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令和8年度 曹洞宗県北青年会総会 講話「歴代三春城主と寺院~曹洞宗総持寺輪番住職」 三春昭進堂 髙橋龍一





令和8年度 曹洞宗県北青年会総会 講話  5月28日(木)於三春城下天澤寺「客殿」


「歴代三春城主と寺院~曹洞宗総持寺輪番住職」 三春昭進堂 髙橋龍一 



本日(6月1日)は、42回目となる母の命日となっています。

この日に、講話のご報告が出来るのも、ご縁なのでしょう、そして菩提寺の客殿に於いてお話ができたということは、亡き母の供養になったかと思っております。

このような機会をいただけたことに感謝します。

ありがとうございました。



夕方、偶然にも島根浜田の観音寺の方丈様より山陰日本海でとれた魚の干物が届きました。

有難くも、思いもよらないこの時節の贈り物に、ただただ感謝するとともに、この度の曹洞宗青年会講演会へのご先祖さまからのご褒美だと受け止めました。

翌日、方丈様へ御礼の電話をさしあげて、講演会の報告と次第、そしてご褒美をいただいた旨をお話し申し上げますと、大変喜んでいただき、もったいなくもお褒めの言葉も頂戴いたしました。

老師からは、偶然的な「運」ではなく、全て必然的な「縁」と学んでいます。

原因と結果(因果)を繋ぐのが「縁」で、「運」(運命)によって生かされているのではなく、出会った多くの方々の「縁」によって生かされていると教えをいただいています。


正に今回のご縁もその通りかと思います。

唯々、「ご縁」に感謝し、母、そして髙橋家先祖代々の追善供養になったかなぁと思っている次第です。








講話「歴代三春城主と寺院~曹洞宗総持寺輪番住職」 三春昭進堂 髙橋龍一 


三春城下で4代続く和菓子屋「三春昭進堂」を営んでおります。

城下町の和菓子屋という職業柄でしょうか、公私とも城下のお寺さんとのお付き合いが子供の頃よりありました。

菩提寺である天澤寺さん、門前で商いをさせていただいている真照寺さん、ご近所の州傳寺さん、現住職とは中学生からのお付き合いの時宗法蔵寺さん‥城下には11ヶ寺

また、平成十一年、福島県曹洞宗青年会主催による、報恩大授戒会が郡山西田広度寺で開かれ、菩提寺の天澤寺住職の勧めで参加させて頂きました。

お蔭さまで、無事終了して、佛弟子の証である「お血脈」とともに「法岩龍道」という立派な戒名を頂戴しました。







妻の両親が、島根県浜田市出身の妻と結婚以来30余年、浜田の実家菩提寺「曹洞宗紅蓮山観音寺」さんには、年に1~2回帰省しては朝だけですが、午前3時起きで坐禅、曹洞宗朝課の後に、精進の粥坐(朝食)に出頭させていただいております。

玄米粥 百回噛む 坐禅で20、そして粥坐で100を数えています。  

塵壺 新聞折り込みの広告チラシ 平成3年から発行 旧三春藩領 三春・船引、常葉、大越、西田、中田など15,000部 明日この令和8年6月号419号

コラム欄で三春の歴史やお寺さんのこと、身の回りのことを記載しています。 

 三春関連の名前を一番使わせてもらっている 

御礼 滝桜往復8キロゴミ拾い 真照寺参道石段 田村太元神社境内掃除 

繁忙期雨雪以外  ご褒美は、筋肉痛と体力及び免疫の増進 箒・熊手(鎌倉)

※ 陰徳 ― 禅宗の教え「没蹤跡 (もっしょうせき)」破草鞋 無一文








小さな城下町 春陽郷三春の歴史的な説明をさせていただきます。

伊達政宗の正室陽徳院「愛姫」の実家奥州田村家によって城下町として開かれ、田村義顕 永正元年(1504年)守山より三春に本拠を移す、太志田山に城を築城 三春舞鶴城。


初代田村義顕、二代隆顕、三代清顕 四代宗顕

有力家臣・田村月斎顕頼(義顕の弟)103歳、田村梅雪斎(隆顕の弟)橋本刑部などの重臣や殿様直属の「田村不断衆」と呼ばれた旗本が家臣団を構成。・・・・洞

・墓所  臨済宗 慧日山福聚寺(芥川賞作家 玄有宗久住職)日和田

・領内総鎮守 三春太元師明王社 守山より

・3代清顕死後 4代宗顕 豊臣秀吉の奥羽仕置により取り潰し。愛姫死後 一関藩田村家 

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により田村氏は改易となり、三春城は一時伊達政宗の預かりとなります(伝・片倉小十郎が辞退) 

天正19年(1591年)会津若松城主蒲生氏郷 奉行人、田丸具直。

・守山城代三春代官 慶長3年(1598年) 蒲生氏郷嫡子秀行が宇都宮に遷

慶長3年(1598)に会津城主上杉景勝 家臣の須田長義、本庄繁長、竹俣利綱が代官

上杉領の慶長3年から6年(1598~1601)前後は、三春城は守山城の支城。


慶長6年(1601年)前年の関ケ原により、蒲生秀行が会津に戻る。

蒲生氏城代により荒町の町割、中町の愛宕神社や八幡町の丈六仏堂が勧請・整備される。

新興商人 伊賀、近江など三春に進出(現在も残る) 会津は戦場と想定

寛永4年(1627年)蒲生秀行の子忠郷が死去し、会津には豊臣恩顧の加藤嘉明が入り、その三男明利が三春3万石、娘婿松下重綱が二本松5万石を拝領する。

寛永5年(1628年)前年、松下重綱が没、重綱嫡子 松下長綱が三春城主

・豊臣秀吉旧主松下松下加兵衛之綱の孫

・墓所 曹洞宗 天翁山州伝寺 録所 墓石削られている

・生母加藤氏墓所 浄土宗 正覚山光岩寺 元弘 木造阿弥陀如来立像

・近代三春城下町の整備(現六町制)

・キリシタン・乱心 徳川幕府により改易 天澤寺焼き討ち 会下谷から清水へ

※正妻 土佐藩主山内忠義が長綱を引き取り、領地は幕府へ返上する。



秋田俊季 正保二年(1645年)茨城県友部より5万5千石

(2代盛季弟季久へ五千石分知 旗本秋田家)

 蝦夷探題・日ノ本将軍末裔 安倍姓安東秋田家 愛季 信長と交流 安東水軍

三春秋田家初代藩主秋田俊季の父秋田実季は、関ヶ原の戦い後、豊臣により交易権剥奪、鎌倉以来、蝦夷探題日ノ本将軍として海外貿易で栄えた。京都復興に尽力・財力投入

徳川家康の命により、津軽十三湊から常陸宍戸(友部)へ国替え 宍戸藩。

若狭小浜 羽賀寺 修復 海外貿易 裕福 

家督争いの家臣団の対立と共に、日之本将軍の家柄を思い、江戸幕府に迎合する事を嫌う実季と、御家安泰を願う長男俊季との父子の不仲が表面化し、実季は秋田家の存続を願い幕府の命を受け入れ、伊勢の国朝熊へ移転します。 

臨済宗南禅寺派永松寺 落慶法要 伊勢神宮より車で5分 朝熊金剛證寺末


徳川幕府による御三家水戸藩創設を察知して、三春を選び出し幕府に転封と願い出て、俊季が藩主として、三春藩秋田家の創設となりました。米価安価

・秋田家は明治維新までの約220年間、11代にわたり三春城主を勤める。

・有力家臣 荒木家、細川家(吉兆細川末)、浪岡家(北畠顕家系)、湊家など

・菩提寺 臨済宗 安日山高乾院 細川家墓所=龍安寺

曹洞宗 秋田山龍穏院 8代藩主一人だけ 北畠家墓所 青森浪岡町

・祈願所 真言宗 日乗山真照寺 

・藩内総鎮守 神明宮(三春大神宮)

・大政奉還、戊辰戦争、明治維新をへて、明治3年(1870年) 三春城廃城磐前県に統合

・最後の三春藩主 秋田映季、東京へ移住。


三春藩5万石秋田家。江戸時代、江戸三春藩邸で亡くなった秋田家の一族は、浅草海禅寺に葬られましたが、それらのお墓は、関東大震災後に「雑司ヶ谷霊園」へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に三春城下秋田家菩提寺の高乾院へ改葬されています。

三春城下の秋田家菩提寺龍穏院には、藩主の中でただ一人8代藩主の秋田謐季(やすすえ)公が葬られています。(高乾院住職不在及び家老採決)



曹洞宗総持寺輪番住職と三春城下寺院

城下曹洞宗寺院   

秋田山龍穏院  三春藩主秋田家菩提寺 輪番多数 賄い料は藩で支出 

天翁山州傳寺 前藩主松下家菩提寺 

萬年山天澤寺 

室町時代の嘉吉(かきつ)3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、戦国時代に三春城下会下谷、江戸時代初期には城下清水の現在の地に移転しました。
領内18の末寺を束ねていた古刹です。

縁切寺(尼ヶ谷 福聚寺末) 梁の餓鬼 
  
身代わり地蔵 安寿と厨子王伝説 祭文語り 六部衆 時衆(宗)

岩城家菩提寺禅勝山龍門寺同門弟子


天澤寺開創の栄峰大和尚と同門下の青岑珠鷹大和尚が岩城氏菩提寺龍門寺を開いており、この辺に、地蔵堂建立への発展の素因が考えられます。

※田村義顕正妻の母「岩城御前」は会津蘆名盛隆の妹 岩城常隆妻 輪番 小山氏





田村頼顕月斎の遺書 平窪 淨勝院(寺)現・常勝院岩城寺?

※常勝院は、室町末期 享禄三(1530)年に大館に開山、元和年間(1615~1623)に中平窪に移った

永禄2年(1559)の「田村庄大元明王大般若経奥書」にみえる大般若経六百巻の書写は、 田村義顕による進献の事業ですが、経櫃三合に収められた二百巻の折本の大般若経は、天沢和尚以下、薩摩の慶徳、日向の京文、肥後の昌恵、美濃の坊など十数人の手で書写され、13350枚の和紙(貴重品)が用いられています。

※後に田村氏菩提寺福聚寺に移され火災にあい巻第三百八十三のみが上下焼失の形で残存




普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。

そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。







天澤寺 末寺・檀家で賄い

龍穏院 檀家・三春藩筆頭・家中上級家臣

「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。


「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。






輪島  北前船 寄港地 賑わい 安東水軍(津軽船) 鎌倉幕府から「蝦夷探題」「関東御免船」 日本海~東シナ海の航路の管理

總持寺 元亨元年(1321年) 瑩山紹瑾禅師によって開創されました。

翌元亨2年夏禅師に帰依された後醍醐天皇(建武親政)は綸旨を下され、總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。






三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」    三春昭進堂主人雑記 髙橋 龍一










「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」    三春昭進堂主人雑記 髙橋 龍一


三春大神宮由来について

 三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。

以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。

江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。







明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。








三春大神宮神輿渡御について

三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)


当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。

その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       


その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。




戦前の田村大元神社長獅子



長獅子奉納について

先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。

それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。







満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。







j大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。

これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。



三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。






各字奉納山車、花車、太鼓台について

各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。

明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。






また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。


この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。



各字神輿奉納について






大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。


現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。

還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。





以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
       






高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。



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「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」  中田町郷土歴史研究会 講演会 4




「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」4
  
      中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター

   令和6年12月17日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~


三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者

「御春輩」とは中世の混沌とした乱世に於いて中央からの圧力に抗して自尊独立を貫き通した誇り高き田村武士団の総称です。

郷土の歴史を辿るのは自己を顧みる事なり 照顧脚下

   赤穂浪士と三春藩 秋田氏 雑記

大高源吾(秋田由来)、不破数衛門(宍戸)、小野寺十内、
宍戸秋田氏と笠間浅野氏 同時期に隣接 親類?

・討ち入り衣装 大名火消し装束 火消及び機動隊 消防団(防犯協会)

六万石以下の大名 三春藩五万石秋田家火消組

真壁藩・笠間藩浅野氏
・浅野長政は慶長10年(1605年)隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石。
赤穂事件で有名な浅野長矩は長重の曾孫である。

※寛永13年(1636年)江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番。同年11月、朝鮮通信使の来聘につき、相模大磯にて饗応を担当。
寛永20年(1643年)にも、朝鮮通信使を下野今市に於いて饗応を勤めている。

正保2年(1645年)、当時赤穂藩主池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件(正保赤穂事件)で池田家は改易。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。

尚、赤穂浪士討ち入りの20年位前、三春藩主3代の秋田輝季は、延宝7年(1679)に勅使饗応役を勤めました。

※朝鮮通信使は、江戸時代に来日した外交使節団です。その回数は12回に及び、大船団を
組んで日本各地に寄港し、400 名以上の大行列が江戸まで旅をしました。
 脇坂安董の所領 現・たつの市には、通信使が寄港した室津があります。
加えて、最後の通信使を迎える副使に脇坂安董が任じられています。
全12 回にかかわったゆかりの地です。
 対馬での聘礼は、徳川11代将軍家斉襲職(天明7・1787年)に対する慶賀でしたが、接
待費負担の軽減等をはかるため文化元(1804)年に対馬での聘礼が決定しました。安董は副
使として文化 8 年の聘礼をつとめました

宍戸藩(現・笠間市平町旧陣屋一帯)は、江戸初期(慶長7年(1602年)~正保2年(1645年)7月三春転封)の安東・秋田氏五万石の領地です。
関ヶ原の戦い後、常陸54万石佐竹氏の出羽転封で、秋田実季の宍戸入封となりました。
※寛永7年(1630年)9月、実季幕命により伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季(後の三春初代藩主が継いだ。
秋田氏は、正保2年(1645)8月、奥州三春(福島県三春町)に転封となりました。

※宍戸から三春への国替え行列は、旗一七本、槍一二〇本を立て、鉄砲一八〇挺、弓四五張、騎馬供七六騎であった。

浅野長矩 切腹場所 一関田村家江戸藩邸 虎ノ門ヒルズ付近

桜田門外の変と三春秋田氏
安政7年(1860年)に水戸藩浪士らによって大老・井伊直弼が暗殺された、「桜田門外の変」三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭として「外桜田門御番所御当番」の役職にあり、「内桜田門」は「桔梗門」のことでその警備を任されていました。

秋田家文書「桜田門勤務心得」「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)三春藩江戸定府公役には桜田門警備記載
 
また、「桜田門外の変」の水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士の小野寺慵斎(ヨウサイ)がいます。

・伊勢朝熊 永松寺實季 近習 交野氏 石田三成の子(愛妾)
関ヶ原合戦の際、徳川方の秋田實季に三成が我が子を預ける。 
近習として最後まで實季に奉公 後三春藩へ帰参

・三春田村の墓所 白石市 片倉墓所隣接 真田幸村娘 伊達に預ける 片倉氏預り
愛宕山の片倉家御廟所の一角に、仙台藩主伊達政宗公の正室愛姫(めごひめ)の父である三春城主田村清顕(きよあき)公をはじめとする田村家の墓所があります。
清顕公の没後、田村領は豊臣秀吉によって没収され、嗣子の宗顕は「牛縊(うしくびり)定顕」と改姓。子の定広とともに宮城県の伊具郡に静かに身を潜めていたといいます。その後、愛姫の命により、二代片倉重長が白石に招き住まわせたといわれています。
定広は片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名。
真田信繁(幸村)公の遺児の一人である阿菖蒲姫(おしょうぶひめ)を妻に迎え、300石で仙台藩士となります。片倉家御廟所のある愛宕山に田村一族の墓所を定め、父清顕公の墓を建立。一族の菩提を弔い、没後、妻の阿菖蒲姫と共にこの地に葬られています。
阿菖蒲姫の墓のそばには、名の刻まれていない父真田信繁(幸村)公のものと伝わる墓碑が並んでいます。




三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」

   「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺。

 ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。

これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。


 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。

 江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。

 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。


 この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。

 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。


 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。


「腹切り梅」

亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。

その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。

その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。


「三春化け猫騒動」

事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。


その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。

 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。


 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 

 古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照

 大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。


 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村

および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。

 正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。

しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。


今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。


 享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。


 天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。


消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった

 真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。

火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。



                    合掌  









三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」  中田町郷土歴史研究会 講演会 3
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」3
 
 中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター

令和6年12月11日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~

三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者

中津川城 歴代城主

応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。

時代は下って・・・

天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城及び田原谷城(小野町夏井)を破局した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。

田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、一度離反し反田村氏となった常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます

田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ 

仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。


中津川氏 宿老 四天王家 滝田氏、宗像氏、村上氏、某氏


田原谷舘、細田舘 中津川氏 所領



天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。

この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。

6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。


黒木舘主 黒木氏の考察 2025
「黒木舘」田村四十八舘 
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。

 黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。

建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 ※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前


御舘山「下枝城」城主 橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)
橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善)の名前が見えます。
下枝氏は、本姓「橋本氏」で、田村庄司田村家一門 田村氏とも考えられます。

下枝橋本氏は、田村持顕の孫 重顕の子で、田母神氏の祖 田村利顕(重為)の弟、広顕より始まり、田村郡橋本村下枝を発祥とするとしています。

天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻。してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされています。
後にも田村領城郭要害絵図には、下枝橋本氏の名跡を継いだ、下枝舘橋本刑部少輔顕徳の名前が記載されています。
橋本刑部少輔顕徳(あきのり)(貞綱)の居舘。三春城下臥牛山(現紫雲寺山麓)に刑部舘跡あり終焉地(今泉系譜)
※田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。
田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主(兼務、弟や子が城代)、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も※田村月斎顕頼二男との記載が在り、弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春田村家改易後の橋本刑部とその子孫・仙台橋本氏

一関田村家本「田村系譜」 (諸家系譜2)は、橋本刑部顕徳が大坂に登り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたがその甲斐がなかったと記されています。
「伊達世臣家譜・橋本家譜」は、顕徳の子但馬および清顕後室である”喜多(あるいは於北)相馬氏”のその後を明らかにしています。
但馬は田村家滅亡後、 清顕後室に従って子息とともに伊達家にはいり、以後もこれに仕えた。 元和五(一六一九) 年後室死去。
但馬の子伊勢広信は、陽徳院に仕えその老(おとな)となったと伝わっています。
その子孫は知行六百石で召出の班に列します。

三春の三春大神宮にあった橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟
 橋本神社
南朝の忠臣橋本正茂を祭神とした、同族神の神社で大正7年ころに作られたものです。
大正7年、正五位を贈られたことからはじまり高野(仁井田・鬼生田)の橋本氏を中心にして橋本姓を名乗る人々によって建立・維持されていました。
現在は三春大神宮に合祀されています。
しかし、この神社が何故無くなったのかは、不明です。
 尚、郡山市西田町(旧・田村郡西田村)土棚にある高野神社の境内に、橋本廟というものがありますが、ここに祀られているのも橋本正茂であり、またこの神社の裏山には、彼の墓があります。
 故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省
     故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日
  宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣(宮内省印)









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「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御について」 2023.10  三春昭進堂主人 髙橋 龍一





「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」 2023.10
                    
 三春昭進堂主人 髙橋 龍一


三春大神宮由来について

 三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。

以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。

江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。


明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。








三春大神宮神輿渡御について

三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)


当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。

その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       


その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。




戦前の田村大元神社長獅子



長獅子奉納について

先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。

それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。







満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。


j大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。

これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。



三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。






各字奉納山車、花車、太鼓台について

各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。

明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。


また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。


この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。



各字神輿奉納について






大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。


現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。

還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。





以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
       






高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。






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新町睦会 花車と樽神輿奉納  旧三春藩総社三春大神宮秋季例大祭




旧三春藩総社三春大神宮秋季例大祭

新町睦会 花車と樽神輿奉納






この樽神輿は、長獅子との隔年奉になります。
昭和50年代初頭に、長獅子の無い年に奉納しようと、田村大元神社別火講中の有志で作られ、紆余曲折しながら平成5年に新町睦会として整備されました。



花車は、30年前に復元しました。

昭和30年に、一度だけ奉納した旧新町太鼓山車で、田村太元神社の縁の下に70年間眠っていました。




彫り物は、盆太鼓櫓や随神門下などに、分散して保管してありました。

恵比寿さまや、鶴に亀など祝いの彫り物があります。

明治所用に解体された旧三春藩内総鎮守「大元帥明王社」の遺構と考えられています。


その後、明治後期に作られた新町大太鼓舞台「花車」へ受け継がれ、現在に至ります。




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「中郷の歴史 田村四十八舘」 中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一 r5.3.14



中郷の高齢者学級さくら学級でお話をさせて頂きました。お昼まで呼ばれまして〜♫
幼き頃より見知っている先輩方ですっかりご馳走になり、いい心持ちのよき日となりました。


先の講演会には、おたり婆さんの出宿の当主さんも出席されてました。お話をしたました際に、「自分の家出身のその末裔が頑張って繁盛してる。これは嬉しいことだぞなぁ!と知り合いに言われたんだ、本当にそう思う、ありがとな!」と言う言葉をいただきました。
こんな嬉しい言葉はありません。
がんばって商売をやって良かったなぁ〜って心より思いました。


「中郷の歴史 田村四十八舘」
中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一
             於三春の里 令和5年3月14日(火)
                      
はじめに
・柳作髙橋 根本近内 込木見渡様 笠石八幡宮 
・滝桜散歩 ゴミ拾い 
・テレビ 滝桜
・中郷は、戦前には一時教化村に指定され、多くの人材を輩出。
昭和60年代末より平成2年桜中学校創設にあたって、三春瞬教育委員会「子どもの夢の育つ学校造り」「教科教室形の学校運営方式を採る中学絞」の研究校


1.戦国時代舘跡探訪
                      
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。

「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせると百以上の舘が存在しています。
時代に前後しますが、確認されている田村領内の館跡だけでも、三春町内で二十五カ所、旧三春藩領(田村郡及び郡山市東部)を含む全体では百十三カ所にのぼり、他に、場所のわからない館や郡外に田村氏が築いた館をあわせると三百カ所以上になります。
これらの館跡から、江戸時代に、選りすぐったのが「田村四十八館」です。

全国の戦国武将の領内でも「~四十八舘」と称されています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。館(たて)とは、小規模な城のことですが、実際には、軍事施設もあれば、地主・領主の居宅、村の集会所や避難施設などの様々な用途があります。


◎ 過足舘址 木幡氏
過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。将門が反乱して亡んだ後、その一族千葉氏、後の相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。

その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。


◎ 「柴原館」
城将は、橋本助右衛門、禄高450石。
館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、
本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、下枝城主、木村城主(刑部舘)で、田村四天王の一人橋本刑部少輔顕徳の一族と伝えられているが、記録が少く地方の人にも余り知られていないようです。
尚、田村氏の一族も橋本姓を名乗っています。
芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本、田母神橋本、中津川橋本・・・






◎「貝山館」
舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)

天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢の軍勢の為に軍勢の主力を臨場させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、伊達に組する三春の領主田村宗顕を攻めます。

この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。

2・中郷今昔物語の巻
中郷の昔は、滝外18ヶ村戸長役場が行政区となっていた。
その後、滝、柴原、込木、楽内、芹ヶ沢、貝山、蛇沢、春田、狐田、過足、根本、樋渡、蛇石が合併して中郷村となったのである。
これは明治20年町村制実施以来のことである。

初代村長は田村謙次郎、次に御代田勝弥、木幡文多郎、橋本喜四郎、木幡文忠と続き、三春町に合併したのである。

◎ 芹ケ沢
津島神社(旧神号天形星王社)
※天形星は天刑星(てんけいせい)ともいわれる道教の神で「木星」を意味するという。
この天形星が陰陽説で牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王が素戔嗚(須佐之男命)と習合する、という複雑な過程を経てこの社名

三春城下の西、旧小野海道芹ヶ沢村の入り口を見下ろす小高い丘に、鎮守津島神社、芹が沢稲荷神社、見渡神社が合祀された社があります。

かつて、春と秋の祭礼には、「お人形祭り」として、三春領五人形様の一つ「天形星王のお人形様」のお衣替えという行事がありました。
祭礼前日に、氏子が社殿に集まり、大人形を作ります。
まず、大きな樹の柱を胴骨にして、コモを巻き頭部に篭を被せて紙を貼り、顔を描きます。
胴体には、杉の葉をたくさん差して着物にします。
これを「お衣替え」としていました。
この人形を押し立てて、神官の祈祷の後に氏子一同で拝みます。
そして人形様は、神精霊の形代として、村に入り込む厄や流行病除けとされてきました。
その偉容は、厄病を威嚇するに相応しい中国・朝鮮調の鬼面のような人形であったと伝えられています。

この津島神社の「お人形祭り」は、春秋の二回欠かさず行われてきましたが、近世に発生した社殿の焼失で現在は行われていません。

◎ 楽内
 三春城下磐城海道境の旧楽内村に鎮座する「金比羅様」です。
かつては、農家方々からは繭の神様として信仰を集めていました。また、山一つ隔てた弓町遊廓、庚申坂新地のお女郎たちからは、年期が早く明ける祈願所として信仰を集めていました。

◎ 込木
三春城下の南に、くぐりきと読みます”込木”の宮ノ下に見渡神社があります。

江戸期は、「飯渡大権現」権現さまと呼ばれ、古くからトリケの神と称して、百日咳にかかったときは鳥居の石を削って呑めば治ると云われていて拝殿には鶏の絵馬が多数奉納されている。
三春昭進堂の創始者高橋民四郎の本家も、込木柳作です。
かつて、十月の祭礼には、民四郎の妻おタリや、その子で当家先々代の傳造が饅頭を台八車に乗せて、社殿下で売っていたと聞き及んでいます。

◎ 柴原
・「柴原日枝神社」江戸期までは、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「柴原山王社」などと呼ばれ、旧柴原村の産土神として崇敬されていました。景色がいい

・「柴原神社」
三渡大明神として村の鎮守していました。現在でも、秋の祭礼時には柴原の若衆が「お籠もり」をして夜明けの神事を行っています。

◎ 滝 
・稲荷神社
・田村三十三観音三十番札所 大霊山龍光寺、馬頭観音堂
三階滝(三界滝) 古銭

◎根本 
・笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。

・根本神社 根本八王子神社
三春城下の南四里、滝桜南の根本村旧鎮守です。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社とされています。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
 根本神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。

◎過足
・「鎮守仁渡神社」
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。

・過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。

・「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
日本にある江戸時代前に建立された有名な神社仏閣 
その7割が、空海、田村麻呂そして徳一が創建

◎ 樋渡
・樋渡神社です。
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。
熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。
境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。梅も咲きます。

◎ 蛇石
「蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。

◎ 狐田稲荷神社
三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就した。
大晦日、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
享保三年に、家老職連名で奉納した鳥居です。

◎ 貝山村 
・白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
柴田勝家 与力 織田信長重臣佐久間氏末裔由来 佐久間氏の氏神様
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。我が子の無事帰還祈願でしょか?

◎ 「春沢見渡・日枝神社」

春田集落の見渡・日枝神社は、三春ダムの完成により、旧蛇沢と春田の住民がこの地に移転してきました。

蛇沢郷鎮守見渡神社は、天之村雲命を祭神として蛇沢村にありました。
関東より移住した先祖が分霊し勧請したと伝えられています。
また、日枝神社は、春田鎮守山王権現として大山祇神を祭神として春田村に鎮座していました。日枝神社の神の使いは猿といわれています。


| ryuichi | 03:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |