である日本チームが念願の金メダルに輝いたこと。
さらにもう一つ、三春出身の登山家田部井順子さんの生涯を吉永小百合さん主演で映画化されるとのこと。
総会が無事成立して、懇親会です。
三春町(旧御木沢村)出身の画家、後藤茂樹さんより当三春舞鶴会副会長(会計)の關マサ様へ絵画「富士山」の寄贈があり総会出席者の皆さんの前で贈呈式を取り計らっていただきました。
後藤先生から「三春に生かされている」との御言葉に感動いたしました。
【後藤茂樹先生プロフィール】
・1931年 三春町生まれ
・陶芸、水墨画、油絵を学ぶ
・フランス ル・サロン展:銅賞(1978年)、国際大賞(1979年)
・日本南画院展:特賞(1979年)
・太陽展:文部大臣賞(1994年)
・三春町文化功労賞(1981年)
懇親会では、先輩方にご挨拶しながら有意義なお話を伺うことが出来ました。
楽しい時間はあっという間に過ぎるものです。
また来年の三春舞鶴会総会(14回)での再会を約して閉会です。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2024-09-05 Thu
「三春舞鶴通信 第24号」 三春舞鶴会広報誌
首都圏を中心とした県外にお住まいの三春縁の方々の会「三春舞鶴会」の広報誌です
私も三春在住の幹事として登録されています。
あとがき 髙橋龍一
福島県内の地方局テレ朝系KFB福島放送で放送されている夕方の情報番組「シェア」の中で、県内の市町村を紹介する「ふるさとシェア」というコーナーがあり、三春担当リポーターということで、私が担当して三春の催事を紹介する機会が年に数回あります。
今回は城下の若連さんのご協力いただいて「三春盆踊り」、先には今回の記事にもあります渡辺弥七さんの二人の娘さんが営む「蛙さんと安里、あずさの家」を、生中継を交えて紹介したところでした。
KFB福島放送シェア ふるさとリポート 三春
「安里窯とあずさと蛙さんの家」 旧中郷小学校狐田(きつねだ)分校跡
その他、以前の紹介で「真照寺節分会」や「紫雲閣」、「三春大神宮中町若連・川崎神輿」、「伊勢朝熊秋田實季公幽閉庵永松寺」「田村太元神社祭礼」等々、三春関連の歴史や祭礼を交えてご案内しています。視聴はYouTubeの検索で「シェア 三春」と検索していただければ、福島放送の番組公式YouTubeから私の担当した放送が見れるかと思います。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2024-02-29 Thu
三春舞鶴会通信 第23号 寄稿
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一
三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏
三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。
三春初代秋田俊季の祖父安東愛季
安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。
蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。
「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。
「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。
後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。
以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。
蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。
若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像
奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。
羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。
この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。
さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。
若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。
高野山奥之院三春秋田家墓所
奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。
他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。
尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。
蒼龍謹白 拝
三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍
2022-10-13 Thu
三春舞鶴会機関紙「三春舞鶴通信第20号」 令和4年10月2日発行
三春舞鶴通信の第20号に寄稿いたしました。
「三春産馬」三春町×montbell×おたりまんじゅう×サライ
三春は「東北の小鎌倉」と呼ばれる小さな城下町です。三春滝桜のお陰で毎年春の開花の時節になると全国、近年では世界中から“紅枝垂れ桜の綺麗な小さな城下町”と脚光を浴びています。
その三春城下で小さな饅頭屋「三春昭進堂」を営んでいますが、当店の知名度を全国区にするのは途方もないお金と労力が掛かります。
しかし、三春滝桜という最高の広告塔のお陰で「三春」をメインに宣伝・案内すれば「三春の饅頭屋」ということで全国区に近づけると考えて「三春の宣伝9割、饅頭の宣伝1割」の情報発信を続けています。
毎年、春先になるとテレビ雑誌等のメディアの方々からの当店へ問い合わせや取材依頼が多数寄せられるのもそうしたことからだと思っています。
それに則って、私も小さな営業マンとして微力ながら各種メディアやホームページ、そして毎月発行の新聞折り込みチラシ「塵壺」(旧三春藩領内1万5千部発行)などを通じて「小さな城下町三春」を自分のスタンスで宣伝しています。
昨年の夏から地元テレビ局KFB福島放送の番組「シェア」に出演(月一回程度)して三春昭進堂や滝桜はもちろん田村大元神社や真照寺等々の寺社仏閣、そして、若松屋旅館や三ツ美屋旅館などの繁盛店を案内してきました。
“三春が好きで三春の歴史の興味を持ち楽しんで生活しています!”と、三春の小中学校や高齢者学級などから講話依頼を受けた時には塵壺を元に三春の歴史を中心にお話をしています。
お陰様で、東日本大震災や昨今の新型コロナウイルス蔓延の中にあっても順調に商いを続けることが出来ているのも故郷“三春”に護られているということなのかもしれません。
また、三春の歴史や歴代三春城主のお名前を広告や講話の中で一番使わせていただいていると思っていますので、御礼の意味も込めて伊勢神宮参詣の折には伊勢朝熊にある永松寺(實季公の幽閉草庵)の三春藩主初代秋田俊季公実父、高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にて手を合わせ、宮城は白石市では片倉家廟所の近くにある田村清顕公の墓前にも参ります。
先には、小学館発行の人気雑誌「サライ」(令和4年10月6日発刊)へ三春町の特集が4ページにわたって掲載され当店も取り上げられています。
この特集は、三春町と連携協定が締結されたアウトドア用品メーカーのmontbell(モンベル)、そして、サライも加わっての「三春特集」です。
三春を掘り下げて紹介するという企画の中で、三春滝桜はもちろん三春出身のアウトドアの第一人者である故田部井淳子氏と共に「三春産馬」が取り上げられ、「三春産馬」や通称“せり場”と呼ばれる「旧三春家畜市場」、そして、そのせり場に隣接する三春昭進堂と“歴史に詳しい饅頭屋店主”として担当の記者から引き合いがあった次第です。
以下は、小学館「サライ」の取材時に説明した内容です。
三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。
明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に買い求めてもらおうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、“おたりさん”が造る
三春名物「おたりまんじゅう」として現在でも三春内外の方々に親しまれています。
三春産馬(三春駒)の起原は古く、歴史をたどってみると坂上田村麻呂伝説から始まり、 安倍貞任を八幡太郎源義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと記録さす。
更に戦国大名三春城主田村義顕公の頃、三春城下荒町と堂坂(現郡山市西田町堂坂)に馬頭觀世音を建立、信仰したといわれています。
天正年間、渡辺助左エ門が徳川家康小山陣の折に黒駿馬14匹を奉献したと伝えられ、江戸時代に入って秋田河内守俊季公の三春入府後には、ますますその増殖がはかられています。
秋田藩政では「馬奉行」を設けて産馬殖産され藩主参勤交代の際には黒毛駿馬を献上するなど、坂上田村麻呂の三春駒伝説以来、全国有数の農耕馬や軍馬の産地として知れ亘る様になりました。
三春産馬競り市場は通称「せり場」と呼ばれ、旧三春藩領の馬・牛の競り市は、現在と同じ城下新町の真照寺下の広場で盛大に行われてきました。
新町は、江戸期より三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城海道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りなど藩の政策が明治期以降も生かされ三春の自由民権運動を資金面で支えるような大商人や庚申坂(後弓町新地)に遊里が軒を並べていました。
明治維新後から昭和初頭にかけては農耕馬、そして陸軍納入軍馬のせり市場として最盛期を迎え、雌馬の市が五月、雄馬の市が十一月に大々的に開かれ全国の馬喰たちが多数来町して三春城下は馬市一色の賑わいを見せたと云われています。
競り市の開催時に新町筋には、茶店や露天商の屋台が大元帥明王下の山中まで建ち並びました。
夜ともなれば遠来の馬喰や馬を売買に来た農家たちが繰り出す「旧庚申坂遊郭弓町新地」からお囃子の太鼓が鳴り響き、この界隈は祭礼のごとき賑わいでごった返しの人出があったといいます。
今でも、新町筋で「相模屋」「長門屋」「仙台屋」「谷屋」などと屋号で呼ばれている家がありますが、当時の馬喰宿時代の名残でそれぞれに庭先に馬小屋をおいて宿としていました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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