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「三春滝桜 安倍一族興亡の歴史 3」「遥かなり邪馬台国 安倍一族興亡の歴史 2」 長尾 まり子著




三春舞鶴会会員の千葉在住の星野様より本をいただきました。

以前三春舞鶴会の総会に於いてお会いしたことのある郷土の大先輩です。


「三春滝桜 安倍一族興亡の歴史 3」「遥かなり邪馬台国 安倍一族興亡の歴史 2」 共に著者は、千葉県の長尾 まり子氏の作品です。






三春舞鶴通信第23号の寄稿した文章を見ていただき送付いただきました。

ありがとうございます。






ご縁をいただきましたこと、大変うれしく思います。



今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
三春舞鶴会通信 第23号「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 




三春舞鶴会通信 第23号 寄稿

「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一


  三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏


三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。

安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。 







三春初代秋田俊季の祖父安東愛季

安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。

また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。


蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。

「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。









「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)

天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。

特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。

この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。

「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。

後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。

以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。

蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。






若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像 

奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。

羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。

この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。


さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。

若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。








高野山奥之院三春秋田家墓所 

奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。

 他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。

尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。



蒼龍謹白  拝 


三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
三春舞鶴会 第12回総会・懇親会の資料を送付いただきました。




三春舞鶴会 第12回総会・懇親会の資料を会長の八木沼様より送付いただきました。


三春舞鶴会の総会は四年ぶりの開催ということで、心よりお喜び申し上げます。


また、会長も織方さんから八木沼さんへと新体制となった由。


私も、在三春の幹事、及び三春舞鶴通信の編集委員を仰せつかりました。


ご指導ご鞭撻をいただきましてその役目を果たしたいと存じます。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 第21号 令和5年2月19日発行





三春舞鶴通信 第21号 令和5年2月19日発行

三春に縁のある首都圏をはじめとする県外の方々が中心となって結成された三春舞鶴会の会報誌「三春舞鶴通信第22号」が届きました。






会報の編集から発送までに関わってくださった編集委員皆さまに於かれましてはお疲れさまでした。



会報を届けてくださって有難うございます。

御礼申し上げます。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信第20号寄稿 「三春産馬」三春町×montbell×おたりまんじゅう×サライ 



三春舞鶴会機関紙「三春舞鶴通信第20号」 令和4年10月2日発行


三春舞鶴通信の第20号に寄稿いたしました。


「三春産馬」三春町×montbell×おたりまんじゅう×サライ 

三春は「東北の小鎌倉」と呼ばれる小さな城下町です。三春滝桜のお陰で毎年春の開花の時節になると全国、近年では世界中から“紅枝垂れ桜の綺麗な小さな城下町”と脚光を浴びています。

その三春城下で小さな饅頭屋「三春昭進堂」を営んでいますが、当店の知名度を全国区にするのは途方もないお金と労力が掛かります。

しかし、三春滝桜という最高の広告塔のお陰で「三春」をメインに宣伝・案内すれば「三春の饅頭屋」ということで全国区に近づけると考えて「三春の宣伝9割、饅頭の宣伝1割」の情報発信を続けています。

毎年、春先になるとテレビ雑誌等のメディアの方々からの当店へ問い合わせや取材依頼が多数寄せられるのもそうしたことからだと思っています。

それに則って、私も小さな営業マンとして微力ながら各種メディアやホームページ、そして毎月発行の新聞折り込みチラシ「塵壺」(旧三春藩領内1万5千部発行)などを通じて「小さな城下町三春」を自分のスタンスで宣伝しています。






昨年の夏から地元テレビ局KFB福島放送の番組「シェア」に出演(月一回程度)して三春昭進堂や滝桜はもちろん田村大元神社や真照寺等々の寺社仏閣、そして、若松屋旅館や三ツ美屋旅館などの繁盛店を案内してきました。

“三春が好きで三春の歴史の興味を持ち楽しんで生活しています!”と、三春の小中学校や高齢者学級などから講話依頼を受けた時には塵壺を元に三春の歴史を中心にお話をしています。






お陰様で、東日本大震災や昨今の新型コロナウイルス蔓延の中にあっても順調に商いを続けることが出来ているのも故郷“三春”に護られているということなのかもしれません。

また、三春の歴史や歴代三春城主のお名前を広告や講話の中で一番使わせていただいていると思っていますので、御礼の意味も込めて伊勢神宮参詣の折には伊勢朝熊にある永松寺(實季公の幽閉草庵)の三春藩主初代秋田俊季公実父、高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にて手を合わせ、宮城は白石市では片倉家廟所の近くにある田村清顕公の墓前にも参ります。






先には、小学館発行の人気雑誌「サライ」(令和4年10月6日発刊)へ三春町の特集が4ページにわたって掲載され当店も取り上げられています。

この特集は、三春町と連携協定が締結されたアウトドア用品メーカーのmontbell(モンベル)、そして、サライも加わっての「三春特集」です。

三春を掘り下げて紹介するという企画の中で、三春滝桜はもちろん三春出身のアウトドアの第一人者である故田部井淳子氏と共に「三春産馬」が取り上げられ、「三春産馬」や通称“せり場”と呼ばれる「旧三春家畜市場」、そして、そのせり場に隣接する三春昭進堂と“歴史に詳しい饅頭屋店主”として担当の記者から引き合いがあった次第です。





以下は、小学館「サライ」の取材時に説明した内容です。

三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。

明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に買い求めてもらおうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、“おたりさん”が造る
三春名物「おたりまんじゅう」として現在でも三春内外の方々に親しまれています。

三春産馬(三春駒)の起原は古く、歴史をたどってみると坂上田村麻呂伝説から始まり、 安倍貞任を八幡太郎源義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと記録さす。

更に戦国大名三春城主田村義顕公の頃、三春城下荒町と堂坂(現郡山市西田町堂坂)に馬頭觀世音を建立、信仰したといわれています。

天正年間、渡辺助左エ門が徳川家康小山陣の折に黒駿馬14匹を奉献したと伝えられ、江戸時代に入って秋田河内守俊季公の三春入府後には、ますますその増殖がはかられています。

秋田藩政では「馬奉行」を設けて産馬殖産され藩主参勤交代の際には黒毛駿馬を献上するなど、坂上田村麻呂の三春駒伝説以来、全国有数の農耕馬や軍馬の産地として知れ亘る様になりました。


 三春産馬競り市場は通称「せり場」と呼ばれ、旧三春藩領の馬・牛の競り市は、現在と同じ城下新町の真照寺下の広場で盛大に行われてきました。

新町は、江戸期より三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城海道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りなど藩の政策が明治期以降も生かされ三春の自由民権運動を資金面で支えるような大商人や庚申坂(後弓町新地)に遊里が軒を並べていました。







明治維新後から昭和初頭にかけては農耕馬、そして陸軍納入軍馬のせり市場として最盛期を迎え、雌馬の市が五月、雄馬の市が十一月に大々的に開かれ全国の馬喰たちが多数来町して三春城下は馬市一色の賑わいを見せたと云われています。

 競り市の開催時に新町筋には、茶店や露天商の屋台が大元帥明王下の山中まで建ち並びました。

夜ともなれば遠来の馬喰や馬を売買に来た農家たちが繰り出す「旧庚申坂遊郭弓町新地」からお囃子の太鼓が鳴り響き、この界隈は祭礼のごとき賑わいでごった返しの人出があったといいます。

今でも、新町筋で「相模屋」「長門屋」「仙台屋」「谷屋」などと屋号で呼ばれている家がありますが、当時の馬喰宿時代の名残でそれぞれに庭先に馬小屋をおいて宿としていました。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
香港在住でLOYAL PACIFIC LTD 代表の国馬美佳さまから、新春の挨拶カードと2021香港カレンダーが届きました。



香港在住でLOYAL PACIFIC LTD 代表の国馬美佳さまから、新春の挨拶カードと2021香港カレンダーが届きました。

ありがとうございます。 

美佳さんのお父様は、三春舞鶴会の元役員の国馬伸夫様です。






伸夫様は、郷土三春の発展には名ばかりではなく「実」を伴った振興策がなくてはならないと自ら三春製作所(後の日立AIC)を創設され、私たち三春の商人ガンガン指針とする先輩の一人であります。

昨年、その娘さんの美佳さん、お母様と御主人と一緒に今年の秋、お墓参りを兼ねて三春へ帰京された際にご来店いただきました。

香港が何かと騒がしい時節でしたので、香港事情などを伺ったり、お父様である伸夫様の思い出話などを伺いました。








先には、三春大神宮参道最上部にある「壽楽會」が奉納した石造灯籠に国馬さんのご先祖と思われるお名前を見つけました。










メッセージには、「香港、コロナ、アメリカと大きく時代が動き始めました。2021が良い変化の年になることを願うばかりです」と記されていました。


正に、世界規模で変革の年になるんだろうと思います。



コロナが収まったらになろうかともいますが、またのご来店をお待ちしています。


| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |
三春舞鶴通信 第17号 令和2年11月1日発行



三春舞鶴通信 第17号 令和2年11月1日発行

三春に縁のある首都圏をはじめとする県外の方々が中心となって結成された三春舞鶴会の会報誌「三春舞鶴通信第17号」が菅野吉雄さまから届きました。







玄侑宗久さんの寄稿「コロナ禍と心の制御」から始まり、元三春町長伊藤寛さん、村田マサさん等々、そして、蔵前から三春城下中町へ店舗移された「in-kyo」の店主でありエッセイストの長谷川ちえさんの寄稿も記載されています。






また、三春出身の画家渡辺あきおさんお作品や、日向野隆三さんおさし絵と文もあり、楽しんで拝読させていただきました。







ペンリレーということで、菅野吉雄様より、先に他界された遠山元信さんへの追悼文を起債していただきました。
以下その内容です。


髙橋龍一様へ
管野吉雄
三春に深い関心を持ち続けてくれた畏友・遠山元信が旅立って、ひと夏が過ぎました。
遠山は、三春昭進堂を度々訪問したと思います。
客人・遠山元信について一筆の寄稿をお願いします。

遠山元信様のご霊前に   三春昭進堂代表髙橋龍一

私は、三春城下新町にて、おたりまんじゅう本舗三春昭進堂を営む、髙橋龍一と申します。

遠山様には、三春へ来られる度に、散歩の途中や、奥様が好きなおたりまんじゅうをお土産にとお買い求めに、ご来店をいただきました。

その度に、様々な話をして私たちスタッフを楽しませてくれました。

最後にお会いしたのが、今春の花見の頃で、当店の西にある三春藩主祈願所真照寺の参道

階段の草むしりをしていた時でした。

「検査で病気が見つかっちゃってさぁ~」と言いながらも、いつもと変わらないあの笑顔で、小1時間ほど長話をさせていただきました

遠山様に初めてお会いした日の事を覚えています。

「滝桜は、日本三大桜だけど日本の巨樹では順位は下なんだよ~俺の住む埼玉にはかなりの巨樹があってさぁ~、今度その番付表を持ってくるよ!」と三春滞在中の散歩の途中で来店し、店内にある滝桜の写真を見て、江戸前のベランメ~調で軽快に話して帰られたのは最初だったと記憶しています。

ある時、帰り際に三春舞鶴会の会報「舞鶴通信」に目を止め、編集事務局の名に「これ、管野だよ~管野だよなぁ!」と興奮気味に大きな声を上げられ、私どもが訊ねるまでもなく、「この管野はねぇ~」と管野さんとのご縁を話してくれました。

中学入学時に、田村郡常葉町から単身で浦和の学校に転校してきたことや、妙に気が合い仲良くしていたこと、そして、急に常葉に帰ってしまったこと。

「そのうち常葉に会いに行く!」と手紙に書いて、後日、本当に一人で常葉まで遥々会いに行ったこと。

その時の印象について ― 常葉という町は上尾と比べて山の中だと思ったことや、雪どけでぬかった道を延々と歩いたこと、駅(磐城常葉駅)からやたらと遠い家だなぁ~と思ったこと― 等々、面白おかしく語ってくれました。

菅野はねぇ、校長や教育委員会職員、そして公民館長歴任等々についても語られ、「しかし、管野は、本当に優秀なやつだよ~」と締めくくっていました。

また、三春舞鶴会会長の織方さんお名前を見つけては「日本山岳会」でお世話になっている方なんだよ~」と話され、「他にも見知った名前がある~」と豪快な笑いと共
に「もらっていくよ」と、舞鶴通信を握り帰られました。

遠山様をご存じの方はご承知でしょうが、とにかく行動力・バイタリティーのある方で、すぐに管野さんに連絡をとり「三春の饅頭屋・三春昭進堂で管野の名前を見つけよ!!」・・・と報告をしたそうだ。


しばらくして、ご来店の折に「管野に頼まれて、今度、舞鶴通信に寄稿するんだよ、三春出身じゃないけどなぁ~ハハハ!」。

後日、発行された舞鶴通信には素敵な文章が記載されていました。

三春へは時折お見えになり、滞在中、コンパス片手に「座標点を見つける!」と、精力的に歩き「三春はトレッキングやウォーキングに最適な町だね!旅雑誌に今度投稿するよ~」。私にも「中高年世代、特に団塊の世代の方々にはトレッキングが流行ってんだから、それを三春町の売りにすればいいよ~」等々話してくれました。

三春に棲む私たちでは、気が付かない発想を持つ方でした。


また、秩父三峯神社に保管されている古文書、全国の大名から庶民までの参詣・奉納記録や、諸国からの和紙の奉納記録等々を丹念に調べ上げていました。

三春散策中でも、その三峯神社の「御札」が、三春観光物産館「蔵」になっている旧桐屋商店(橋本捨五郎生家)の蔵扉内側に貼ってあったと、驚きを話されていました。

管野様から、遠山さんの奥様からのご会葬御礼状を見せていただきました。

「新しい場所でも自分らしくずっと笑顔で・・・・・」機会があって夫のお友達に会うと、皆さん決まって「遠山さんの話を聞くのが楽しみ」「遠山さんがいると励まされる」と言っ
てくださいました。確かに夫は、知識豊富で、話し好きの聞き上手。初対面の方でも、すぐに打ちとけて会話を弾ませる様子を、そばで何度も見てきました。特に、お相手の故郷
の話になると、まるで最近行って来たかのようにその町の話をするので、どなたも驚かれ、そして、笑顔になりました。頑固で、それゆえ気難しい面もありましたが、それ以上に心根のあたたかい気配り上手なひと... きっとご縁のあった方々にもそんな人柄が伝わっていたのでしょう。たくさんの出会いに恵まれ、いろいろな話をして心を通わせ、彩り豊かな毎日を過ごせたことが、夫にとって一番の幸せでした・・・

とありますとおり、遠山様とのお話は、その知識豊富な博学にはいつも驚かされていました。

トレッキングの話、町おこしの話・・・理論整然としたお話と、豪快な笑いを忘れる事は出来ません。


遠山様には、たくさんの笑顔と情報をいただきました。

心より感謝を申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

本当に、ありがとうございました。




高橋龍一様へ

橋本捨五郎
文中、『三春散策中でも、その三峯神社の「御札」が、三春観光物産館「蔵」になって
いる旧桐屋商店(橋本捨五郎生家)の蔵扉内側に貼ってあったと、驚きを話されていま
した。』を発見。
多分私が、悪いことか、いたずらをしたのでしょう。あの蔵に入れられてしまいました。薄暗い蔵の中にあった三峯神社の『御札』が怖く、大泣きをして扉をバンバン叩いていると、祖母が助けに来てくれました。
幼い頃の思い出です



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 04:21 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |