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ふくしまFMの人気パーソナリティー 矢野真未さんにご来店いただきました!




ふくしまFMの人気パーソナリティー 矢野真未さんにご来店いただきました!


”生・矢野真未”ですよ~ ♪


声はいつも拝聴していましたが、お目にかかるのは初めてです。

ご来店の際には、パッと見20代前半

今年大学を出研修を終えたkfb 福島放送の新人アナウンサーと思って話をしていましたが、

この落ち着き、この声は?もしや〜

まさかの矢野真未さんでした♪


KFB福島放送「シェア」とふくしまFMのコラボ企画ということで・・・・ 詳細は後ほど!







丁度、先のシェア三春町編「紫雲閣と山惣」の総括をしていた神設備代表も同席です!


しかし、ラジオではいつも聴いている”ふくしまFMラジオグルーブ・矢野真未”さんですよ・・・


美人です!


ふくしまFM「ラジオ・グルーブ」にも・・・



詳細は後ほど(^^♪



これも役得、滝桜、そして、三春のお陰です!







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:11 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::メディアで紹介されました |
 KFB福島放送「シェア」三春「紫雲閣&山惣」 2023.5.24 三春担当 三春昭進堂菓匠蒼龍 代表 髙橋龍一




 KFB福島放送「シェア」三春「紫雲閣&山惣」 2023.5.24

三春担当 三春昭進堂菓匠蒼龍 代表 髙橋龍一






出演:髙橋龍一・深谷悠大

・神晃(神設備代表)

・吉村剛(吉村管工所代表)・

・三春町歴史民俗資料館:館長 平田禎文(ヒラタ サダフミ)

・菊地住建:社長 菊地和裕(キクチ カズヒロ)





・みはる味処「山惣」専務・スタッフ
TEL:0247-62-0166 三春町字北町9
営/11:00~14:00、17:00~22:00 4~16人(現在)まで 完全予約制
休/月曜 ※4月(桜祭り期間)のランチは予約なし・無休






・オープニング・紫雲寺山門 龍一・悠大  本日紹介する紫雲閣

「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 

蔵座敷「紫雲閣」は、明治時代の商人吉田誠次郎氏が遺した邸宅で現在三春町へ寄贈されて三春町文化伝承館として継承されています。
吉田誠次郎は、三春郷駒板村 (現郡山市中田町駒板) の吉田常三郎の次男として生まれ、三春城下中町の商人「釜屋」宗像善吾の次女と結婚して養子となりました。






釜屋善吾は三春生糸「三春駒」の商標を取得して東京や横浜で生糸商を営み、誠次郎は横浜営業所長として奮闘。明治28年にはのれん分けして分家・独立し、益々生糸問屋として
商いを拡げながら、取引先の外国人向けに錦絵や書画そして骨董の販売を行い、さらに金融業に手を拡げて1代で財を築きました。




分家を機に三春城下に於いて居宅を構えその折に隣接する紫雲寺に由来したとされる、「紫雲閣」も建てられました。

三春の商人の蔵は城下町だけあってちょっと独特な配置があります。

商人の力量である「財産」を自慢するように表通りに面して建てるのではなく、武士階級に遠慮して店舗・屋敷の裏手に建造していましたが、明治になってもそれは変わりありませ
ん。




この「紫雲閣」もその通りで、表通りから一本奥に入った紫雲寺参道にある自宅の一番奥まった場所に建ててあります。


その外観は普通の蔵ですが、内部には龍が随所に施され、唐風の間や最高級の材料を惜しげもなく使った茶室等、装飾や部材等々目を奪わんばかりの贅を尽くした造りとなっています。





また、隣接する紫雲寺の桜や城下を借景とした各部屋からの眺めなど外からは想像することが出来ない趣向となっており近代日本創成期の経済界をリードした豪気な三春商人の経済・文化の交流を考察しながら、粋な遊び心を垣間見ることが出来ますね・・


その邸宅は文明開化に沸き立つ東京、そして、海外貿易の本場横浜で商いをする中で養ったと思われる独特な趣向で構成されています。

紫雲閣2階にある唐風の“漆ノ間(紫雲ノ間)”には床柱に色彩豊かな“龍”が絡みついた立体的な装飾が施されるなど異彩を放った感性で訪れた者を魅了します。





黒く節目の入った薩摩杉の天井板や、桐の一枚板の透かし彫り入りの欄間に、棕櫚・楓・鉄刀木・柿・黒柿・栗・紫檀・黒壇・欅・櫟・杉と様々な銘木と称される部材を用いて組み上げた床柱・床框・梁部等々・・・外観の蔵と内部が別々の構造を成していて、部材ありきで各座敷の設えを整えていった感が随所に見受けられます。





各所に“龍”のモチーフが多く見られ、名前に龍の付く私にはとても居心地の好い建物です。

これらの部材も当時福島県で開催されたという全国産業博覧会「共進会」で調達して無理やり設えた様にも見受けられます。





蔵が先に在って(曳家をして移動した形跡有)、調達した装飾の部材を生かすように内部を1階部分から創り上げていく・・・





正に、大工、左官、建具屋、漆塗師、そして、建主である誠次郎氏の見識と情熱が作り上げた豪華絢爛な遊び心がいっぱい詰まった建物です。


幕末、戊辰戦争では三春藩は御城下に暮らす民の生命と財産を戦火から護るために戦場となって焦土と化すことを避けようと戦を回避しました。

その土壌があり明治以降には三春の商人は総合商社として福島県経済を引率するリーダーとして活躍しています。





さらに、三春商人は海外貿易の拠点東京横浜に乗り出します。

新開港地「横浜」はまさに国内外の貿易商人の活躍する舞台であり、なかでも、日本の主貿易品目である金や絹を扱う不平等条約のしこりが残る中で居留外国商人と取引していた

日本・三春の商人は、激しい盛衰を繰り返し、その動乱期を生き抜いた少数の貿易商は、短期間に莫大な富を築いていきました。


 さあ、「紫雲閣」探訪はこの辺りにして、蔵繋がりで城下北町にある現代の蔵座敷、みはる味処「山惣」三春の郷土料理と地酒三春駒で一献!




蒼龍謹白  三春に来ねぇげ!  拝 


・工事の説明・菊地住建 社長

紫雲閣は、元々あった蔵の内部を、座敷として改築されており、当時の吉田誠治郎の遊び心と匠の技がふんだんに盛り込まれております。

現代では見られない 不思議で魅力のある建物となっておりました。

建てられた当時の状態に復元・修復するため、今回の工事では、 垂直に曳家を用いて 基礎工事と柱や耐震の構造の補強の内容で工事が進められました。

当初の工事内容で開始しましたが、柱・胴差まで腐朽していたため1階部分はほぼ解体となり、すべて柱と一部の胴差の交換となり、その都度変更しながらの改修工事となりました。

また、生かせる構造材は、 元に復元し、腐朽している構造材は新たな木材に交換しました。

銘木も数多く使用されていたので、現代ではなかなか手に入らない銘木もあり、 資材調達は大変でした。

そして、 蔵の外回りの修復として、漆喰やなまこ壁も新たに復元をしました。

現代では、 なまこ壁を工事出来る職人も少なく、今回の左官工事では、白河や会津からご足労いただき施工が進められました。

改修工事の間、ご協力いただきました事業所様、並びに現地で職にあたっていただいた 匠の皆様のご理解とご協力により、見事に工期内に完成し、令和5年4/9再オープンすることが出来ました。











 
※古い文化財を保存・継承していくためには、費用が必要なことから、下記の通り、同じく大町にある蔵座敷を利用した三春郷土人形館と共通で入館料をいただくことになりました。なお、旧吉田家住宅主屋(文化伝承館)は、従来通り無料でご覧いただけます。






・山惣 蔵座敷(蔵繋がり)・・・・・龍一・吉村・神・菊地

「みはる味処 山惣」は蔵を改築した三春町の郷土料理の店


こちらも三春の豪商の蔵を改築した風情たっぷりの和食処。

レトロな雰囲気の中で、明治の商人になったつもりで郷土料理を堪能!



カンパーイ!
味処 山惣 客席数16 三春町字北町9-2
営業時間 予約のみ4名様以上16人まで
※桜の開花シーズンは、ランチ営業もあります





・〆は龍一・悠大でシェア!




| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::テレビで紹介されました。 |
「時空を超えた・伊勢神宮参詣記」 KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 


 
「時空を超えた・伊勢神宮参詣記」

KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 







1、 三春城下荒町 三春藩主秋田氏菩提寺「高乾院」
挨拶・髙橋龍一、深谷悠大 三春城下で一番早く開花する紅枝垂れ桜






2、伊勢神宮  内宮 宇治橋前 二見ヶ浦 夫婦岩 ・外宮・・・・バックの映像






3、 江戸時代の三春藩士 絵師でもある中村寛亭による代参日記「伊勢代参記」

 三春藩士 寬亭は、本名を中村匡(ただし)
文政3年(1820)、御小姓役で家中勤めに入りますが、文政12年(1829)、藩主の命により、絵師荒木寬快に師事し絵の修業に入り、三年後には寛快より「寬亭」の号を許されています。





三春藩領在郷・東郷(三春藩領在郷・東、西、中、南郷に分かれている)代官から始まり、四十五才で町奉行及び宗門奉行、起発奉行を務め、五十四才で三春町町奉行を拝命しています。


時に幕末、三春藩も激動の渦に巻き尾まれます。
三春藩鉄砲物頭(鉄砲組組頭)から外交を担う三春藩外事掛へ転じて諸藩との応接折衝やとなりこの激動動乱の時期を乗り越えました。







4、 伊勢神宮の参拝後のお楽しみ!おかげ横丁とおはらい町で食べ歩き 赤福付近 MC









5、秋田實季(あきたさねすえ)墓所「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。








朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

また、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。






幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。

「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓






尚、現在、永松寺の本堂は新築の為工事中です。


5、 三春へ帰ってきて、三春城下三春藩主秋田家菩提寺「高乾院」にある秋田家累代墓所の墓前に實季公の墓参の報告

三春城下安日山高乾院 尚、實季公の戒名院号が「高乾院」です。

龍一・深谷悠大コメント  シェア!







神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。





※永松院什物、実季公御作之硯箱、御納之天国之[太刀?]

御筆御歌之懸物、三十六歌撰之御筆画像屏風、[其?]外

御紋付御膳椀尤雁金御紋、天国ト二字銘弐尺八寸程□
  (太刀の図)

内宮ニ納候俵藤太之太刀同形同作之由住寺吐候へは?

 萬治二亥年 秋田城介

高乾院殿前侍従……      姫君様御妾之廟有

 十一月廿九日 安倍実季入道



三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。

天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後して蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。

大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。






幕府からの命で、宍戸藩主を長男秋田俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。

實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。

その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。

菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 19:11 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::テレビで紹介されました。 |
「中郷の歴史 田村四十八舘」 中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一 r5.3.14



中郷の高齢者学級さくら学級でお話をさせて頂きました。お昼まで呼ばれまして〜♫
幼き頃より見知っている先輩方ですっかりご馳走になり、いい心持ちのよき日となりました。


先の講演会には、おたり婆さんの出宿の当主さんも出席されてました。お話をしたました際に、「自分の家出身のその末裔が頑張って繁盛してる。これは嬉しいことだぞなぁ!と知り合いに言われたんだ、本当にそう思う、ありがとな!」と言う言葉をいただきました。
こんな嬉しい言葉はありません。
がんばって商売をやって良かったなぁ〜って心より思いました。


「中郷の歴史 田村四十八舘」
中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一
             於三春の里 令和5年3月14日(火)
                      
はじめに
・柳作髙橋 根本近内 込木見渡様 笠石八幡宮 
・滝桜散歩 ゴミ拾い 
・テレビ 滝桜
・中郷は、戦前には一時教化村に指定され、多くの人材を輩出。
昭和60年代末より平成2年桜中学校創設にあたって、三春瞬教育委員会「子どもの夢の育つ学校造り」「教科教室形の学校運営方式を採る中学絞」の研究校


1.戦国時代舘跡探訪
                      
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。

「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせると百以上の舘が存在しています。
時代に前後しますが、確認されている田村領内の館跡だけでも、三春町内で二十五カ所、旧三春藩領(田村郡及び郡山市東部)を含む全体では百十三カ所にのぼり、他に、場所のわからない館や郡外に田村氏が築いた館をあわせると三百カ所以上になります。
これらの館跡から、江戸時代に、選りすぐったのが「田村四十八館」です。

全国の戦国武将の領内でも「~四十八舘」と称されています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。館(たて)とは、小規模な城のことですが、実際には、軍事施設もあれば、地主・領主の居宅、村の集会所や避難施設などの様々な用途があります。


◎ 過足舘址 木幡氏
過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。将門が反乱して亡んだ後、その一族千葉氏、後の相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。

その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。


◎ 「柴原館」
城将は、橋本助右衛門、禄高450石。
館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、
本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、下枝城主、木村城主(刑部舘)で、田村四天王の一人橋本刑部少輔顕徳の一族と伝えられているが、記録が少く地方の人にも余り知られていないようです。
尚、田村氏の一族も橋本姓を名乗っています。
芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本、田母神橋本、中津川橋本・・・






◎「貝山館」
舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)

天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢の軍勢の為に軍勢の主力を臨場させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、伊達に組する三春の領主田村宗顕を攻めます。

この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。

2・中郷今昔物語の巻
中郷の昔は、滝外18ヶ村戸長役場が行政区となっていた。
その後、滝、柴原、込木、楽内、芹ヶ沢、貝山、蛇沢、春田、狐田、過足、根本、樋渡、蛇石が合併して中郷村となったのである。
これは明治20年町村制実施以来のことである。

初代村長は田村謙次郎、次に御代田勝弥、木幡文多郎、橋本喜四郎、木幡文忠と続き、三春町に合併したのである。

◎ 芹ケ沢
津島神社(旧神号天形星王社)
※天形星は天刑星(てんけいせい)ともいわれる道教の神で「木星」を意味するという。
この天形星が陰陽説で牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王が素戔嗚(須佐之男命)と習合する、という複雑な過程を経てこの社名

三春城下の西、旧小野海道芹ヶ沢村の入り口を見下ろす小高い丘に、鎮守津島神社、芹が沢稲荷神社、見渡神社が合祀された社があります。

かつて、春と秋の祭礼には、「お人形祭り」として、三春領五人形様の一つ「天形星王のお人形様」のお衣替えという行事がありました。
祭礼前日に、氏子が社殿に集まり、大人形を作ります。
まず、大きな樹の柱を胴骨にして、コモを巻き頭部に篭を被せて紙を貼り、顔を描きます。
胴体には、杉の葉をたくさん差して着物にします。
これを「お衣替え」としていました。
この人形を押し立てて、神官の祈祷の後に氏子一同で拝みます。
そして人形様は、神精霊の形代として、村に入り込む厄や流行病除けとされてきました。
その偉容は、厄病を威嚇するに相応しい中国・朝鮮調の鬼面のような人形であったと伝えられています。

この津島神社の「お人形祭り」は、春秋の二回欠かさず行われてきましたが、近世に発生した社殿の焼失で現在は行われていません。

◎ 楽内
 三春城下磐城海道境の旧楽内村に鎮座する「金比羅様」です。
かつては、農家方々からは繭の神様として信仰を集めていました。また、山一つ隔てた弓町遊廓、庚申坂新地のお女郎たちからは、年期が早く明ける祈願所として信仰を集めていました。

◎ 込木
三春城下の南に、くぐりきと読みます”込木”の宮ノ下に見渡神社があります。

江戸期は、「飯渡大権現」権現さまと呼ばれ、古くからトリケの神と称して、百日咳にかかったときは鳥居の石を削って呑めば治ると云われていて拝殿には鶏の絵馬が多数奉納されている。
三春昭進堂の創始者高橋民四郎の本家も、込木柳作です。
かつて、十月の祭礼には、民四郎の妻おタリや、その子で当家先々代の傳造が饅頭を台八車に乗せて、社殿下で売っていたと聞き及んでいます。

◎ 柴原
・「柴原日枝神社」江戸期までは、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「柴原山王社」などと呼ばれ、旧柴原村の産土神として崇敬されていました。景色がいい

・「柴原神社」
三渡大明神として村の鎮守していました。現在でも、秋の祭礼時には柴原の若衆が「お籠もり」をして夜明けの神事を行っています。

◎ 滝 
・稲荷神社
・田村三十三観音三十番札所 大霊山龍光寺、馬頭観音堂
三階滝(三界滝) 古銭

◎根本 
・笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。

・根本神社 根本八王子神社
三春城下の南四里、滝桜南の根本村旧鎮守です。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社とされています。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
 根本神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。

◎過足
・「鎮守仁渡神社」
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。

・過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。

・「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
日本にある江戸時代前に建立された有名な神社仏閣 
その7割が、空海、田村麻呂そして徳一が創建

◎ 樋渡
・樋渡神社です。
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。
熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。
境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。梅も咲きます。

◎ 蛇石
「蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。

◎ 狐田稲荷神社
三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就した。
大晦日、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
享保三年に、家老職連名で奉納した鳥居です。

◎ 貝山村 
・白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
柴田勝家 与力 織田信長重臣佐久間氏末裔由来 佐久間氏の氏神様
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。我が子の無事帰還祈願でしょか?

◎ 「春沢見渡・日枝神社」

春田集落の見渡・日枝神社は、三春ダムの完成により、旧蛇沢と春田の住民がこの地に移転してきました。

蛇沢郷鎮守見渡神社は、天之村雲命を祭神として蛇沢村にありました。
関東より移住した先祖が分霊し勧請したと伝えられています。
また、日枝神社は、春田鎮守山王権現として大山祇神を祭神として春田村に鎮座していました。日枝神社の神の使いは猿といわれています。


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元大和文華館学芸員の文学博士 林進先生による『年譜・著作目録(付)「美のたより選 水墨画エッセイ集」』をいただきました。




三春の大先輩より、元大和文華館学芸員の文学博士 林進先生による『年譜・著作目録(付)「美のたより選 水墨画エッセイ集」』をいただきました。

塵壺の参考にしてくださいということで、有難く、そして、興味深く拝読しています。

林先生に於かれましては、雪村をはじめ雪舟・琳派や曽我蕭白・与謝蕪村の絵画を深く読み解いてこられ、先に遭い際されたの「雪村シンポジウム」に先立っての雪村画の解説に於いては解り易く解説いただきました。

林進先生プロフィール


1945年、香川県香川郡直島町生まれ。1969年、神戸大学文学部卒業。神戸大学大学院修士課程途中、1971年に財団法人大和文華館学芸部員となる。
1972年修士課程を修了。2000年文学博士(神戸大学)。
2002年神戸大学大学院客員教授、大手前大学非常勤講師等。
専攻は日本美術史、書誌学






三春交流館「まほら」まほらホールの緞帳には、雪村の「奔馬図」がデザインされていますが、三春町所蔵の雪村「奔馬図」の購入や三春町歴史民俗資料館「雪村展」実施など、三春と雪村の深いつながりに多大な貢献をされています。

この付載の「水墨画エッセイ集」は、先生が学芸部員として勤めておりました財団法人・大和文華館 友の会>の広報誌「美のたより」に載せました24篇の拙文集でとの事です。







林先生からの案内文には、
「~これを一区切りとして、現在、二つの本を出版しようと準備を進めています。
ひとつは、美術史の『宗達・光球を検証する一京の名画はいかにして生まれたかー』(仮題)、もうひとつは、書誌学の「角倉素庵研究一近世初頭、黎明期の古活字版ー」(仮題)で、出版社は未定です。読んで、ワクワクするような本にしたいと思っています。
敬具  林進(元大和文華館学芸員・文学博士)」

出版されることを楽しみにしています。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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三春小学校3年生からの御礼の手紙 2023




先にお邪魔した三春小学校第3学年の「総合的な学習の時間」の授業、「町の人から教わろう」の子供たちからの御礼の手紙が届きました。

このお便りが読みたくて学校の支援をしているのかもしれません~


3年生の皆さんの手紙を読みながら、どのように伝わったか?そして、皆さんの反応は?などいろいろ推測しながら読み返しています。

どの子供さんも真剣に聞いてくれていましたが、その思いが文面に表れていまして安堵した次第です。










今回も、三春の和菓子屋、そして、商人についてのお話をお話させていただきました。

先生からのお便りには、「子どもたちは、初めて知ることも多く発見や驚きがあったようです。


今回、教えていただいたことを、これからの学習にも生かしていきたいと思っております。」と御礼の言葉が添えられていました。






こちらこそ貴重な時間を配していただき心より御礼申し上げます。

自分たちがそうであったように、成長過程の中の時期、“人として人生を生きる上で必要な事柄”を学校の内外に於いて、町の人、先人からどれだけ教えてもらったことかわかりません。

私たち三春城下に住む者、地域に住んでいる者が、三春の先輩である先人から学んで受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えています。


この様な小学生の学習場で、親とも違う大人と出会い、職業の話や三春の歴史に関する話や思いを聞くことによって、少しでも三春町を誇りに思う気持ちや町の人に対する尊敬の念を持ってもらえることが理想です。


そしてそれが私たちに様々な事柄を教示してくれた先輩方々への恩返しだと思っています。







少しでも自分に誇りをもって成長て、将来に向かって大きく羽ばたいていってくれればいいなあと考えています。


「三春で学んだことを誇れる教育」






三春城下真照寺参道御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



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三春小学校 第3学年 総合的な学習の時間「三春町の達人に話を聞こう」 2023.2.7




三春小学校 第3学年 総合的な学習の時間「三春町の達人に話を聞こう」 2023.2.7


「三春の達人」外部講師としてお招きを受けまして「三春城下の和菓子屋」の話をしてきました。


4つのグループに分かれて、それぞれのブースで「三春の歴史」「三春の大工」「三春の寿司屋」そして「和菓子屋」のそれぞれの達人がお話を聞きます。






和菓子屋の仕事、三春で商いをする意義、そして、利点・・・・



滝桜を中心に、旧三春藩、KFB福島放送「シェア」、そして、「一寸法師」のお話を例えに使ってお話をしてまいりました。






かつて私たちが子供の頃に地域の方々に教わったように、今の子供たちの役に立てればという思いと恩返しで講師を務めています。




がんばれ三春健児!



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