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中郷さくらの会 歴史講演会 於三春の里 令和元年12月10日(火) 三春昭進堂 髙橋龍一




当三春昭進堂4代に亘ってお世話になっている中郷さくらの会さまより、「城下新町の家屋についている屋号について話してもらいたい」との依頼を受けまして三春城下の成り立ちと共にお話してまいりました。


私の親の世代の方々です。

もちろん、子供のころ顔見知りの方々ですので、緊張し中がらも温かく見守ってもらいながら話を聞いていただきました。



中郷さくらの会 歴史講演会   於三春の里 令和元年12月10日(火)
                      
三春昭進堂 髙橋龍一

1.三春城下の成り立ち
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り、築城したのが始まりと言われます。田村氏は義顕、隆顕、清顕の三代が三春城主としてこの城に拠った。
お城を中心に、北=北町 南=南町 新町=荒町 中町=蒲生2 大町(下大町)=蒲生
新南町(松下)=新町(秋田)

天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成「奥州仕置き」を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。
会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。
家光の代寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、これとは別に嘉明の次男、明利に三春三万石が与えられます。
その間にも城の改修や、町割りそして寺社の建設が進みました。

翌年には明利は二本松に移封され、松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年ほど幕領であったが翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部した。

町割りと修験堂寺院

三春城下の修験には大元帥明王別当学頭坊(山中・明王町)を筆頭に

1、華正院(荒町)馬頭観音堂
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町・王子権現)
5、般若寺(北町・天満宮別当)愛染堂
6、陽照寺(北町切通し)御本尊「阿弥陀如来坐像」は真照寺へ
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井・三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中・大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)西国三十三観音石仏 天澤寺へ
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)百杯宴石碑
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)後秋葉神社 水天宮 智法院屋敷
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、満徳院(丈六)
21、西福寺(中町)愛宕神社別当
22、大光寺(中町)愛宕神社別当 八幡山大光寺
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています
修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。

2.新町の成り立ち
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町(明王町・田村~蒲生)と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形だった。

大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。

真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水は入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。

3.セリ市場付近の屋号





資料参照

4.荒町(新町) 蒲生時代
明治になり、郭境門が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、昔から商工業が盛んなところでした。工業といっても、製糸工場、羽二重工場ですが、旧藩時代から明治大正にかけて盛んでした。
前の三春中学校敷地にあった三盛社は、当時女工150名を使って操業していて、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

街本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、馬頭観音等が立ち並び、寺町でした。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで参っていました。

この場合、町屋のものはその行列に遠慮して通り過ぎるのを待って墓参に行く有様でした。
お盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為です。

小浜海道口の方は、今の渋池の中ほどから、上り二折れしていた道を、先の三春中学校西側に沿うように道路を作り、交通の利便性を図って往来がスムーズになり繁昌していました。

馬頭観音は、古い由緒を持っています。戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。
小野の東堂山、堂坂(現小泉)と共に三観音(馬頭観音)と呼ばれ、庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

5.北町
三分坂 戦国期の三春城主田村公の直参旗本「不断衆」屋敷跡。
後の秋田公代には、藩主及び御城の近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」が屋敷を構えた。
宿直番衆は、昼夜問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せ支給されていたので三分坂と呼ばれたと伝えられている。
旧三春城登城口「天神橋口」
かつては、ここに防火用水と城防御のための、堀があり、この場所に橋がかかっていました。天神橋とは、昔北野天満宮(現北野神社)が、城内にありこの橋を通って領民がお参りに行ったところから名付けられました。
「亀井清水」 かつて、少し上に、郭境相馬海道口黒門があり、その行き帰りにのどを潤したといわれます。

6.八幡町
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。

飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。
八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

7.中町 蒲生
三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。
三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。

御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。
御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。
この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
江戸期秋田氏の時は旗本5千石代官屋敷

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。
大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。

旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。

このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。

新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

8.大町
伊賀屋山三渡辺商店 
第九十三国立銀行 初代頭取 渡邊甚十郎
本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見れます。

呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。
後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。
橋元柳平 明治末芹ヶ沢の田村競輪競馬場 清水馬場
三春狐~ 自由民権運動家弾圧とこの頃の三春藩営やっかみ! 二本松藩

 神田 春山 船田

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。
御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。
舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありましたが、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。
山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。

明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?
また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」



一般社団法人福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」


福島県建築士事務所協会 県中支部青年部は、株式会社村上設計取締役村上様を会長とする県中の設計事務所の青年部の方々が所属する会です。


同会相談役のエーユーエム構造設計株式会社の浜尾様よりご依頼がありまして、昨日、三春城下の寺社仏閣や歴史的建造物をご案内いたしました。

公私共にお世話になっている郡山市雲龍堂の阿部様からのご紹介を受けた浜尾様からの依頼ですので、少しでも三春城下を知っていただこうと快諾してご案内をした次第です。


当日は、15名の方の参加され、初めに真照寺住職山岸和尚様には真照寺の説明と真言密教式座禅の阿字観をご教授いただきました。

また、庚申坂弓町新地の旧妓楼の所有者河辺様には、妓楼内をご案内いただきました。

ありがとうございました。




以下は案内した場所となります。

1、真照寺 三春藩主秋田氏祈願所 午前8時~
真照寺山岸住職及び三春昭進堂髙橋による三春城下歴史概要・真照寺説明

・藩主御殿遺構 欄間・木戸
・弘法大師、興教大師木造
・古四王堂
・方丈池









2、庚申坂弓町新地 河辺邸  午前9時過ぎより見学可能






私自身も、旧遊郭である妓楼へお邪魔するのは初めてのことです。







私自身も楽しませていただきました。














大正年間に撮影された満開の瀧桜と娼妓が写った写真がありました。

桜木として初めて国の天然記念物に指定された大正11年の翌年の春だと思います。日本髪の庚申坂弓町新地遊郭の娼妓さんが写っています。






これは貴重な構図です。





そして、終戦後の進駐軍兵士登楼お断りの看板!






陶器の便器




三春乗合自動車開業のポスター





河辺さんの旦那様による補修・修復によって保存状態がよく保たれています。






玄関引き上げ大戸の傷跡



3、田村大元神社 三春藩藩内総鎮守 



・仁王門

・本殿 

・熊野宮・北野宮 


4、天澤寺 曹洞宗 


・伽藍・天邪鬼 

・身代わり地蔵尊 

・駆け込み寺  

・柿の木地蔵  

・お城山 秋田家慰霊塔 北畠浪岡氏 

・上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡

桜川沿い 

・百杯宴碑 


7、大町お祭通り ・磐州通り







7、三春文化伝承館 紫雲閣(現在立ち入り禁止)







座敷蔵「紫雲閣」は昨年から一部破損して居る為に現在立ち入り禁止となっていました。









盆過ぎとはいえ快晴の真夏日です。


暑い中お疲れさまでした。

また、メンバーの三条屋代表の宮川様とは幕末の長岡藩家老・軍事総統の河井蒼龍窟の話での楽しい情報交換をいただきありがとうございました。

これは別枠でもっとお話ししたいところです。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」~菓匠蒼龍
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」払拭学習会
                          
三春出身の郷土史研究家橋本捨五郎さんを講師に迎えて、表記のジャレ唄「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」の三春狐の由来払しょくのための勉強会が、三春町国際交流会主催でライスレイクの家で始めっています。

「今この根も葉もないじゃれ唄を払拭していかないと・・・・」との思いからの勉強会立ち上げとなりました。

私も講師の捨五郎さんや国際交流会の石川会長からお誘いを受けまして、先月から参加しています。

本日、その勉強会がありますが、わたくし所用のため欠席となりますので、先月の私の考えた発言内容を記載させていただきます。

以下は私の考える三春狐です。

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」
                          
髙橋龍一

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、意図的にただ勢いだけで流布された戯言的狂歌(ジャレ唄)・・・だと私は思っています。

1.三春町民の知識階級の方々には、高度成長期まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識しか無かったはず。

2.明治の自由民権運動初期には、三春人を見れば皆自由民権運動家の疑いをかけられていた時期がある。

3.明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

このじゃれ歌は、町民目線での歌=士族軽視

NHK「朝が来た」を見れば当時の藩御用商人が藩から受けた仕打ちがわかります。
武士の俸禄がコメで支給されそれをお金に両替して、さらにお金を藩に貸し付け、さんざん貸付金を棒引きした挙句に「戊辰の役」のために戦費を差し出します。
さらに、戊辰の役敗戦や明治維新、廃藩置県とともに長年の貸付金返済が不能になり、倒産した商家も少なくなかったはずです。
是ではこんな恨み言を盛りこんだ“じゃれ歌”を作っても“ばち”は当たらないでしょう・・・・

この詩をよくよく読み込んでみますと、
・三春狐(狐はお稲荷さんの使い)は三春藩を裏切ったと馬鹿にした歌ではなく。

・広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出し会津猪と揶揄された会津藩。

・二本松史観の解釈から出て来たであろう、ピョンピョン跳ねまるで了見違い棒(坊=世間知らずな子供)とまで揶揄された二本松藩
この両藩の戦争批判。

・そして奥羽列藩同盟の盟主伊達仙台藩の日和見主義への批判が読み取れます。
戊辰の役で、各藩士、町民さらには諸外国からの汚名を一番払拭したかったのは仙台藩ではなかったか?

それを三春狐に騙された=三春藩の裏切りと定義したのは、明治以降の三春の発展に対する会津や二本松の旧藩士ではなく、奥羽列藩同盟の盟主伊達藩からではなかったか?
 伊達仙台藩は戦後、越後長岡藩など奥羽越列藩同盟の戦費の各藩債権の返済を外国から迫られる。

・会津猪由来 
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。

・尚、長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから会津荘内同盟および奥羽列藩同盟(後に越後長岡)という虚構の構図が生まれます。

しかし、伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、三春町民すべてを対象として言われ続けることには違和感があります。

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」と思っていました。


三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於三春町老人クラブ連合会


「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於老人クラブ連合会

三春昭進堂主人 髙橋龍一

1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」

2.戦国以前
那智熊野権現大社の荘園・・領内にある熊野神社
・湯峰氏。熊野講中引導師・・・湯の峰温泉参拝の禊場(温泉)
 田村家の家臣・・・直参以外は田村庄司の配下(荘園の役人で各地より召集)
 ちなみに三春田村家は、平姓。田村庄司家は、藤原姓
三春過足の上石家(親戚)、坂上田村麿の東征の途中、滞在した土地で子を作りその子に「上石」の姓を与えた。福島県郡山市田村町金沢、中田町上石あり。宮崎県北諸県郡三股町樺山が本拠とされるが、兵庫県加東市上田(ウエダ)が本拠。
戦国時代末期、新潟県上越市にあって上杉謙信の家臣だったと伝える。




3.戦国田村氏・・・塵壺6月号参照
・戦国田村家・・・田村麻呂の末裔・平氏田村一族(南朝田村庄司一族とは異)
・田村麻呂・大和民族(渡来人末の父とアイヌ末の母から生まれた身長6尺のハーフ)

三春田村領の周辺には、北に伊達氏、岩代大内氏、西に会津蘆名氏、東に相馬氏、南に二階堂氏、佐竹氏、岩城氏などの戦国大名がひしめき合い度々侵攻が繰り返されていました。
 また、田村家の組織編制の上で、織田信長以前の中世的な全国の武将と同じく、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえ家中掌握が弱かったと考えられます。
そのために、独立性の強い在地領主層は、度々周辺の武将から調略を受け、各々が家名存続・自領安堵の為に、抵抗・離反が度々起こっていました。まさに「四面楚歌」の状態です。

・伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置)

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。




後に、愛姫が片倉家の白石に清顕の甥となる田村宗顕ら田村家宗家を呼び寄せ、その子である牛縊(うしくびり)定廣が、少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し、妻となったのが、真田幸村(信繁)の娘・阿菖蒲でした。

尚、この時伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家である田村宗顕・牛縊定廣の田村本家、はじめ御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など分家した11家(分家下士含めると28家)にとどまります。
※当時の分家とは、三春の自領地に親族をを残して伊達家へ仕官




4.安倍・安東家秋田家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・米造り弥生文化
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・安倍貞任・東和の旗まつり「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家に廃退より秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

・倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。
鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化
東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。
文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗は、元が負けることを想定していた?
鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい

5.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉
武士の給料は米で支給。経済はお金
・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・奇兵隊や幕府歩兵
その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化




6.戊辰戦争と三春・
・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 
会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われる。
会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)

旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ
旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ

7.会津戦争と三春・・・三春狐に騙された。

戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)
三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・最後執政秋田春季静臥と大原家(薩摩藩)


・三春藩銃砲組・・・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・・・・・・・・・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人


当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
筆頭家老西郷頼母、家老神保修理、秋月悌次郎等、戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、

狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

*明治後期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が棚倉城攻防戦での三春藩の撤退を記載しているのみ。
山川大蔵浩著「会津藩始末記」明治四十四年発行にも記載なし。

・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。
・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
・蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ
これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。

元禄以来、経済は貨幣が流通している・・武士の給金は米券で支給・・両替手数料
開国による品不足・物価上昇・・・庶民の暮らしの圧迫

伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?しかし、悪役が欲しい・・・・。

これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・
士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだしも、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのに違和感があります。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。
しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけ。

8.まとめ~三春に狐は居なかった!
・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ
・唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。


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三春物語938番「三春~教科書には載らない歴史」~於Ri2530地区三春ロータリークラブ例会


>Ri2530地区三春ロータリークラブ会長の増子博保さんから”三春ロータリークラブの木曜昼の例会で、三春の歴史について話してほしい”と云うことで、ご案内を受けました。

増子会長は、今年度の目標として「地域を知り、地域の貢献し、ロータリー仲間を増やそう!」というスローガンを掲げているそうです。
そのトップバッターとして私に白羽の矢が当たったという次第だそうで、ありがとうございます。。

お題は「三春のと戊辰戦争」ということでしたので、例の「三春狐」の払拭の絶好の機会到来とばかりに、歓び勇んでお邪魔させていただき、諸先輩を前にして大変恐縮でしたが、”おしゃべりな饅頭屋の一席”にお付き合い頂こうと、お話をさせていただきました。



このような機会を与えていただいたこと、三春ロータリーの皆様には、感謝申し上げます。

また、増子会長には、過分なるご紹介いただきました事、大変恐縮です。

エスコートしていただいた、永井さんには、様々な場面においていつも感謝いたします。

重ねて御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。




丁度この日は、友好ロータリークラブの茨城県八潮市の八潮ロータリークラブの方々のご臨席での卓話となりました。

先日、有楽町の帝国ホテルで行われた八潮ロータリークラブ40周年祝賀会の御礼だそうで、この人の輪と申しましょうか?交流の厚さと申しましょうか?絆なんでしょうね、ここにロータリークラブの意義、素晴らしさの断片を垣間た思いがいたします。

杉村会長はじめ八潮ロータリークラブの皆様には台風11号直撃の中のご訪問ありがとうございます。
貴重な経験をさせていただきました。

また、画像をいただきありがとうございます。早速使わせていただきました。

さらには、化粧用具のビューラー国内シェアは約70%、資生堂「マキアージュ」のビューラーは全て沼澤製作所の社長沼澤明夫さんもロータリータリアンとして来町され、お土産として持参していただいた「自社製八潮ロータリークラブ発足40周年記念」に製作されたビューラーを、当店女将と女性スタッフの分まで頂戴いたしました。

重ねて御礼を申し上げます。

尚、国際ロータリーの会長である田中作次さまが所属されています。
地域社会の為、世界の平和の為に世界中を駆け回り活動を続ける賢人は日本で3人目のリーダーとのことです。




本来であれば、諸先輩を前にしてジャケット着用で登壇すべきところなんでしょうか、饅頭屋として、歴史の語り手としていつもの作務衣で臨場させていただきました。

下記はその卓話の内容です。


「三春~教科書には載らない歴史」    於三春ロータリークラブ例会

三春昭進堂主人 髙橋龍一


1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」


2. 戦国田村氏・・・塵壺6月号参照

3. 秋田家安倍安東家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・・塵壺伊勢詣り
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家により秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。

鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化

東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。

文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗が元が負けることを想定していた?

鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい



おたりまんじゅうを食しながらのお茶での懇親会にて、杉村八潮会長と増子三春会長と3ショット

4.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉

 天皇は洛内(京都)や大和地方の一信仰の対象・・・江戸幕府が規定・・自ら犯す

開国・不平等な通商貿易
・米価本位の経済の破たん・欧米各国の脅威・飢饉

金・絹など西洋と貿易・・・金が安、銀が高・・欧米とのかけ離れ
金銀の交換比率は,日本では1:5,世界市場では1:15
外国商人は洋銀を日本に持ち込み,国内比価で金と交換し,暴利を貪った

輸出急増のため,国内は品不足 → 国内物価高騰物・・・・民衆の爆発・打ちこわしや一揆の続発、“ええじゃないか”

薩摩藩や長州藩などの西国諸藩・・・地場産業の開発や密貿易により現金収入

地場産業振興・輸送・・・北前船・
密貿易・・・・出島や沖縄・竹島・尖閣諸島等々

石見浜田藩(島根浜田市))・棚倉更迭・・ヤシの実でサッカー目付(スパイ)間宮林蔵に見つかる

「忠臣蔵」赤穂浪士の軍資金・・・塩売買・・・大量生産・遠方への輸送可能
・・・・・莫大な利益    小野寺十内秀和 (祖父十太夫は三春藩士)

「桜田門外の変」水戸浪士・・・こんにゃく農家から献金・・少ない

こんにゃく・・・長持ちしない江戸へ船で輸送
三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭 として「外桜田門御番所御当番」

水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士小野寺慵斎がいます。
・江戸城下水運の管理・彦根藩 運用税の値上げ~利益減少

・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・長州藩奇兵隊や幕府歩兵

その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化



5.戊辰戦争と三春・・塵壺秋田静臥

・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 

会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われるー会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

三春藩の協力・荷駄運搬のみ
・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
新政府軍・薩摩長州を中心とする西国諸藩は、振り上げたこぶしの落としどころとして会津をロックオン

勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)
旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ

旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ


八潮ロータリークラブの皆様

6.三春狐に騙された・

三春町民の知識階級の方々には、戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

鶴ヶ城落城後、会津藩士は青森斗南藩に事実上の流刑に処せられます。
しかしそれを不服としていた佐川官兵衛などは、警視庁が募集した不平士族鎮圧のための入庁し、西南戦争などで活躍しました。

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。・・・塵壺山三
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・・・これへの嫉妬と斗南移住の会津藩士や二本松藩士への怒りの矛先を他に向けるため意図して“風説の流布”を執行した。

・最後執政秋田静臥と大原家(薩摩藩)
・土佐藩と河野広道・広中
・三春藩銃砲組指南役
・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人

藩 名     石高 施条砲  大砲総数  後装銃数  旧式前装銃数   
三春藩      5.0    0     3       86       400       
二本松藩    10.1    2    12        0       60      
仙 伊達家   62.6   0     84      533      5,727     
米沢 上杉家  15.0    0     18      60      900     

当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」への理論的解明と改訂となっています。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・
尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

幕末戊辰の役・会津戦争で東北の大藩というだけで期待され、日和見的な態度が祟って、対岸の火の粉をかぶりしまし、一番損をしたのはどの藩かは、すぐにお分かりですよね?

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、ただ勢いだけで流布(風説の流布)された戯言的狂歌・・・だと私も思っています。
*明治初期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が「三春離反」を記載しているのみ.


・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、我を忘れ死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。


そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。
伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。

しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?
しかし、悪役が欲しい・・・・。

・さらに付け加えて、云わせていただけるならば、会津落城前、上杉米沢藩が降伏し、伊達仙台藩が降伏したころにできた“じゃれ唄”です。
これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのには違和感があります。

まして、会津人や二本松人でもなく、だた聞きかじりの無知、心無い方々や士族でもない町人の方々が、さも知っているの呈で、吹聴しているというのは、怒りや悲しさを通り越して、呆れてしまい、哀れに見えてきます。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材としては不足しないということかな・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。


しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎の「龍馬がゆく」や「峠」などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけでした。


昼食を食べて例会スタートです。

6.まとめ

・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ

・三春と云う名前は全国区

・三春昭進堂HP・菓子の宣伝は5パーセント
唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。

・三春昭進堂やおたりまんじゅうを全国ブランドにするのは気が遠くなるような労力が必要だが、三春と云う名前は全国ブランド・・滝桜は三春で一番の営業マン




三春昭進堂 髙橋龍一

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平成23年度学校運営協議会委員・学校関係者評価委員研究協議会発言録写
平成23年度学校運営協議会委員・学校関係者評価委員研究協議会 発言録写

日時:平成24年1月23日(月) (協議会 10:30~16:30)
    パネルディスカッション11:00~12:20 (80分間)


会場:国立オリンピック記念青少年総合センター(明治神宮・代々木公園隣接) 
(受付:カルチャー棟1階 小ホール)

パネルディスカッション参加者
 <パネリスト>
 ・貝ノ瀬 滋 氏 東京都三鷹市教育委員会教育長
 ・片山安基夫 氏 岡山市立岡輝中学校校長
 ・高橋 龍一 氏 福島県三春町立三春小学校学校運営協議会会長
 <コーディネーター>
 ・松浦 晃幸 文部科学省初等中等教育局参事官付学校運営支援企画官


広報「みはる」に掲載されました。




パネルディスカッションでの私の発言内容です。

「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」

           髙橋龍一

○地域の立場から、学校にかかわることの魅力とは?
また、地域住民として、どのようなことを目指して、学校にかかわっておられますでしょうか。

【はじめに】
 ・公立の小学校から公立中学校への進学率は99パーセント
公立中学校から公立高校へは85パーセントという土壌があります。
「地域が学校にかかわる」というのは、決して新しい取組ではない。
特に三春では、過去、独自の教育 改革・地方自治改革の流れの中で、地域住民と連携した学校づくりが進められてきた。

前三春町長伊藤寛氏と元教育長武藤義男氏による「三春町の教育改革」
30年前の三春町の教育改革は、当時三春町教育長の武藤義男さんと、武藤さんを教育長に抜擢した前町長伊藤寛さんの教育改革そして地方自治改革です。
現在も続く「三春町教育研究員制度」などの教員の意識改革や、地域住民と連携しながらの学校つくりなど、いまの「学校運営協議会コミニティースクール」の原型が垣間見れる画期的な教育改革でした。
この伊藤・武藤体制での教育改革は、今の教育改革、そして地方自治行政改革へとつながる大きな一歩だったように思います。


また、現在の三春町政は、公共事業の一般入札制度導入や行政職員のプラス査定制度など鈴木町長の強いリーダーシップの下で様々な行政改革が進み、町民の声が町に届きやすい町政に反映しやすい体質になっています。
これらが、今の三春小学校学校運営協議会の導入の母体となったとかなあと考えています。

地方自治の学校運営
国ができないことは自治体単位で、自治体で行き届かないことは地域のみんなが自ら組織を作って助け合って考えていかなければならないということ、そして人と人とのつながりの大切さを改めて思い起こさなければならないと考えます。
大きな町と小さな町ではおのずと町の政策が違います。
地方自治、地方分権を政府では、公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されていますが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じはじめているように感じます。
そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、政府は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになってきました。
そういう意味に置いても、このコミュニティスクールは、非常に分権的な制度だとおもいます。

日本の未来を担う子供たちの義務教育の場である学校を「新しい公共」の場として『官』から『公』へという考え方の元で、保護者や地域住民が、子どもたちの将来のために協力し合うことを通じ、学校や教育を教員や行政だけに任せるのではなく、「自分たちの学校」という意識を持ってより良い学校及びより良い地域を目指す仕組みとしての創造。

保護者や地域の人が参加して、地域の学校の教育課程や行事そして施設設備などをどうするか、どのように予算を使っていくのかなどを校長らと一緒に話し合って決めていけるようになれば、学校のことはよく分かるし、関心もでて、日本の公立学校は大きく変わることになるかもしれません。

公共学校の運営に保護者や地域住民が参画することを通じて,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりができる。
一方、学校においては,保護者や地域住民に対する説明責任の意識が高まり,また,保護者や地域住民においては,学校教育の成果について自分たち一人一人も責任を負っているという自覚と意識が高まっていくと思います。
さらには,相互のコミュニケーションの活発化を通じた学校と地域との連携・協力の促進により,学校を核とした新しい地域社会づくりが広がっていくことでしょう。


【地域が学校にかかわることの魅力・よさ】
 自分自身も、現在、三春小学校において学校運営協議会の会長として学校にかかわっているが、その魅力は、地域と学校との協働による良い取組が上手く進み、子どもの教育が充実していることである。
 
運営協議会委員の三春町内にある各種団体からの排出
・町全体の情報の共有化(学校から地域へ・地域から学校へ)

①登下校の交通安全などの安全教育(見守り隊及び地域住民)行政防災無線の活用

②盆踊りや祭礼などの地域行事へ参加及び警備(PTA及び地域住民)

③職場体験や地域の歴史研究などのキャリア教育(観光ボランティア及び地域住民)

④学習支援体制 三春小学校ボランティア・コーディネーター(サンボラ)
ゲストティーチャーや○付けボランティア等

三春小学校学校運営協議会の委員は、それぞれ町内にある様々な組織機関に加入しているかそのOBで組織されている。
特に今年度は過程を公のものとして町教育委員会より、区長会、民生委員、町づくり協議会、PTA、老人会、商工会等々の組織機関に委員排出の協力要請をして参集していただいた委員の方々が加盟。

各委員が所属機関で学校及び児童生徒の関する事柄をそれぞれ持ち寄っていただいている。
また、運営協議会での内容をそれぞれの所属機関で話してもらっている。
私自身の関与に関しては、個々には元三春町防犯協会三春支部長及び元三春町消防団三春分団長という立場での運営協議会参画ということで、防災や防犯という見地からの意見や質問、そして提案をしている。
また、自営業という立場で保護者や地域住民からの学校や児童生徒への様々な意見を聴取している。


公立学校
公共(パブリック)というのは、市民的な、市民による共同の、という意味で、役所=官を指す言葉ではないのですが、民主主義になった後も日本では、公共というと、役所=官のことだと思われてきたわけです。
ここから脱却して、公共とは、主権者である「私」がつくるものという意識に基づいて国・社会を運営していくことが必要であり、そのようなシチズンシップ(市民精神)に基づく公共を【新しい公共】と呼ばれています。

民主主義国家では、ほんらい、「私」はこの国・社会をつくっている一人の人間であるという自由と責任の下に「私」が公共を担うとされています。
市民がつくり・雇っている「役所・役人=官」は、専門家として、その市民の公共を支え、守るために仕事をすることが原則だと考えています。
 


【学校へのかかわり方、目指していること】

 こうした取組が実現できるのは、本校が学校運営協議会制度を導入していることが大きなポイント。
 11月に横浜で開催された文部科学省の推進協議会で、質疑応答にあった「教育とは?」という漠然とした質問がありました。
私は、教育には「家庭でしか教えられない教育」、「学校でしか教えられない教育」、
そして「地域でしか教えられない教育」と、それぞれ違った分野の三つの教育があると考えます。

そして、学校運営協議会とは、この三つを結ぶパイプ役と考えています。
 学校運営協議会を上手く機能させながら、これらの教育を充実させることが、自分の目指すところである。
 学校運営協議会として取り組んできたことは、多岐に渡る。
例えば・・・
 ・地域の特色を生かした「総合的な学習の時間」の充実
・地域・保護者からの意見要望を「教育課程」へ効果的に反映
・詳細な教育課程の策定
県教育委員会への要望として
・バランスのとれた教職員の男女比率
・特色のある教育活動への教職員の配置
・特別支援教育(学習障害や適応障害等)充実のための教職員の配置(本年度も要望)
県内での指定校の少なさ=要望が通りやすい
県教育委員会からの人材面での優遇

【学校運営協議会の効果】
       情報の共有化
 公共学校の運営に保護者や地域住民が参画することを通じて,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりができる。

一方、学校においては,保護者や地域住民に対する説明責任の意識が高まり,また,保護者や地域住民においては,学校教育の成果について自分たち一人一人も責任を負っているという自覚と意識が高まっていくと思います。
さらには,相互のコミュニケーションの活発化を通じた学校と地域との連携・協力の促進により,学校を核とした新しい地域社会づくりが広がっていくことでしょう。
例えば、特別支援教育においては、三春町の子供にその対象児童が多く在籍しているのではなく、5歳児検診などの事前審査や障害者福祉施設及び作業所の充実の中で、親御さんたちのネットワークで三春小学校の特別支援体制の充実を知り地学区外や移住による登校している。

○学校と地域が目標を共有して取り組むためには、地域の方と教員とのコミュニテケーションや共通理解などが 重要。
また、教員、地域住民の双方に過度な負担があっても上手くいかないと思われるが、何か工夫されていることなどはおありでしょうか。

コミュニティスクール化のメリットを3点挙げてみたいと思います。
第一に、単一校ではなく三春町(地域全体)に学校運営協議会が作られることによって、常に先生が、親や地域の方々の評価の目にさらされるという点。

第二に、単一校ではなく三春町(地域全体)に学校運営協議会に参加する保護者自身が、自らの子供への接し方、家庭教育の行い方について確認、学習ができるという点。

第3に、単一校ではなく三春町(地域全体)に定年退職を迎えた方など、第二の人生を歩もうとされている方々にとって、学校運営協議会に入ることは、子育てや社会人としての経験・体験を発揮する場を得ることができ、生きがいを感じることができるという点。

衆議院の付帯決議では、「学校運営協議会を導入するにあたっては、学校は地域コミュニティの拠点であることをふまえ、保護者や地域住民の主体的な意欲と要望を尊重すること」と期されています。


【教員と地域住民との距離感の解消】

 教員と地域住民とのコミュニケーション、協議の機会を確保することが大切。
  それも無理なく行うことがポイントである。
  例えば、学校評価や教育課程の編成はどこの学校でも行うものだが、ここに地域住民がかかわるということも 一つの方法。
教員と地域住民(本校は学校運営協議会が中心だが)が一緒に考えて、つくる、という場を作れば、おのずと距離感は縮まるはず。
  本校では、アンケートの実施と分析、公表を協働で行っている。
児童や保護者はもちろん、教職員からも様々な声が聞かれる。
  また、教育課程の編成にも地域がアイデアを出すことで、地域の特色が生きた学習につながる。
当然、教育課程の詳細はプロである教員がつくるものだが、地域を知る者がそこに情報を提供することは重要。
  協働して良い学習活動が構築できれば、教員も地域の力を信じてくれるようになる。
 
 また、学校を公開する機会をできるだけ充実することも大切。
・校内授業研究会や三春中学校区小中連携授業研究会の公開。
・三春町教育研究発表会の開催(町内全教職員)と公開。
・学習発表会「三春っ子」のへの招待
・保健委員会への参加
などなど様々な分野の学校行事に於いて参加の呼びかけがあり、一体感が感じられる。

教職員の資質向上を目指し
「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」として児童生徒の学力と人間性の向上に寄与していただいている。  
地域が力を貸すことで教員の負担も減るものと思う。

○地域との連携が、どうしても一部になってしまうという参画の偏りの問題があるが。その点ではいかがでしょうか。

【参画の拡大】ということ
 学校の頑張りを地域の目線で、地域の声として多くの保護者や地域住民に周知していくことが大切。
また、学校運営協議会が取り組んでいることを積極的に発信し、新しい学校の在り方に興味をもってくれる人を増やすことだ。
  各種団体からの人選での、相互情報提供という部分でクリアしている

自分も協力してみようという意識を引き出していきたいものだ。
  また、地域人材の世代交代は、戦略的に行うべき。
三春では、学校運営協議会委員の選定を工夫している。
  それは、世代交代は活性化として大変重要な内容と思われます。
その中で、小さな町だからの欠点として人材の確保が挙げられます。

これは、学校や行政に参画する特定の地域住民が集中してしまうという点です。
このために、以前から導入していましたが、三春小学校学校運営協議会の委員選定を、今年度はその選出過程を公のものとして捉え、三春町教育委員会より、区長会、民生委員、町づくり協議会、PTA、老人会、商工会等々の組織機関に委員排出の協力要請をして、それぞれの組織の中で選出していただいた。
そして、この事柄もそれぞれ組織の規約にも盛り込んでいただいた。

○最後に一言お願いします。
「今後の目標に代えて】
・地域に根差した運営協議会そして地方自治
近年「新しい公共」という言葉が聞かれるようになってきました。
もちろん自民党政権下でもささやかれていた言葉ですが、地域主権の確立を目指す「新しい公共」とは、教育や福祉、あるいは医療や自治等を、官と住民が一緒に作り上げる仕組づくりだと思います。
そこで生まれた課題が「地域文化をつくる教育」であり、地域の自然, 伝統, 文化,そこに生きる人々やその暮らしなど、自分が生まれ育った土地と人を愛する人間こそが、人々が平和に共存できる新しい社会を築くことができるんだろうと思います。

「自分たちの地域の学校」を良くするという意識が、「自分たちの地域」を良くするという意識につながり、成熟した「新しい公共」を担う意識へと発展することで、人々の支え合いと活気のある社会が実現されるんだろうと思います。

・サロン的性格の付与
子育てに悩む保護者の方々は、実は本心を打ち明ける相談相手がいなくて、孤独感の中で、苦しんでいる場合が多いと聞きます。
そんな時、PTAではカバーしきれない分野の担当として、「公共の場」としての学校運営協議会委員が介在して、その組織編制の特性である「地域の人生の大先輩」である方々に気軽に相談できるような仕組みがあれば苦情処理の円満解決のツールとなり「モンスターペアレント」などありえないのではないと考えます。

・小中一貫校
三春中学校でも導入予定していますが、公立学校として義務教育の小学校教育六年間と中学校教育三年間を別々に考えないで9年間というスパンで子供を教育する。
所謂「中一ギャップ」と呼ばれる小学校六年生と中学一年生の隙間をなくし、15歳で卒業のときに、どういう学力をつけさせる、どういう子供を育てるということをきちんと明確にするような、そういう長期的な視野にたった一貫した教育が必要なんだとおもいます。

公共社会教育の「ハードウェア」は学校です。
学校には空き教室があり、保健室、図書室、花壇、校庭があります。
そして学校の立地は町の中心地となっている場合がほとんどとなっています。
そのようなことを総合的美見ると学校はコミュニティソリューション(地域に住む皆で連携し、情報を共有し、皆で問題)の拠点になるのではないかと思います。
介護施設と学校が一体化しているモデルは京都などにありますが、例えば、健康教室。
高血圧にはこうしたらいいとか、健診を受けたほうがいいという指導は学校の保健室を活用すればすぐにできます。
あるいは午後や夜は学校の教室で大人のための健康教室も開けます。直ちに健康を中心とした予防医療のためのコミュニティ医療もできますし、そこで保育、子育てもできます。

または、町立図書館も公立学校の図書室を拡充してその任に充てるというのは如何でしょう。理屈は同じです。
 
そのときに行政をどのように使うのか、どうやって教育の専門家を使うのか。教育委員会は基本的には学校関係者、地域の関係者、保護者、教育専門家、行政担当者で構成されますが、例えば、そこで教育の専門家を医療の専門家に変えればいいですし、行政の担当者も担当部局に変えていけばいいわけです。

子どもや高齢者など弱者が大切にされない家庭や地域や国は、それがどんなに科学や経済が発展したものであっても、よい社会ではありません。地域の地理的・文化的・人的・歴史的財産を学び、地域を愛し、お年寄りを愛し、小さな子ども達を愛し、これからも地域を盛り立てていこうとする青少年を一人でも多く育てることは、教育の大切な役割の一つだと私は思います。
また、そこに住む子ども達が地域を守るため、地域を活性化するため、地元の高校や大学で、地域に根ざしたいろんな産業・歴史・文化・専門知識などを身につけていこうという気持ちになってくれるような教育プログラムが日本には今まで欠けていたのではないでしょうか。
そして、そういう仕組みが出来上がっていくことを願っています。


あとがきに代えて

一昨年前にNHKで放送した司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」。
その文庫本のあとがきに
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない・・・」
という一文があります。
明治の日本は、いずれは欧米諸国の仲間入りを果たすという目標(坂の上の雲)を追うためには、教育(勉強)しかないという姿勢が庶民のレベルまで浸透し、個々の教育の重要性をうたったものだと解していますが、 北国の小さな地方自治体である現代の三春もまたしかりだと思っています。

森田先生から「武藤義男元教育長遺稿・追悼文集」と共に頂いた、その著書「三春町の教育改革・資料合冊」を大変興味深く拝読しています。
この膨大な研究資料を読み進む中で、その研究意義の深さを改めて感じた次第です。

昨今の学校教育にかかわる諸問題がメディア等で取り上げられる中で、教育とは?学校とは?教育委員会とは?という漠然とした疑問や質問が噴出しているように感じています。
いじめ問題しかり、ゆとり教育からの脱却しかりです。

人間が人間である最大の意義というものは、広い意味での教育を通じて成長することではないでしょうか。
教育を通じ、先人が築いてきた知恵や文化を身に付けるとともに、新しい考え方や行動を編み出してゆく。
また、教育によってそれぞれの才能を開花させ、一人の人間として自立するとともに、家族や社会の一員として、さらには日本国民として、他の人を尊重し、誇りと責任を持って生きていくことを学ぶものなのでしょう。

人は、地域・社会環境の中で育つものだと考えています。
人を育てるとは、社会に出て生きていくためにふさわしい「生きる力」・スキルを身に着けるために、様々な環境を整えて、その動機付けとなる体験の機会を与えることではないでしょうか。
さらに付け加えるならば、教育を受ける一人ひとりの人間が社会的自立を果たし、よりよき存在になるために重要であるにとどまらず、社会や国の将来を左右するものであり、教育こそ人間社会の存立基盤といえるのではないでしょうか。

そして、それにふさわしい環境とは、目標を意識できることであり、そこでの体験を通して子どもたちの思考・態度が形成されるベクトルを共有し、その過程を意図的に設定および捻出する場が、教育であり学校だと思っています。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』に描かれている明治という時代は、永く続いた封建社会が崩れ、外国に負けない近代的な国家の建設に向けて歩み出した激動の時代でしたが、幕藩体制から解き放たれた国民みんなが、身分を越えて「日本人」として、ひとつの目標を共有したはじめての時代でもありました。
松山に生まれた正岡子規や秋山好古、真之兄弟も、あらゆる困難に直面しながら、激動の時代を、それぞれが『坂の上の雲』という夢や目標を持って、ひたむきに生きてゆきました。

豊かになった現代の日本では、その日さえ楽しければいいという刹那的な生き方で、夢や目標を持つことを忘れてしまった人が多くなっていると感じます。

だからこそ、明治人が持った気概や情熱を現代に生きる私たちが学ばなければならない、そう考えます。

大きくても小さくても、かまいません。みんなで夢や理想や目標を持ちませんか?
それさえ見えれば人はそれに向って一生懸命生きることができ、そのことが人生を充実したものにしてくれるものと思います。
そして、この三春町での教育を通じて、ひとりでも多くの子供たちが夢や目標を持つことの尊さを感じて欲しいと願っています。

前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
 司馬遼太郎著 『坂の上の雲』(第一巻「あとがき」)より



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三春物語835番 第一回「まんじゅうこわい!」開催~真照寺・三春昭進堂・三春町観光協会


本日、三春を代表するお寺、旧三春藩所祈願寺”真照寺”と三春昭進堂のコラボ企画!
三春町観光協会主催の三春通年型イベント企画「第一回まんじゅうこわい」が開催され、25名のお客様に参加いただきました。

頭もお腹も大満足できる三春を満喫する旅と題しての企画です。




饅頭つくり体験 (場所:三春保健センター)
 
 講師:三春昭進堂でのおとどけです。

 おたりまんじゅうの昭進堂から、簡単にできる饅頭つくりを伝授します。


三春町保健センターで饅頭つくり体験です。



当女将の指導の下、餡玉を、おたりまんじゅうの皮で包んでいきます。

皆様悪戦苦闘しながらも、いい塩梅の饅頭が包みあがりました。

早速三春昭進堂工場にて蒸かします。





場所を真照寺本堂に移動して、落語「まんじゅうこわい」です。

 話し手は、独快亭来歌の名を持つ、元校長先生の田部洋靖さんです。
独快亭来歌?続けて読んでみてください、”どっかいってくっか”→何処かに行って来るか!・・・・

とんちが利いた洒落た芸名ですね!

よ!来歌~


落語の定番「まんじゅうこわい」の三春バージョンでのおとどけです。

三春の各饅頭屋の饅頭や、御茶屋の名前が飛び交い皆様充分に楽しめたようですね!

しかし、真打顔負けの噺家ぶりですが、この先生の多彩さには驚かされます。



そして、真照寺住職による「こわ~いお話」です。
真照寺の本堂で聞く、「三春藩御家騒動と化け猫騒動」という怖い話です。

今、三春民俗資料館では、「化け猫騒動」展を行っており、正にタイムリーなお話でした。



江戸時代の化け猫騒動のお話を、その現場とも云うべき真照寺で聞く・・・・

何とも化け猫を身近で感じるお話でした。


三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村、および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。



正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました、しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。


 
 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。

 天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城御三階を炎上させました。
その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かいます。
 


丁度、真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。

火勢は、その場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。



この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。

           

続いて、当店女将による、お茶のおもてなしです。

先ほど、ご自身で作っていただいた、おたりまんじゅうを、蒸かし立てのままお持ちしました。



蒸かし立て熱々の饅頭を頂いて、抹茶で一息です。

事前に、お茶の簡単な飲み方の示しましての、お茶会です。

観光協会の職員にも協力いただいて、お運びからのお点前となりました。



もう一つ、参加された方々へのサプライズ企画として「化け猫騒動どら焼き」をプレゼントさせていただきました。



この企画がまとまった先月初めに、真照寺住職より”化け猫騒動に因むお菓子をお客様にお出してはどうか?”という提案とお題を頂きました。

あれこれ試行錯誤の上、猫のお菓子=どら焼き(ドラえもん)、そして上野合羽橋の道具屋に散々探してもらって、やっと見つけた”猫の焼き印”、そして真照寺を表す「三春の祈願所シール」で、仕上げてみました。



参加された皆様、本当にありがとうございました。

観光協会では第2回以降も思案中ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます。



観光協会の皆様方はじめ、田部先生、お茶の影点ての面川様、そして真照寺山岸住職、本当にお世話になりました。

三春昭進堂 髙橋龍一

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