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三春舞鶴通信 第16号 令和2年1月14日発行



三春舞鶴通信 第16号 令和2年1月14日発行

三春に縁のある首都圏をはじめとする県外の方々が中心となって結成された三春舞鶴会の会報誌「三春舞鶴通信第16号」が前編集長の佐久間健さまから届きました。

佐久間様は、この会報立ち上げ時より編集長を長年務められ、第15号の発行をもってその職務を退任されました。
立ち上げの苦労、そして8年にも及ぶ長期にわたる編集長の職務遂行には大変お疲れさまでした。
お陰様で楽しい会報誌を拝読することができました。
心より御礼申し上げます。






第16号より、代表者織方郁映会長以下、吉田公寿編集長、菅野吉雄編集員、小川知子編集員、きりえカットに小倉修子さまという陣容で三春舞鶴通信の発行を担って頂きます。


「座談会 三春舞鶴会の現状と今後 ~三春舞鶴通信を巡って~ 」と題されて、当号に記載されていますが、皆々様の熱意ある行動で益々当会が盛り上がて行きますことをご祈念申し上げます。

楽しみにしています。
どうぞよろしくお願いいたします。







さて、第16号では、冒頭に玄侑宗久さまによる“令和の「治水」へ”と題された寄稿に始まり、会員の方々の文章を楽しく拝読させていただきました。

そして、長年本田技研でデザインを担当されていた日向野隆三様の三春での疎開体験の文章と絵を拝読させていただきました。
また、先日(2019.12・21)、「The Japan News」に、「ホンダ スーパー・カブ 世界生産累計4億台 突破 」の記事が載っていました。
日向野さんは、この「スーパー・カブ」のデザインにも関わったと聞き及んでいます。





今回は、わたくしも菅野編集員の推挙もあって会員寄稿文「三春を語る」に「おたりまんじゅう おタリさん」と題しておたり饅頭の由来、そして三春初?となるオリンピック出場候補近内三孝君に関連した文と、「ペンリレー ペンをバトンに代えて繋ぐ」のコーナーに菅野様からのバトンリレーということで当店発行の宣伝チラシ「塵壺」の名前の由来についてと2コマに寄稿させていただきました。
発表の場をいただきありがとうございました。

店内に配していますのでご自由にお持ちください。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:59 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
香港の友人からのクリスマスカード



香港在住でLOYAL PACIFIC LTD 代表の国馬美佳さまから、メッセージ入りのクリスマスカードと2020香港カレンダーがエアメール便で届きました。

ありがとうございます。 

美佳さんのお父様は、三春舞鶴会元役員の国馬伸夫様です。

伸夫様は、郷土三春の発展には名ばかりではなく「実」を伴った振興策がなくてはならないと自ら三春製作所(後の日立AIC)を創設され、私たち三春の商人ガンガン指針とする先輩の一人であります。

その娘さんが、お母様と御主人と一緒に今年の秋、お墓参りを兼ねて三春へ帰京された際にご来店いただきました。







香港が何かと騒がしい時節でしたので、香港事情などを伺ったり、お父様である伸夫様の思い出話などを伺いました。

その折には、香港の月餅をお土産に頂きまして本当にありがとうございました。

またのご来店をお待ちしています。









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。2





三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。②

下記の返信内容です。
お願い②
おたりおばさんのこと、もっと知りたいです。
例えば、おたりおあばさんが、よく言っていたこと、よくやっていたこと、などなどなんでもいいです。

曾祖母なのでおタリさんの言動については知る由もありませんが関連徐行を返信いたしました。







  おたりまんじゅう おタリさん 記
当三春昭進堂は私で4代目、おたりまんじゅうの由来となる、おタリさんは曽祖母となります。
おタリさんの亭主は、髙橋民四郎と云います。込木は柳作の本家から苗字だけを頂いて分家しました。民四郎さんは、子供の時分より、講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。
また、政治や時事論が好きで、昼間から客と酒を酌み交わし時事を論じあっていたようです。

その間、おタリさんは、せっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。
遺影を見るとお世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。






おタリさんは、滝桜の先にある根本の近内家の生まれです。
この根本には、「根本八王子神社」や「笠石八幡宮」、そして田村三十三観音第二十九番札所「真言宗光谷東光寺」があり、温和な人々が暮らす、信仰のあつい郷で、春には至る所に枝垂桜、八重桜、染井吉野が咲き乱れ、秋の紅葉も見事です。





 征夷大将軍八幡太郎義家の東征にゆらいする笠石八幡宮は、柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにありますが、その参道に昭和14年改築記念の寄付芳名石版があり、髙橋タリの名前が読み取れました。

おタリさんが、商売繁盛、家内安全を祈願して生まれ育った根本にある笠石八幡宮に寄付したものでしょう。

また違う石版は、皇紀二千六百年大慶記念の石碑ですが、おタリさんの長男で当店の先々代髙橋伝造の名前も見えます。
母親である、おタリさんの信仰を受け継いだのでしょう。 






来年の2020東京オリンピックにちなんで、三春名物「おたりまんじゅう」のおタリさん系の親戚にあたる、重量挙げの近内三孝(みつのり)選手(23)=日大職員(三春町立さくら中学校・田村高校出身)を紹介いたします。

先に開かれた第74回国民体育大会「いきいき茨城ゆめ国体」重量挙げ成年男子七十三キロ級でスナッチ141キロ、ジャーク171キロ、トータル312キロでいずれも優勝しました。
 近内三孝選手は、滝桜のちょっと先三春町根本の出身で、当三春昭進堂の創業者で”おたりまんじゅう”の名前の由来ともなった髙橋タリさんの実家である近内氏系の親戚となります。
お父さんはもちろん、おじいさんも旧知の間です。
また、三春城下新町の真照寺の檀家さんでもあります。





 

近内選手は六本の試技を全て成功させ、スナッチは最終試技でトップの選手を1キロ上回り、ジャークは三回目にただ一人、170キロ台に乗せました。

東京オリンピックも見えてきたんじゃないでしょうか?





親戚からオリンピック選手!

三春からオリンピック選手!

本人の意気込みと共に、三春町民として期待が膨らみます!

真照寺御本尊「不動明王」さまに、必勝祈願です!

そして、笠石八幡さま~

ガンバレ三孝選手!







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。



三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。①

下記の内容です。

三春昭進堂で月ごとに発行している情報誌の名は「塵壺」である。
幕末の越後長岡藩家老河井継之助の遊学旅日記「塵壺」から名つけたとのこと。
素晴らしい命名と感動しました。

お願い①

この命名(経緯、思い等)について、もう少し教えてください。







 三春昭進堂「塵壺」 越後長岡藩非門閥家老河井継之助

三春昭進堂で毎月、発行している新聞折込チラシに「塵壷」というものがあります。三春・船引・中田・西田等15000部の折込です。

私が家業を継いで平成3年から発行しているチラシで341号を迎えます。

このチラシは単にお菓子の宣伝に限らず、四季折々の「三春の行事」紹介や三春の寺社仏閣・三春藩時代の歴史の紹介そして仏教のお話など、「如是我聞」と題して、コラムを掲載する手作りのチラシです。

この「塵壷」という名前の由来は、幕末の長岡藩士河井継之助が、安政六年に越後長岡藩の富国強兵、そして財政建て直しを学ぶべく、備中松名付けていますが、「如是我聞」の取材を通じて人生の諸先輩方やお客様から様々な事柄を学ぼうという気持ちから名付けました。






私と継之助との出会いは昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」でした。

司馬遼太郎原作の「花神」の中で、髙橋秀樹扮する長岡軍事総督河井継之助が、会津藩と薩長藩の間に入って調停を試みるというくだりがありました。
当時小学生だった私でも、田舎大名の家老風情が何を言っているのか?と疑問を持ってしまいました。





また、その世界情勢を見極めての発言や行動には感動したことを覚えていました。
さらには、その責任の取り方に「男」を見たような気がして以来です。






そして、平成元年に当三春昭進堂に就職して今後の方向性を模索していた時に、カネサン書店で司馬遼太郎著「峠」の上下巻との出会いが全ての始まりだったような気がします。

幕末の戊辰戦争で最大の激戦を繰り広げた北越戦争。田舎の小さな大名長岡藩牧野家、しかも一代限りの家老継之助が「永世中立」を唱え“会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す”という壮大な計画を企みます。

その交渉の場である「小千谷談判」が決裂し平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦う姿に“カッコイイ大人”と思った
のが始まりです。





長岡は、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。

さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。

後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。

大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。





昭和14年に山本五十六が母校の長岡高等学校で講演したときの言葉を紹介いたします。

私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し
将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願い申し上げます。 山本五十六

河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。






奥会津の只見町には立派な河井継之助記念館があります。

 北越戦争で薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど約三カ月に亘り激戦を繰り返す中、継之助が足に銃弾を受け重傷を負ってしまいます。
軍事総督が倒れた長岡藩は、抵抗むなしく敗走となり長岡から”八十里峠”を越えて会津若松城下を目指す途中、この只見・塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。






塩沢についた継之助は、追撃する西軍が迫る中、自身の死を悟り、下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を見つめながら息を引き取ったと小説「峠」では締めくくられています。

30年位前に私が初めて訪れた時には、まだ矢沢医師の子孫である強面のおじいさんが、只見ダム建設に伴う川増幅移転の際に「河井継之助終焉の間」を自宅横に移築して細々と個人記念館として開館していました。

遺品や説明のパネルが並ぶその「終焉の間」は、小説「峠」に在る河井の終焉の場面で、“矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~”という下りを真似して、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が思い出されます。






冬です。
毎年のことですが、雪の片づけをしていると司馬遼太郎の小説「峠」の一節を思い出します。

幕末の越後長岡藩牧野家の家老河井継之助を描いたその「峠」の中に,「雪が来る」そして「北国は損だ」という言葉が出てきます。

私も、北国に住む者として、司馬作品の中でも最高の文章表現だと思っている箇所の一つです。
さらに続きます。
・・・・北国では町中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。
が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。
・・・・(北国の人々は)鈍重で、折れ釘や石ころを呑めといわれればのんでしまう連中だ。のむ前はさすがにつらい。
つい大酒をくらう。大酒で勢いをつけ、唄でもうたって騒ぎ、いざのみこんでしまっては、ぼろぼろ涙をながしている。

これは、長岡だけではなく、北国の城下町に住む方々の独特な感覚でしょう。
正に的を得た表現だと思っています。







「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助
 幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩(現新潟県長岡市)軍事総督・非門別家老河井継之助を題材にした司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が「峠・最後のサムライ」のタイトルで映画化されます。監督は小泉堯史氏、2020年に全国公開。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役には松たか子、その他田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演します。

「峠 最後のサムライ」物語の舞台は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。
越後の譜代大名長岡藩牧野家は、継之助の指揮のもと藩行財政改革を断行して借財の返済、そして藩費貯蓄の増加を計ります。






また、当時世界で3門しかなかった最新鋭の「ガットリング砲(機関砲)」そして、元込式標準器付きの螺旋銃 「エンフィールド銃」等、世界でも類を見ない武器と調練によって最強の精鋭部隊を組織していました。

その武力を背景に内戦の無意味さを訴え永久武装中立を主張、そして戦争回避のために薩長土肥を中心とする西軍と会津藩を中心とする東軍の停戦調停の仲立ちを企てます。

しかし、東西両軍からの各種妨害工作によって結果的には東軍に加盟し西軍と対抗する道を選んだ継之助の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。

 この幕末明治初頭の混乱期、内戦の無益さと欧米列強の内政干渉による危機感、そして、国益損失を政治的に考えられたのは勝海舟と継之助だけだといわれています。

継之助は、独自の近代的な発想とその先見性をもって戊辰・明治の混乱が終わるまでは長岡藩七万四千石を、欧州におけるスイス国のように一つの中立国家として独立することを目指していました。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 第15号




三春舞鶴通信 第15号

主に首都圏に三春からは離れて暮らす三春縁の方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第15号が発刊され、事務局の佐久間様より送付いただきました。

早速、三春昭進堂店内配置分もございますので、早速店内に配させていただきます。

冒頭、三春歴史民俗資料館の藤井典子さんの「田村会雑記」に助けられてから始まります。


先に内藤則邦さんから寄稿された「三春会」後に「田村会」、そして「田村学寮」関連の寄稿が多く楽しく拝読させていただきました。







田村会

当時、青雲の志を抱いていてふるさと三春から上京した人々の会です。

明治13年に、「三春会」が発足し、明治35年に始まった「田村青年会」は3年後には「三春会」と合同して「田村会」へと改称、「田村会雑誌」も発行された由。



織方会長の「田村会」と「三春舞鶴会の中で、初代田村会会長が河野広中衆議院議員だったこと、田村会結成趣旨が三春舞鶴会と同じく”会員相互の親睦と、会員及び三春町の発展に寄与すること」ということが唱られていること・・・


また、橋本捨五郎さんによる「田村学生寮」異聞でには、元家老家の浪岡具雄から「修行するのは少壮の時である。一家の些細なことに拘わり合っていつまでも田舎に居ると。、一生の悔いになる。早々に上京すべき」と上京して勉学に励むことを進められた加藤木三兄弟の話。
また、戦前の三春小学校の卒業式に於いて成績優秀者に秋田賞と加藤木賞が贈られていたこと・・


菅野吉雄さんの「田村学寮」跡を訪ねてでは、浪岡具雄が田村学寮建設を提唱したこと。「田村学寮雑誌」を全八巻を合本して残したこと。
深間内久蔵氏が千三百余圓の私財を投入し建設資金にしたことや藤泉賢四郎(後の大林組社長大林賢四郎氏が設計施工を請け負ったこと。
田村学寮は、谷中坂道52番地に建設され、その後の織方会長の調べでは、学寮は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失したことまでが判明していることなどが記載され興味をそそそられます。




三春城下清水にある天澤寺本堂内の掲げてある河野広中直筆の般若心経写経



ペンリレーでは、たくさんの方々の寄稿があり楽しく拝読できました。





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| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 第14号




三春舞鶴通信 第14号



主に首都圏に三春からは離れて暮らす三春縁の方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第13号が発刊され、事務局の佐久間様より送付いただきました。

また、三春昭進堂店内配置分もございますので、早速店内に配させていただきます。








中を拝見させていただきますと、日系ハワイ移民の父と称された三春出身の勝沼富造氏関連となる橋本捨五郎様のハワイ州キング ケアウリケ高校と題された寄稿に始まり、会員の方々の思い思いの寄稿が紙面を埋め尽くし読みごたえがあります。

また、児童画・イラストレーターのわたなべあきお氏の作品展の模様も見えます。







最終ページにあった「お便りです」が「紙上談話室 ~お便りです~」と改題されています。
会員の方々に気楽に投稿してもらおうと改題された由、談話室となって、肩の力も抜けて気楽に投稿できそうですね!

今後が楽しみです。










今回の舞鶴通信の中で、舞鶴会役員の国馬伸夫様が他界されたことを知りました。

2年前の舞鶴会総会にお邪魔した折にご挨拶をしたばかりでしたので驚きでした。

衷心より、ご冥福をお祈りいたします。



合掌







真照寺山内の三春古四王堂も修復再建も順調に進んでいます。



春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍







| ryuichi | 05:05 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 第13号


三春舞鶴通信 第13号



主に首都圏に三春からは離れて暮らす三春縁の方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第13号が発刊され、事務局の佐久間様より送付いただきました。

また、三春昭進堂店内配置分もございますので、早速店内に配させていただきます。








中を拝見させていただきますと、秋田修さまの寄稿「お城山」が目に飛び込んできました。

つい先ごろ庭師の磐梯造園様より秋田家のお庭整備の話を伺ったばかりなものですから身近に感じます。

秋田さんの御庭か紅枝垂れ櫻の老木と猫冢が発見されています。


文爺こと渡邊文司様はじめたくさんの方々の寄稿で読みごたえがあります。




合掌



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| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |