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令和元年三春中学校第1学年の総合学習「地域学習(三春学習)」におけるシンポジウム及び「校外学習」のレポート



先の実施されました三春中学校第1学年の総合学習「地域学習(三春学習)」におけるシンポジウム、そして、それに伴う「校外学習」の成果・学習のまとめとして作成したレポートの一部を資料として、校長先生の礼状と共に担当の先生が届けてくれました。






生徒たちは、それぞれの目線で、郷土三春の特徴を様々な視点でまとめ上げていました。











生徒たちは、それぞれテーマをもちこれからも三春で生きていくための目標や地域とのかかわり方について考え、生徒自身のアイデンティティーの確立を目的とした「地域学習(三春学習)」を「生き方学習」として自分の意見をまとめていました。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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中郷さくらの会 歴史講演会 於三春の里 令和元年12月10日(火) 三春昭進堂 髙橋龍一




当三春昭進堂4代に亘ってお世話になっている中郷さくらの会さまより、「城下新町の家屋についている屋号について話してもらいたい」との依頼を受けまして三春城下の成り立ちと共にお話してまいりました。


私の親の世代の方々です。

もちろん、子供のころ顔見知りの方々ですので、緊張し中がらも温かく見守ってもらいながら話を聞いていただきました。



中郷さくらの会 歴史講演会   於三春の里 令和元年12月10日(火)
                      
三春昭進堂 髙橋龍一

1.三春城下の成り立ち
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り、築城したのが始まりと言われます。田村氏は義顕、隆顕、清顕の三代が三春城主としてこの城に拠った。
お城を中心に、北=北町 南=南町 新町=荒町 中町=蒲生2 大町(下大町)=蒲生
新南町(松下)=新町(秋田)

天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成「奥州仕置き」を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。
会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。
家光の代寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、これとは別に嘉明の次男、明利に三春三万石が与えられます。
その間にも城の改修や、町割りそして寺社の建設が進みました。

翌年には明利は二本松に移封され、松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年ほど幕領であったが翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部した。

町割りと修験堂寺院

三春城下の修験には大元帥明王別当学頭坊(山中・明王町)を筆頭に

1、華正院(荒町)馬頭観音堂
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町・王子権現)
5、般若寺(北町・天満宮別当)愛染堂
6、陽照寺(北町切通し)御本尊「阿弥陀如来坐像」は真照寺へ
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井・三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中・大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)西国三十三観音石仏 天澤寺へ
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)百杯宴石碑
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)後秋葉神社 水天宮 智法院屋敷
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、満徳院(丈六)
21、西福寺(中町)愛宕神社別当
22、大光寺(中町)愛宕神社別当 八幡山大光寺
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています
修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。

2.新町の成り立ち
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町(明王町・田村~蒲生)と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形だった。

大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。

真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水は入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。

3.セリ市場付近の屋号





資料参照

4.荒町(新町) 蒲生時代
明治になり、郭境門が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、昔から商工業が盛んなところでした。工業といっても、製糸工場、羽二重工場ですが、旧藩時代から明治大正にかけて盛んでした。
前の三春中学校敷地にあった三盛社は、当時女工150名を使って操業していて、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

街本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、馬頭観音等が立ち並び、寺町でした。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで参っていました。

この場合、町屋のものはその行列に遠慮して通り過ぎるのを待って墓参に行く有様でした。
お盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為です。

小浜海道口の方は、今の渋池の中ほどから、上り二折れしていた道を、先の三春中学校西側に沿うように道路を作り、交通の利便性を図って往来がスムーズになり繁昌していました。

馬頭観音は、古い由緒を持っています。戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。
小野の東堂山、堂坂(現小泉)と共に三観音(馬頭観音)と呼ばれ、庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

5.北町
三分坂 戦国期の三春城主田村公の直参旗本「不断衆」屋敷跡。
後の秋田公代には、藩主及び御城の近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」が屋敷を構えた。
宿直番衆は、昼夜問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せ支給されていたので三分坂と呼ばれたと伝えられている。
旧三春城登城口「天神橋口」
かつては、ここに防火用水と城防御のための、堀があり、この場所に橋がかかっていました。天神橋とは、昔北野天満宮(現北野神社)が、城内にありこの橋を通って領民がお参りに行ったところから名付けられました。
「亀井清水」 かつて、少し上に、郭境相馬海道口黒門があり、その行き帰りにのどを潤したといわれます。

6.八幡町
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。

飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。
八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

7.中町 蒲生
三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。
三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。

御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。
御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。
この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
江戸期秋田氏の時は旗本5千石代官屋敷

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。
大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。

旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。

このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。

新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

8.大町
伊賀屋山三渡辺商店 
第九十三国立銀行 初代頭取 渡邊甚十郎
本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見れます。

呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。
後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。
橋元柳平 明治末芹ヶ沢の田村競輪競馬場 清水馬場
三春狐~ 自由民権運動家弾圧とこの頃の三春藩営やっかみ! 二本松藩

 神田 春山 船田

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。
御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。
舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありましたが、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。
山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。

明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?
また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
三春中学校第一学年 総合学習「郷土三春」 三春町内現場学習 令和元年11月20日




三春中学校第一学年 総合学習「郷土三春」 三春町内現場学習 令和元年11月20日


先の三春中学校一年生の総合学習「郷土三春」の現場学習ということで、2班の生徒の皆様にご来店いただきました。






当店には三春の産業ということで和菓子屋としての質問が用意されていました。


「おたりまんじゅう」、観光、三春....






これから三春を、そして日本を背負って立つ若者たちです。

少しでもお役に立てればいいなあと思います。


これらの学校支援は三春の先輩方から受けてきたことへの恩返しでもあります。


また、後輩への郷土三春学習のバトンタッチでもあります。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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令和元年えびす講



昨日、11月16日は、旧暦の10月20日に辺り、「えびす講」でした。

お客様への日頃の感謝の気持ちを込めて、昨日と本日にご来店のお客様に「鶴の子すあま」進呈いたします。
休まず営業です。
 






商家が商売繁盛を祈念して、恵比寿神を祭る行事が恵比寿講です。

恵比寿講とは、商売の神様である恵比寿様と大黒様を奉り、商売繁盛を祈念するお祭りのことです。

子供の頃には、我が家もこの日にはちゃぶ台に恵比寿様と大黒様の像を飾り、赤飯を山盛りにして、お頭付きの鯛、大きな五目玉の算盤、大福帳、お金等商売に関連する道具にけんちん汁等のご馳走を並べて祝っていました。
 









商人の家で行う恵比寿講さまは、恵比寿様の像を飾った座敷に商品を並べ、座敷にある道具類も含めて、招かれた人々が買い方と売り方に分かれて売ったり買ったりするまねをします。

 双方が「千両」「万両」などと縁起をかついだ高い値をつけ、「売りましょう」「買いましょう」と言って手打ち式を行って締め、そのあとでごちそうを食べて祝うのです。ここから、とてつもないもうけ話のことを、「恵比寿講のもうけ話」などと言ったりするそうです。




昭和50年ごろ






一般庶民に台所の神、家の神として祭られる「恵比寿」さまは、留守神としてよく知られています。

 恵比寿さまは、「夷」や「戎」とも書き、異郷からやってきて、人々に幸福をもたらしてくれる来訪神(まれびと)としてあがめられ、もともと漁業の神として漁民に信仰されましたが、農村では田の神として信仰され、都市では商いの神、市神として、特に商人の信仰が厚かったと伝えられています。

 そこで、留守をあずかる恵比寿神を慰めるため、十月には「恵比寿講」を行って盛大に祭ります。







昭和40年ごろ



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「和菓子講習会」船引小学校 第5学年親子活動 令和元年11月9日(土)





昨日は、ご縁がありまして田村市立船引小学校第5学年の親子活動の「和生菓子造り」の講師に招かれました。

上生菓子造りの講習とあっては、「おもてなし」~日本人の心~{わびさび}の世界ですので、お茶はつきものです。


お茶をたしなむ女将と共に船引小学校へ参じました。




第五学年の児童巣109名、父兄合わせて218名と共に和菓子、それも練り切りの上生菓子の製作です。









季節柄テーマは「秋」ですので”菊花”を作っていただきました。


菊花を色違いで二種類、しかもちょっと技術が必要な三重包餡を提案させていただきました。






当店女将は、子供茶道教室や税の教室などで小学校へ出向いているので子供たちの教えるのが上手いんです。


夫婦二人三脚で和菓子作り講習会の開始です。







学年委員長さんの采配で、早速お菓子造り開始です。


それぞれが工夫を凝らしながら、思い思いの意匠を巡らせ、練り切り餡で上生菓子を造っていきます。







そして、皆さん手先が器用なんでしょう、上手に造っていかれます。


白、ピンク、中こし餡の三種類を包餡し、箸や楊枝で花びらを造り、黄色で花弁、そして、抹茶の羊羹で葉っぱを付ける・・・・







自分で造った上生菓子はいかがだったでしょうか?


そてぞれ楽しんでおられた様子です。







そして、ご自身で造られた練り切り上生菓子「菊花」の実食です。


女将より、お茶会での菓子の食べ方を講義されて美味しそうにほおばっている姿に、出張してきたかいがあったように思います。







最後に、代表の児童たちによる和菓子造り体験の感想を発表、そして私たちの御礼の言葉をいただきました。

こちらこそ貴重な経験をありがとうございました。






少しでも和菓子、上生菓子に親しんでいただきお茶の心と合わせて興味を持っていただければ幸いです。

いつしか、自分でもお茶をたしなみ「お茶と和菓子」という日本文化を継承していただけたらなぁと思います。









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍






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三春町立第2保育所の町探検と買い物体験 令和元年 三春昭進堂




三春町立第2保育所の「町探訪と買い物体験」ということで、園児13名のみなさんが、保育士の先生、そして園長先生とご来店いただきました。


秋晴れの中、保育士の先生に引率されてのご来店です。






三春昭進堂でまんじゅうを買って、三春小学校の明徳門の下(階段)で、おまんじゅうをみんなで食べるという体験型の町探訪です。


園児の皆さんからすれば「探検」気分でしょうね~







かわいい園児の皆様に思わず顔がほころんでしまいました。


子供はかわいいですよね!


またのご来店をお待ちしています。




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総合地域学習「三春」 三春中学校 1年生 令和元年11.6  三春昭進堂主人 髙橋龍一




総合地域学習「三春」 三春中学校 1年生     令和元年11.6
                    三春昭進堂主人 髙橋龍一


三春中学校一年生の総合的な“学習の時間”総合地域学習「三春」のシンポジウムパネラー及び講師として三春のお話をさせていただきました。

 
 はじめに
照顧却下 禅寺の玄関に掲げてある木版
地元三春を見る=足元~自分自身
どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない 足元

私たちが子供の頃から、三春の先輩方から様々なことを教えていただき学んできました。
昔から三春人(商人)は、教育・人間育成ということには驚くほどの力の入れようでした。

この三春シンポジウム等の学校への協力は、上記の先輩の皆様方への恩返し、そして、後輩へと継承する三春の教育を少しでも果たしたいと考えています。
未来を担う、三春の後輩たちの”学び”に、少しでもお役に立てればいいなあと思います。

元家老家の北畠浪岡具雄から「修行するのは少壮の時である。一家の些細なことに拘わり合っていつまでも田舎に居ると。、一生の悔いになる。早々に上京すべき」と上京して勉学に励むことを進められた加藤木三兄弟の話。申します 勝沼 
また、戦前の三春小学校の卒業式に於いて成績優秀者に秋田賞と加藤木賞が贈られていたこと・・
谷中 田村学寮 初代寮長 河野広中
深間内久蔵氏が千三百余圓(大工手間39000万円)の私財を投入し建設資金にしたことや藤泉賢四郎(後の大林組社長大林賢四郎氏が設計施工を請け負ったこと。

三春の商人として、三春の歴史、三春で商売(和菓子屋) 県外での三春





経営者 仕事がら全国の経営者 
初めての人は、その人をフィルターとして三春を見ます。
挨拶や懇親会 お国自慢 自分の出身地を背負って 社会で活躍!
胸を張って三春の歴史や長所 伝える    

自分の足元=三春 足元を見る 自分自身を顧みる 


郡山にないもの 歴史 文化

町とは?
同じラーメンでも、醤油ラーメン、みそ、つけ麺、冷やし中華、喜多方ラーメン 博多ラーメン、チャルメラ カップヌードル 同じ種類じゃなくてもいい それが町・地域







1、三春との職業を通じた関り
三春は滝桜のお陰で毎年春には日本中、世界中から脚光を浴びる どんな展開も可能
最大のトップ営業マン「滝桜」
「三春」昭進堂 三春名物「おたりまんじゅう」 三春産にこだわる 三春の味 国産 安心安全
四季により作るお菓子が違う
 春・花見団子 夏・麩饅頭 秋・栗大福 冬・イチゴ大福 
通年商品 名物「おたりまんじゅう」 「豆大福」 コーンフレーク・クッキー









質問・
店が三春馬(畜産)セリ市場の前にあるということで競り市に来た方へのお饅頭を売った
後祭礼に出向いて打った

塵壺 平成3年より発行 ・支店やテナントを出すより経費が安い 
・三春にお客さんを呼びたい
饅頭屋の隣に魚屋 相乗効果 商店街の基本

平成版三春物見遊山 三春の宣伝!
三春(ロマンチックな名前)、瀧桜 全国区の地名 三春の饅頭屋 

2、三春の良さ 滝桜
三春という小さな町 少し目立つことをするとメディアが拾う
車社会 インターネット・SNS 県中 郡山33万人 近い 強味  
明治初年 三春小学校明徳門 学校の門(教育のシンボル)として残す
~三春人の民度の高さ 

街並み
城下の道は、城下町のなごりで、道路は狭くて複雑であるため、生活に不便な点もありますが、御城坂 北町の坂や桜谷、天狗谷、谷間が多く、道が狭いことがかえってこの街の魅力を高めています。
北国の小さな城下町三春は、城下にこそ魅力があると思います。

小さな城下町三春  観光バスが大勢の人がわんさか来る場所ではない 小グループ 
会津 仙台 金沢 江戸 京都 歴史的都市とは一線を画す
春先の桜の時期、観光バスはじめ 多くの観光のお客さまは、滝桜周辺を見てお帰り 
平均滞在時間は1時間  その一割でも町中に






世界的に活躍する日本を代表する建築家大高正人さんや照明デザイナー石井幹子さん(美人に見える工夫)、世界的写真家門馬金昭氏、そして、国の専門職などが長期間のプロジェクトに参加

きれいに整備され街並、一方昔懐かしい町並みの面影が残る

単に歴史や文化が感じられるというだけでなく、生活のにおいがする魅力的な小さな城下町 地元の人々が居住し生活する場であり、近郷近在よりの買物のお客さまが出入りする場であり、さらに近年は 春、桜の時期だけではなく四季を通じて観光のお客様が訪れる魅力的な城下町でもあります。

これは、城下だけではなく、それぞれの地区に様々な魅力がある

各神社の祭礼(郊外11月3日)「三春盆踊り」、だるま市、お城山まつり 秋まつり

様々なイベント 今を生きる私たちの生躍動する活観 


3、課題とその対策
地元に住んでいると案外地元が見えない 「灯台下暗し」外から三春を見てみる

4、中学生への期待
地元三春を見る=足元~自分自身
どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない 足元

CM 人生長いよ~大人って案外いいもんですよ

自分の生き方 仕事 家庭 趣味サークル 自信を持つ 自惚れて(うぬぼれ)
自分を肯定する生き方~子供たちは自己の肯定がすくない 







「自分を見つめ 自分にはなし 自分で答える」
 一、自分を見つめ・自分の足元を見つめること。
今回の学習テーマである郷土である三春を学ぶということは、自分自身の足元にを見る、即ち自分自身を見ることなんだろうと思います。

 二、自分に話し・様々な人や事柄に接し自分を磨くこと。
世の中には、様々な方々や事柄がいます。
いい人悪い人、老若男女。そして綺麗なもの汚いもの・・そんな様々な人や事柄に接して自分で識別できる目を養うこと。

 三、自分で答える 生き方を自分で見つける 自分の力で生きていく
一人の力で生きているのではなく、有縁無縁、周り居る方々が協力してくれたからうまく出来たんだと思う事が大切です。
日々正しくお陰様です。

質問にもありましたが、「これから三春はどうなっていくの?」「これからの三春の産業は?」
未来ある中学一年生、これからの三春を、そして、日本をしょって立つ人材です。

与えられた未来ではなく。自分自身で創り上げていってください!
そして、今の勉強がその基礎となることでしょう・・・







あえて、山本五十六の言葉を借りるならば・・・
昭和14年に山本五十六が母校の長岡高等学校で講演したときの言葉を紹介いたします。

私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し
将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち 高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願いします。

山本は、日米戦争に反対していたのにも拘わらず、戦時特別編成である大日本海軍連合艦隊司令長官という立場から真珠湾攻撃の作戦立案に携わる事になりますが、その山本の苦悩が現れている講話です。









質問
新町の太鼓 盆踊り・江戸時代は城下では禁止
三春盆踊りの起源は、法蔵寺宗旨である時宗の「踊り念仏」、浜通り南部の「じゃんがら踊り」、さらには江戸時代後期の頃に相双地区を襲った大地震や津波で、被害を受けた地域の救済と復興のために入植した新潟や北陸の浄土真宗門徒がもたらした「踊り念仏」を起源とされる「相馬盆唄」など諸説あります。
三春城下は、岩城街道、会津街道をはじめとする主要街道が交差する文化と物流の交流拠点であり、それぞれの文化の影響を受けながら独自に進化していったものだと考えられています。

「踊り場」の地名が残る八幡町では、昭和20年8月の玉音放送を受けて町当局から盆踊りは自粛・中止せよとの沙汰が発令されましたが、八幡町若連では“盆踊りは国に殉じた戦死者供養だ!”と「いろはや食堂」の裏山に太鼓を持ち込んで朝まで盆太鼓を叩いて戦没者を供養したと伝わっています。






質問
商人や工人などの職業講の祭り 恵比寿講祭 荒神講祭 
農家 御釜講 旅講伊勢・熊野等々は現存

質問
名前・平安時代 荘園制度・京都公家藤原氏~紀伊和歌山の熊野大社 蒲の倉大祥院
鎌倉末期南北朝時代 
室町末期応仁の乱・戦国時代 
奥州仕置田村家取り潰し 
明治維新 武士の世の終わり

戦国時代 三春田村家 田村麻呂末裔 全国から召し抱え 土着 青山・千葉・影山・髙橋・  ベビーメタル神バンド(ホームページ)

豊臣秀吉による奥州仕置によって三春田村家が改易され、この時伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家である田村宗顕・牛縊定廣はじめ、御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など分家した11家(分家下士含めると28家)にとどまります。
それ以外の旧臣は伊達家を嫌い旧田村領内の自分の領地にて帰農します。
時代が下がり松下、蒲生、秋田氏藩政下にあっても「在郷給人」として苗字帯刀御目見得を許された割頭(大庄屋)・名主を代々務めてと明治維新を迎えます。尚、この時代地方では農兵分離が進んでおらず帰農した大多数の田村旧臣は、合戦の敗北による主家断絶ではなかったため敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、家門を称して「御屋形様」呼ばれていました。

質問 寺の今昔
明治維新神仏希釈 日露戦争後仏教復権 
お寺だけ運営 住民票・過去帳 お葬式 

質問
寺社が多い 城下町 歴代藩主 寺社を残留

質問
水芭蕉 昭和50年代のディスカバージャパン 三春名所 安達町油井円東寺

質問
由来 見張り所 三春のともがら 
昭和30年代の町村合併 御木澤村 お祭 七草木 平沢 
斎藤・沼澤・鷹巣  柴原・瀧・根本・過足・狐田・込木・芹ケ沢
熊耳・篠山・荒和田  實沢・富沢・青石









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::学校支援 |