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三春を旅するあなたに 2021




三春を旅するあなたに 2021

都市化での画一的暮らしに埋没しながらも、時に、フトその日常に空しさを憶えたり、疲れを感じたりすることが誰にでもあるはずです

心のふるさとを求めて、旅に出たくなるのも、そんな時ではないでしょうか?

春に梅、桃、桜の花が一時に開花し、それが地名の由来となったとされる「三春」の町は、その土地柄に、そしてその人情に、幼い頃に感じた母親のぬくもりにも似た、きっと温か
な旅情を抱かせてくれるはずです。







すでにその町をお歩きになった方なら、お気づきのことでしょうが、小高くうねる阿武隈の隆起準平原の谷間に沿った街並みは、そのここかしこに寺社の伽藍を抱き、蔵や武家屋敷のたたずまいとともに、歴史を秘めた古い城下町であることを偲ばせてくれます。



花を愛でる方には、ここは「「花の町」。

日本三大桜 の一つとされる紅しだれ桜の巨木「三春滝桜」の薄紅色の艶姿には誰もが驚嘆されることでしょうし、時同じ頃、真照寺境内に咲く可憐な水芭蕉は趣深い情緒を感じさせてくれるはずです。


紅しだれ桜が町の木なら、町の花にはさつきの名花である「三春松波」が、そして町の鳥には春告げ鳥とされる「うぐいす」が制定されています。






三春は古い城下町だけに、歴史的な文化財も多く、なかでも仏像や寺社仏閣の建造物など室町期から文化文政の頃に開花した仏教文化の数々。

戦国時代の画僧「雪村」の作品や三春駒、三春張子人形など、町人、農民による文化の遺産が、有形、無形問わず数多く遺されています。






また、ここは近世の自由民権運動発祥 の地となった町で、「三春町歴史民俗資科館」内に設けられている「自由民権記念館」には、その指導者、河野広中らの著作や書簡など資料が数多く集められており、新しい日本を目指して決起した旧三春藩の若者たちの熱い息吹きをとくと感じられることでしょう。

現代では、旅行も目的対応型の時代だとか、そのスタイルも人それぞれ異なります。






寺社を巡ってみたいという人、三春張子との出会の旅だという人、三春で何かおいしいものをという人、それに、ただばんやりと城山あたりで“お昼寝でも”という人もどうぞ、この心に残る三春の旅をお楽しみください






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::三春昭進堂雑記 |
福島民報の情報ナビTime ふくしま気になるお店 355 号




福島民報の情報ナビTime

ふくしま気になるお店 355 号に、三春昭進堂「地酒三春駒どら焼き」が取り上げられました〜







酣たけなわプロジェクト「地酒三春どら焼き」黒ラベルを掲載していただきました。



ありがとうございます。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::メディアで紹介されました |
三春小学校第3学年の「総合的な学習の時間」の授業、「町の人から教わろう」の子供たちからの御礼の手紙 2021



先にお邪魔した三春小学校第3学年の「総合的な学習の時間」の授業、「町の人から教わろう」の子供たちからの御礼の手紙が担任の先生が届けてくれました。

このお便りが読みたくて楽器鵜の支援をしているのかもしれません~


3年生の皆さんの手紙を読みながら、どのように伝わったか?そして、皆さんの反応は?などいろいろ推測しながら読み返しています。

どの子供さんも真剣に聞いてくれていましたが、その思いが文面に表れていまして安堵した次第です。







今回も、三春の和菓子屋やおたりまんじゅうについてのお話、 三春の歴史や伝説などをお話させていただきました。

先生からのお便りには、「子どもたちは、初めて知ることも多く発見や驚きがあったようです。 今回の学習で様々な職業の方と出会い、 三春の歴史に関する話や思いを聞くことによって、三春町を誇りに思う気持ちや町の人に対する尊敬の念を持つことができました。
今回、教えていただいたことを、これからの学習にも生かしていきたいと思っております。」と御礼の言葉が添えられていました。






こちらこそ貴重な時間を配していただき心より御礼申し上げます。

自分たちがそうであったように、成長過程の中の時期、“人として人生を生きる上で必要な事柄”を学校の内外に於いて、町の人、先人からどれだけ教えてもらったことかわかりません。

私たち三春城下に住む者、地域に住んでいる者が、三春の先輩である先人から学んで受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えています。


この様な小学生の学習場で、親とも違う大人と出会い、職業の話や三春の歴史に関する話や思いを聞くことによって、少しでも三春町を誇りに思う気持ちや町の人に対する尊敬の念を持ってもらえることが理想です。


そしてそれが私たちに様々な事柄を教示してくれた先輩方々への恩返しだと思っています。








少しでも自分に誇りをもって成長て、将来に向かって大きく羽ばたいていってくれればいいなあと考えています。


「三春で学んだことを誇れる教育」








三春城下真照寺参道御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::学校支援 |
三春城下馬場の湯温泉「若松屋」さんで、三春昭進堂家族の宿泊新年会です。




三春城下馬場の湯温泉「若松屋」さんで、三春昭進堂の宿泊新年会です。

この時期は温泉が一番!







こんな時だからソーシャルディスタンスをしっかりとって個室でゆっくり食事です。

コロナ禍の中にあって、with三春城下の銘打って、馬場の湯「三ッ美屋旅館」さん、そして「若松屋旅館」さんへ、数回宿泊食事会をさせていただきました。






お陰様で、孫みたいな豪栄道君もすっかり馴染み気取りで、温泉は行って美味しいご飯を食べて大喜びです。



それを見ている私たちはもっと大喜びです。






すっかり、爺と婆気分です。


ありがとうございます。







今年大学卒業の次男坊も”年の離れた弟”くらいに思っているんでしょう!








早いもので、若松屋の専務が他界してからもう一年経ちました。


追善供養になればとの思いからの宿泊食事会という気持ちもあり、ご焼香させていただきました。


コロナが終息を迎え世の中が落ち着きを取り戻したころには、是非また若松屋ディナーショーを開催したいものです!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:14 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::三春昭進堂雑記 |
三春小学校 第3学年総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」令3年                令和3年2月26日 於三春小学校




三春小学校 第3学年総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」令3年
              
令和3年2月26日 於三春小学校


「日本の唯一の資源は人であり、
人を育てるのは教育しかない」                         
                          司馬遼太郎著 「坂の上の雲」のあとがきより


母校である三春小学校の第3学年の授業である総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」の特別講師としてお話をしてまいりました。



私たちが子供の頃、三春の先輩方から様々なことを教えていただき学んできました。

昔から三春人は、教育・人間育成ということには驚くほどの力の入れようでした。
 
私たち三春昭進堂も、お菓子を通してこれに少しでも貢献したいと思っています。

そして、次代を担う若い人々が夢を持ち働くということは、社会や人と大きく関わり、つながっていくことだと実感してほしいと願っています。

この講話などの学校への協力は、上記の先輩の皆様方への恩返し、そして、後輩へと継承する三春の教育を少しでも果たしたいと考えています。

未来を担う、三春の後輩たちの”学び”に、少しでもお役に立てればいいなあと思います。


もう一つ、学校への協力の根拠を挙げるならば、古の三春町教育委員会のスローガンだった「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」という言葉が大好きということかもしれません。

さらに、あえて、蛇足的にこの語に対する注約を加えさせていただきます。

下記は、昭和14年、後々連合艦隊司令長官山本五十六が母校の長岡高等学校で講演での終わりの言葉です。

「私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち 高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願いします。」





今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の対応策として2クラスそのままにて2回に分けてお話をしてまいりました。


もちろん、ソーシャルディスタンス、定期換気、手洗い、マスク着用です。






今回は、怖い伝説を中心にお話ししました。

幽霊や心霊といった怪談、怖い話などのほとんどが、目に見えないものへの恐怖・怖いという人間(自分自身)が創造・作り出したものがほとんどです。

また、神様や仏様など目に見えないもののですが畏敬の念と知って恐れを知り敬うことも大事です。

これらはすべて自分自身の心の中にあるものです。

インターネットやSNSなどで情報が氾濫している時代です。

中には嘘や紛らわしい事、うわさ話などが溢れています。

先の東日本震災による原発事故や、昨今のコロナ感染者のゴシップ等でも含まれていると思います。

心で話を聞くと云いますが、正確な情報を基に自分の心でも物事を判断していきましょう。








三春昭進堂のこと

三春は滝桜のお陰で毎年春には日本中、世界中から脚光を浴びる 最大のトップ営業マン「滝桜」

足元を見る 自分自身を顧みる 自分の足元=三春 


塵壺 平成3年より発行 
・支店やテナントを出すより経費が安い 
・三春にお客さんを呼びたい

平成版三春物見遊山 三春の宣伝!
ホームページ 三春9割  全国に発信!
三春(ロマンチックな名前)、瀧桜 全国区の地名 三春の饅頭屋 

挨拶や懇親会 お国自慢 自分の出身地を背負って 社会で活躍!
初めての人は、その人をフィルターとして三春を見ます。

胸を張って三春の歴史や長所 伝える    

三春という小さな町 少し目立つことをするとメディアに採り上げてもらえる
車社会 県中 郡山33万人 近い 強味  


・三春小学校 四代目 おたりまんじゅう 四季折々の商品 
・桜餅・鶯餅 いちご大福 花見団子 柏餅 水まんじゅう 栗大福 豆大福 
・歳時 お彼岸 お盆 ひな祭り 五月節句 お月見 七五三 入学式 卒業式 土用






三春城下の歴史のこと

 三春城下の成り立ちは、室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。
 中町と下大町は、後の蒲生代官時代に新設されています。

・お城山 太鼓堂(中町愛宕神社参道へ移転) 鐘撞堂 (田村大元神社三の丸)
・三春城主秋田家慰霊碑 戊辰戦争殉職者慰霊碑
・上校庭 お殿様御殿  下校庭 マホラ 中央大町 奉行所や役場
・歴民下 講所・明徳門 学校
・護国神社

・北町・南町 お城を境に
・天神口・天神橋 とうりゃんせ♪・防火用の池 池之端稲荷
・お城山への道 亀井坂・天神坂・三部坂
・月斎舘 100歳 天才軍師「畑にじ縛り 田にひりも 陣場に月斎」嫌いなもの
・御旗町 足軽 ・内藤醤油
・加藤木直親 三春藩柔術師範平藩 
・次男重親 もしもし 三男富造(勝沼)ハワイ移民の父

・八幡町・八幡神社 お城から移転 安部安東秋田氏由来
・丈六焼き 丈六佛 90センチ  八幡様の化身追いはぎ商人 灯籠
・三春大神宮 土砂崩れ 三春城下総鎮守 松尾神社・甲子神社・橋本神社






八島川小滝の怪談(旧小浜海道)。
八雲団地(旧三春病院)を通って、御祭に通じています。そこから右に別れ、八島川沿いに南成田へ向かって少し行った辺りの川には、急に坂道となり、右手に巨岩が重なり小さな滝となり、その間を清流のせせらぎが音を立てている。

旧藩時代には、このあたりの農家の水車小屋があって、谷間一帯には老松雑木が繁り、藤や蔦がはびこり、絶好な狐や狸の棲み処となっていました。

いつの頃か、どこから来たのか、ここに老いた女乞食が棲みつくようになりました。
日中は農家を回って物を乞い、夜になるとこの水車小屋で寝泊まりしていたそうです。

この老婆が、時には持病の癪(しゃく)をお越し、飲まず食わずで寝込むことがありました。
紅葉が美しかったある秋の事、その紅葉林の中で老婆は亡くなっていた。
見つけた村人達は、その亡骸を後日無縁仏として丁寧に埋葬して、冥福を祈りました。

ところが、その後、夜更けにあの道を通る人は、老婆の呼びかけるしわがれた声を聴くという噂が広り、村人たちは、決して夜更けにあの道を通らなかった。

程を経て、村の人たちは相談して、水車を壊し、老婆の首を吊った木を切り倒して、後生を弔いました。
古い広報三春のコラム「怪奇伝説」参照
暗くなったり、大雨などの視界の利かない時には、川に落ちたら危険なので、近くによってはいけないという危機回避の教訓話






・中町福聚寺 戦国時代日和田八丁目
・本陣 秀吉の時代 近江松阪武将・商人 蒲生時代
・愛宕神社 火消 近江の蒲生時代か? 太鼓堂 西福寺庚申 
・秋田旗本五千石 清水寺田村公京都清水寺 田村麻呂田村堂 秋田阿弖流為 

・荒町本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成していました。

この場合、当時の町屋の者はその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
 今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、
・荒町口から入る城下への街道は本宮口と小浜海道口がありました。

・大町山三伊賀屋渡辺商店 伊賀・武将の商人 カネイ 
・王子神社 おっしゃま 星信仰 百杯宴碑 川前紫渓 
・浪岡家(秋田) 北畠親房 荒木家 明智 細川家 
・紫雲寺 腹切梅 化け猫 秋田家猫塚 枝垂れ桜 真照寺 弘法・興教大師

・田村大元神社 三春藩五万石領内総鎮守 三春城三の丸 泰平寺 学頭坊 10修験
・大元帥明王 社 元寇 真照寺 別当 廃仏毀釈 阿吽仁王像 昭和30年代

「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。







「三春化け猫騒動」のこと

事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。







三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。

荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
 その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。

 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。

 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 
     


・新町
田村大元神社 三春藩領内総鎮守 五万 
旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、(10万石以上で131ヶ村)地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。 
田村三代清顕の生首が飛ぶ 卯の刻参り 世情不安 噂~ コロナ禍 

天澤寺 松下時代 会下谷 殿様を注意 焼き討ち
安寿と厨子王 磐城の国
天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、奥州岩城の国主平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城政道。
ある時、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。この政道が、安寿と厨子王の父親です。
安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。
安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。


この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。
 





真照寺
 「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。


須弥壇左右に鎮座する「弘法大師木造座像」と「興教大師木造座像」です。

天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。

この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。
 
三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村
および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。
しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。

享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった
 
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいま


  




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::学校支援 |
令和2年度食品衛生指導員養成講座を受講してまいりました。




令和2年度食品衛生指導員養成講座を受講してまいりました。


公益法人「福島県食品衛生協会」の主催です。



三春食品衛生組合から推薦を受けての受講です。


郡山ビックパレットにて、9時半〜15時半まで。

しかも、昼休憩約27分〜というハードなスケジュールです。






そろそろと云われながら、この日を迎えました。


日本に於いて「衛生」という語を創設し公的医療の普及に努め、公的衛生制度の定着展の最大功者である幕末の肥前大村藩出身の医師 長与 専斎(ながよせんさい)に思いを馳せ、食品衛生への新たな衛生管理に目覚めたしたいです~





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録 |
三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話 「戦国時代三春田村氏と田村家臣団



三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話

要田地区の高齢者学級「ひまわり学級」様から、講話の依頼があり、三春の歴史「戦国時代三春田村氏と田村家臣団」と題してお話をさせていただきました。


新型コロナ感染拡大防止という観点から飲食の中止、ソーシャルディスタンス、アルコール消毒等の対策をしっかりとっての高齢者学級例会です。



中世 戦国期の三春城主田村「田村武士団」  2021.1.20 

於要田ひまわり学級 三春昭進堂 髙橋龍一


・麒麟が来る “戦の無い国造”  150年戦争 室町時代初期より 広義では平安末期の源平時代までさかのぼる

自分の領地・土地を守る 名主に頼る 税(米による年貢・兵役・人足・雑務)

近隣の地侍や山賊が襲ってくる


田村地方は、平安時代から室町初期までは熊野大社の荘園

管理官が藤原~田村荘司は藤原姓とみられていましたが~記載なく不明

戦国大名田村氏が平姓(平氏)ですので、もともと平姓だったと推測されます。
一説では室町末期の南北朝時代に下向した橋本一族との縁戚もあり田村氏を名乗った~

田村の領主 田村麻呂の末裔とする 田村家を名乗ることが領主の証?

・洞 (内) 約100年 三春築城以来 3代

三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。

田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。

・織田信長による農兵分離政策と豊臣秀吉の刀狩及び太閤検地
 「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。

三春秋田氏 転入 給料
田村氏 土着 地侍の集合 力関係

最終的に信頼できるのが、一族郎党の洞

 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。





 
戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。

 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

・三春田村家初代 義顕の奥方は、磐城氏より
・三春田村家2代 隆顕の奥方は、伊達氏より
・三春田村家3代 清顕の奥方は、相馬氏より

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。
しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。

 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。

 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。

宮田上洞・中洞・下洞





要田は、天正の三春城主田村清顕時代(約450年前)、熊耳館・熊耳太郎右エ門、笹山舘・笹山五郎右エ門の配下であった。

さらに、元禄11年寅(268年前)の秋田公時代の名主調べには、笹山-佐藤五左エ門、熊耳・岩崎長蔵、南成田-大内仁右エ門、荒和田-橋本善次右エ門とあり、その後天保15年には、南成田・橋本五郎左エ門から秋元四郎に変り、熊耳-安瀬半十郎、笹山-渡辺市郎治となっている。


鷹巣橋本氏~伊達に行かず三春に残った一族

・佐久間氏 佐久間信盛 比叡山・本願寺 末裔 宇賀神様 白山信仰 北陸の豪族

・青山氏 青山通り 旗本

・武田氏 武田信玄 弟の家系

・吉田氏 家臣 播磨赤松氏の一族常葉顕則

・真田幸村娘 片倉小十郎 白石城主 秋田家の墓

・秋田氏 安倍安東 十三湖 津軽 海賊 世界ペルシャ湾沿岸まで貿易
  三春初代の父實季 伊勢朝熊に蟄居 永松院墓所 

・浪岡氏・北畠顕家 青森

・荒木氏 先祖は、戦国丹波(兵庫県)を治めた荒木村重の一族 
薗部城(京都府園部町)主で荒木氏綱 光秀合力

・細川氏 応仁の乱総大将 細川勝元東陣 山名壮前 西陣の由来

・小野寺氏 桜田門 守衛三春小野寺 軍師小野寺慵斎三春脱藩明治期の書物
赤穂浪士小野寺十内 常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)二本松松下 加藤

・大高氏 まほら設計 赤穂浪士大高源吾

・大内氏
1588年(天正 16年)大内定綱帰参
伊達の脅威、会津葦名の脅威 天正十一年(1583)ころから、清顕の麾下に属していた大内定綱が本格的な反抗を開始するようになり、ついに定綱は二本松畠山氏を後楯として清顕と対立した。
以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返されたが、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。
ついに、清顕みずから兵を率いて塩松の千石森まで出馬して新城を構築した。対する大内勢も定綱みずからが出馬して、新城の城柵まで打ち破り、田村勢はここでもまた追い崩されてしまった。
相次ぐ大敗に清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとしたが、新田民部に諌められて三春へ退いたという。

天正 13年9月、 政宗の攻撃を受け会津に逃走した大内定綱は、 伊達家を離反する際、童名方から松本図書跡を与え、家老にとりたてるという約束であったが、領地どころか扶持米さえ与えられない状況にあったため、高野親兼をたのみ、政宗に再度奉公したいと願い出た。

葦名牽制に役立つとの判断で帰参が許された。天正 16年3月の事である。(郡山市史1p500)

田村荘司と小山氏
田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。

以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。

田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。
応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。おやま~こやまと称する

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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