2017-08-06 Sun
三春舞鶴会の総会でご一緒させていただいた木下務さまより、郷土教育会報697号が送付されてきました。
木下様は、中野区江古田から三春へ疎開していた経験談をまとめた冊子「三春と結ぶー集団疎開・自由民権運動」を当店や三春小学校に寄贈していただいています。
今回の郷土教育会報への寄稿も「疎開地も戦場だった_集団疎開日記」よりと題されて、太平洋戦争時の三春への疎開された経験です。
実際に経験された木下様ならではの書き方です。
その文章は臨場感にあふれ、読むものを戦争末期の時代へ誘い平和の尊さを訴えかけてくれます。
当時、木下様はじめ江古田小学校の皆様の疎開の記録は、昭和20年同期会の面々が発行された「50年を経た 少年少女の戦時体験~三春・須賀川・江古田~」という本があります。
私も、その疎開先である三春城下新町の真照寺さまより一冊頂いていましたので存じ上げてはいました。
また、昭和8年生まれの父より「寺(真照寺)に居た疎開児童と遊んだ記憶がある」と聞いていました。
木下さまは自身の疎開時の日記をもとに新たにこの集団疎開の事をまとめ上げた本を出版しました。
「三春と結ぶ~集団疎開・自由民権運動」と題された本には、日記の現本をコピーしたものが掲載されていて、当時の生の声を聴いているかのようで、後世に残したいという木下さまの強い思いが伝わってきます。
戦後も70年が経過して、戦争を体験した世代は年々少なくなり、今では戦争を知らない世代が大半を占めます。
戦争の悲惨さ、恐ろしさに対する意識は風化しつつあります。しかし、私たちは、決して過去を忘れてはなりません。
木下様は、当時の子供たちが、「疎開」という戦争実体験の貴重な経験を通じて、平和の尊さや命の大切さを後世に伝えてくれています。
平和で平穏な生活、安心安全な社会が孫子の代まで続くように、過去の体験を伝えるのは私たちの大事な仕事だと、肝に銘じた次第です。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2017-05-12 Fri
三春舞鶴通信 第11号
主に首都圏に三春からは離れて暮らす三春縁の方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第11号が発刊され、事務局の佐久間様より、店内配置分として送付されてまいりました。
織方会長から送付に寄せ手でご案内頂いた、本会員で切り絵作家の小倉修子さまの「舞う鶴が運んでくる通信」のカットがやはり目に入ります。
今回は先に亡くなられた田部井順子さんの追悼文、そして関連して山に関する機構がたくさんございました。
冒頭は、橋本捨五郎さんの「星になった順子ちゃん」と題された、文章から始まります。
中を覗きますと、会員皆様のそれぞれの順子さんへ思い出やお悔やみなど思い思いの寄稿が掲載されていました。
改めてお悔やみも申し仕上げます。
この春に三春交流館まほらで開催された「追悼 田部井順子展」にも沢山の来場者がありました。
期間中ご来店いただいたお客様の中にも田部井展を見てから来られた方も多数いらしゃいまして、それぞれに田部井さんとの思い出話をされて行かれていました。
改めて田部井さんの、大きさを感じた次第です。
また、平成29年度三春舞鶴会総会・懇親会関連の記事も掲載されていました。
今回は、私までご案内頂きまして喜んで出席させていただきました。
盆踊りをやると聞いて法被と笛を持参しましたが、鳴り物はご遠慮してというホテルからの要請もあり笛の披露はあきらめましたが、楽しく有意義なひと時を過ごすことが出来ました。
本当にありがとうございました。
毎年、花見の時に毎年ご来店いただき「三春花見団子」をお土産に多数ご注文いただいている監事の松本様には、総会での時はあいさつすることがかないませんでしたが、ご来店の折にやっとあいさつすることが出来ました。
いつも本当にありがとうございます。
懇親会の折には挨拶できませんでしたが、見知ったお名前の方々ばかりで後からこの方はだれだれの弟さんかな?親戚の方かな?などとあれこれ思いを巡らせていました。
三春舞鶴通信11号は、早速店内に配させていただきました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2017-02-28 Tue
三春舞鶴会第9回総会
三春に縁のある首都圏のお住いの方々で組織する「三春舞鶴会」の第九回の総会が開催されました。
私も三春舞鶴会の会報「舞鶴通信」に寄稿したご縁があり総会、そして親睦会にこの度ご案内を受けましたので、喜んで出席させていただきました。
総会の会場は、千代田区九段下にあるホテルグランドパレスです。
丁度この日は、東京マラソンの開催日で、警備の警官と大会スタッフ以外は、車も人もまばらな大手町を抜け、普段見られない光景を見ながら、九段下に向かいました。
将門塚
靖国神社
皇居御堀
会場では、織方郁映会長、關マサ副会長が笑顔で出迎えていただきまして、ご案内の御礼を申しあげることが出来ました。
ありがとうございました。
会場には、三春から出席者、鈴木町長、伊藤前三春町長、役場、議会、商工会、桜の会、三春町国際交流会の関係者など総勢9名の方々がお見えになっていました。
総会では、織方会長の挨拶にはじまり、活動報告、会計報告そして役員選出などがありました。
黒羽幹事長の司会で始まる懇親会では、三春町長挨拶、三春からの来賓紹介、そして江古田の方々の紹介など、和やかな雰囲気の中で思い思いに三春の話などをされ、終盤には村田様の音頭による三春盆踊りを全員で踊り、そして歌手をされている会員様の歌もあり、大変盛り上がりました。
黒羽様より、「三春昭進堂のホームページで三春の情報を発信している方です」と紹介いただきました。
宴席の中でも、出席された多くの方々が当店のホームページをご覧になっていただきまして、労いと激励の言葉をいただくことが出来ました。
励みになります!
本当にありがとうございます。
織方会長、柳沼博監事、佐久間健幹事、黒羽幹事長、岩崎副幹事長、松原副幹事長など役員の方々、そして織方弘道様へのご挨拶することができました。
また、以前寄稿した際に労いの電話をいただいた最年長の内藤様、そして以前ご来店いただき中野区江古田から三春へ疎開していた経験談をまとめた小冊子を当店や三春小学校に寄贈していただいた木下様にご挨拶ができました事など、大変有意義で楽しい時間をいただきました。
重ねて御礼申し上げます。
自己紹介の中で、3月12日の日曜日午後1時よりNHK総合テレビで放映される「みちのくモノがたり」の紹介と、当日持参した当店発行「平成版三春絵図 三春物見遊山」の案内をさせていただきました。
同級会や冠婚葬祭などで三春へ帰郷の際の話のタネにしてもらえれば幸いです・
懇親会後に、アフターティーにて意見交換会にも参加させていただきまして、皆様方の三春への熱い思いは拝聴することが出来ました。
大変心強いものを感じました。
三春製作所、後の日立AICを創造された國馬様、国際交流の吉田様、はじめ、三春を離れて大東京首都圏で力いっぱい暮らす諸先輩方のお話の中に、様々な教えがあると思います。
「自分たちのスタンスをまもる」「何事にも、崇高な理念を持って行動する」・・・
それらを念頭に今後の三春での暮らしの中に生かしていきたいと考えています。
また、楽しい時間を過ごさせていただくと共に、「三春を応援してくださる方々がいる」ということは三春の住む者として大変心強く嬉しく思います。
神田明神で商売繁盛祈願!
さすけねぇぞい三春!
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2016-10-08 Sat
三春舞鶴通信 第10号
主に首都圏に三春からは離れて暮らす、三春縁のある方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第10号が発刊され、事務局の佐久間様より、店内配置分として送付されてまいりました。
織方会長の「会報の順調な発行継続を願って」と題された、文章から始まります。
中を覗きますと、会員皆様のそれぞれの三春への思い入れのある寄稿や、先の投稿で自分との関連性を発見したといった寄稿などもあり、織方会長はじめ、編集事務局の皆様の思いを表したような内容となっています。
私も、第10号では、私の文章も掲載されております。
二回目の寄稿でした。
「春陽思ひ付阿津免草」と題した今回の寄稿では、この三春舞鶴通信を店内に配したり、当店ホームページや塵壺で紹介してていることからの、皆様の反応について書かさせていただきました。
本文にも記載しましたが、町内の方々も関心度が高く、親戚知人など縁の有無に関わらずお持ちいただき、すぐに無くなってしまいます。
幕末から明治に活躍した和算の大家、三春出身の佐久間陽軒関連の記載や、文爺こと渡邊文司さまのシリーズ化された投稿など読みごたえがあります。
今回のお悔やみ欄の中に、内藤新吉さま夫妻という近しい方の訃報を知り、心よりご冥福をお祈りいたします。
伊藤寛様からの追悼の寄稿にもありましたが、奥様がなくなってその二日目にご自分も旅立たれました。
同日に夫婦そろっての葬儀の際、二台並んだ、霊柩車を前にして喪主であるご長男様からの会葬御礼の中、「結婚五十四年目の新婚旅行のお見送り、ありがとうございます」と話されたようです。いかにも新吉さんらしいなあと合掌させていただきました。
下記は、今回の寄稿した文面を掲載してみました。
三春舞鶴通信第10号発行おめでとうございます。私は、三春城下新町の髙橋龍一と申します。
水芭蕉で有名な真照寺の門前にて、三春名物おたりまんじゅう本舗「三春昭進堂」を営んでおります。
ご縁がありまして、以前三春舞鶴通信に寄稿したことから事務局の佐久間様より、毎号十数部お預かりして店内のお客様スペースに置いています。
三春舞鶴通信は、毎回「ほー」「おっ!」と思う、テーマがあり、初めてみる方もつい手にとってしまうのが分かります。
私も毎回その新鮮な切り口を楽しみにしています。
毎月、当三春昭進堂発行の販促用新聞(三春船引計1万5千部)折り込みチラシ「塵壺ちりつぼ」のコラム欄や、当店ホームページ(otarimanjyu.com)内「春陽思ひ附阿津免草」にも、この三春舞鶴会の事、そして同通信誌を店内に配していること等を掲載しています。
寄稿された文章に、ご親戚やご友人、はたまた恩師の名前を発見し「叔母さんが寄稿しているの」「今度、同級会があるから皆に見せっぺ!」「名字から推測してこの方は、誰々さんの親戚かなぁ?」といっては「一部、いただいていきます~」とお持ち帰りいただいています。
私もそうですが、手にされた方々も次々に出される外から見る三春をテーマに郷土の側面を見る思いでワクワクしていることだと思います。
三春から離れて暮らす会員の方々と三春の縁者の方々との交流に少しでもお役に立てたかなと思っています。
私自身も、先の寄稿の折には、立教大学名誉教授の内藤則邦様はじめ、様々な方々よりお電話やメールそして手紙などで、身に余るお褒めの言葉を頂戴しましたこと大変うれしく思っています。これも何かのご縁かと思い、以後の三春郷土史探求の励みとしています。
春陽 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2016-05-14 Sat
三春舞鶴通信 第9号
三春縁の在首都圏や仙台などにお住いの方々を中心として構成された、三春舞鶴会の機関紙「三春舞鶴通信」第9号が、編集部の佐久間様より送付されて参りました。
ありがとうございます。
早速店内に配させていただきました。
玄侑宗久さんの寄稿「どこ吹く風」が表紙を飾り、中妻出身で仙台在住の郡司様の写真も彩を添えています。
2月に開催された三春舞鶴会総会の報告も記載されています。
また、今回も会員の方々の思い思いにつづられた三春との縁・・・
読みながら、この方はだれだれさんの親戚かなぁ?
この方も話を聞いたことがある方だぁ!・・・といった具合により身近に感じます。
三春からも、三春駒之助ことわたや呉服店会長の渡辺和明さんや、渡辺俊三さんの寄稿、そして橋本捨五郎さんの「愛媛松山市三春町」という大変興味をそそる文章が踊ります。
そして「文爺発信」
いつ読んでも、渡部文司さまの文章は楽しく読まさせていただいています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2015-10-09 Fri
三春舞鶴通信 第八号
首都圏近郊の三春縁の方々によって構成された「三春舞鶴会」
その会報誌「三春舞鶴通信 第8号」が、事務局の佐久間健様より届きました。
早速店内の案内スペースに配置して閲覧および希望者への配布させていただきます。
今号では、「夢の途中」と題された、東京在住の写真家中村信夫さまの文章が表紙をかざっていました。
文中にご自身の作品「MIHARU」と記載がありましたが、25年前くらいでしょうか?若かりし頃に大町の盆踊り会場にて撮影していただき、その写真集に掲載されたことがありまして、懐かしく読まさせていただきました。
また、今回はいつもより大勢の方々の寄稿があり、盛況ぶりが伺えますとともに、会長はじめ事務局の皆々様のご尽力には、敬意を表すとともに、三春の住む者として大変心強く感じます。
今後ますますのご盛況をご祈念申し上げます。
P.S この夏には、なかなかお会いする機会が得られなかった会長の織方郁映さま、織方弘道様ともやっとお会いしてお話しすることができました。
三春昭進堂
2015-05-04 Mon
「三春舞鶴通信第7号」発刊~三春舞鶴会
~「東京に住む人から見た三春」・・・東京内中の方に三春町が求めているもの~
福島県外に住む、三春に縁のある方々、そして三春在住の方の加盟している三春舞鶴会。
この会の発刊する、平成27年5月5日発行の季刊誌「三春舞鶴通信」の第7号が届きました。
早速、三春昭進堂店内のスペースに配させていただきました。
お客様の中には、この三春舞鶴会に加盟されている方のご親戚あ同級生・友人などの縁者の方々がありまして、三春舞鶴通信をお持ちいただいています。
今回も、会長である緒方郁映さまの挨拶・案内文ではじまっています。
「何ができるか」と題された文面には、心身体の三位一体での三春町の事を考えている様子がうかがえ、大変心強く感じます。
ありがとうございます。
表紙を飾るのは内藤則邦さまの「帰りなんざ」と題された随筆が記載されています。
今回の総会では三春桐屋の橋本捨五郎さんの講演「誤解された三春狐」があったそうで、私も拝聴したかったです。
内容は、捨五郎さんライフワークとも云うべき「奥州幕末史における三春藩の裏切り論の撤廃」です。
そうです・・・・・筆頭家老西郷頼母を追い出した会津史観や、社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、例の戯言てき狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」への理論的解明と改訂となっています。
会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようよする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・
尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。
幕末戊辰の役・会津戦争で東北の大藩というだけで期待され、日和見的な態度が祟って、対岸の火の粉をかぶりしまし、一番損をしたのはどの藩かは、すぐにお分かりですよね?
”三春狐”の根拠とされる仙台市史にある資料及び二本松市史に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、ただ勢いだけで流布(風説の流布)された戯言的狂歌・・・だと私も思っています。
鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。
それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、我を忘れ死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。
伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?
しかし、悪役が欲しい・・・・。
さらに付け加えて、云わせていただけるならば、会津落城前、上杉米沢藩が降伏し、伊達仙台藩が降伏したころにできたじゃれ唄です。
直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのには、腹も立ちます。
また、それを受け入れるように教育をし続けた三春の先人や三春人達には、この際もう一度現実を見直して、胸を張っていただきたいと思います。
まして、会津人や二本松人でもなく、だた聞きかじりの無知、心無い方々や士族でもない町人の方々が、さも知っているの呈で、吹聴しているというのは、怒りや悲しさを通り越して、呆れてしまい、哀れに見えてきます。
まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材としては不足しないということかな・・・・
実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。
しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎の「龍馬がゆく」や「峠」などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけでした。
おとっと、話が逸れてしまいました。
三春舞鶴通信にもどしましょう。
寄稿されたどの文面を見ましても、「三春哀歌」が綴られています。
そこには「東京に住む方々から見た三春」がありました。
本当に、三春に住む者として、求めている事柄であり、大変うれしく、心強く思います。
ありがとうごじます。
また、事務局の、佐久間健様いつもありがとうございます。
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