2023-03-15 Wed
中郷の高齢者学級さくら学級でお話をさせて頂きました。お昼まで呼ばれまして〜♫
幼き頃より見知っている先輩方ですっかりご馳走になり、いい心持ちのよき日となりました。
先の講演会には、おたり婆さんの出宿の当主さんも出席されてました。お話をしたました際に、「自分の家出身のその末裔が頑張って繁盛してる。これは嬉しいことだぞなぁ!と知り合いに言われたんだ、本当にそう思う、ありがとな!」と言う言葉をいただきました。
こんな嬉しい言葉はありません。
がんばって商売をやって良かったなぁ〜って心より思いました。
「中郷の歴史 田村四十八舘」
中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一
於三春の里 令和5年3月14日(火)
はじめに
・柳作髙橋 根本近内 込木見渡様 笠石八幡宮
・滝桜散歩 ゴミ拾い
・テレビ 滝桜
・中郷は、戦前には一時教化村に指定され、多くの人材を輩出。
昭和60年代末より平成2年桜中学校創設にあたって、三春瞬教育委員会「子どもの夢の育つ学校造り」「教科教室形の学校運営方式を採る中学絞」の研究校
1.戦国時代舘跡探訪
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。
「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせると百以上の舘が存在しています。
時代に前後しますが、確認されている田村領内の館跡だけでも、三春町内で二十五カ所、旧三春藩領(田村郡及び郡山市東部)を含む全体では百十三カ所にのぼり、他に、場所のわからない館や郡外に田村氏が築いた館をあわせると三百カ所以上になります。
これらの館跡から、江戸時代に、選りすぐったのが「田村四十八館」です。
全国の戦国武将の領内でも「~四十八舘」と称されています。
この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。館(たて)とは、小規模な城のことですが、実際には、軍事施設もあれば、地主・領主の居宅、村の集会所や避難施設などの様々な用途があります。
◎ 過足舘址 木幡氏
過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。将門が反乱して亡んだ後、その一族千葉氏、後の相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。
その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。
◎ 「柴原館」
城将は、橋本助右衛門、禄高450石。
館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、
本丸は南北28間、横18間。
この橋本氏は、下枝城主、木村城主(刑部舘)で、田村四天王の一人橋本刑部少輔顕徳の一族と伝えられているが、記録が少く地方の人にも余り知られていないようです。
尚、田村氏の一族も橋本姓を名乗っています。
芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本、田母神橋本、中津川橋本・・・
◎「貝山館」
舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢の軍勢の為に軍勢の主力を臨場させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、伊達に組する三春の領主田村宗顕を攻めます。
この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。
2・中郷今昔物語の巻
中郷の昔は、滝外18ヶ村戸長役場が行政区となっていた。
その後、滝、柴原、込木、楽内、芹ヶ沢、貝山、蛇沢、春田、狐田、過足、根本、樋渡、蛇石が合併して中郷村となったのである。
これは明治20年町村制実施以来のことである。
初代村長は田村謙次郎、次に御代田勝弥、木幡文多郎、橋本喜四郎、木幡文忠と続き、三春町に合併したのである。
◎ 芹ケ沢
津島神社(旧神号天形星王社)
※天形星は天刑星(てんけいせい)ともいわれる道教の神で「木星」を意味するという。
この天形星が陰陽説で牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王が素戔嗚(須佐之男命)と習合する、という複雑な過程を経てこの社名
三春城下の西、旧小野海道芹ヶ沢村の入り口を見下ろす小高い丘に、鎮守津島神社、芹が沢稲荷神社、見渡神社が合祀された社があります。
かつて、春と秋の祭礼には、「お人形祭り」として、三春領五人形様の一つ「天形星王のお人形様」のお衣替えという行事がありました。
祭礼前日に、氏子が社殿に集まり、大人形を作ります。
まず、大きな樹の柱を胴骨にして、コモを巻き頭部に篭を被せて紙を貼り、顔を描きます。
胴体には、杉の葉をたくさん差して着物にします。
これを「お衣替え」としていました。
この人形を押し立てて、神官の祈祷の後に氏子一同で拝みます。
そして人形様は、神精霊の形代として、村に入り込む厄や流行病除けとされてきました。
その偉容は、厄病を威嚇するに相応しい中国・朝鮮調の鬼面のような人形であったと伝えられています。
この津島神社の「お人形祭り」は、春秋の二回欠かさず行われてきましたが、近世に発生した社殿の焼失で現在は行われていません。
◎ 楽内
三春城下磐城海道境の旧楽内村に鎮座する「金比羅様」です。
かつては、農家方々からは繭の神様として信仰を集めていました。また、山一つ隔てた弓町遊廓、庚申坂新地のお女郎たちからは、年期が早く明ける祈願所として信仰を集めていました。
◎ 込木
三春城下の南に、くぐりきと読みます”込木”の宮ノ下に見渡神社があります。
江戸期は、「飯渡大権現」権現さまと呼ばれ、古くからトリケの神と称して、百日咳にかかったときは鳥居の石を削って呑めば治ると云われていて拝殿には鶏の絵馬が多数奉納されている。
三春昭進堂の創始者高橋民四郎の本家も、込木柳作です。
かつて、十月の祭礼には、民四郎の妻おタリや、その子で当家先々代の傳造が饅頭を台八車に乗せて、社殿下で売っていたと聞き及んでいます。
◎ 柴原
・「柴原日枝神社」江戸期までは、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「柴原山王社」などと呼ばれ、旧柴原村の産土神として崇敬されていました。景色がいい
・「柴原神社」
三渡大明神として村の鎮守していました。現在でも、秋の祭礼時には柴原の若衆が「お籠もり」をして夜明けの神事を行っています。
◎ 滝
・稲荷神社
・田村三十三観音三十番札所 大霊山龍光寺、馬頭観音堂
三階滝(三界滝) 古銭
◎根本
・笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。
笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。
・根本神社 根本八王子神社
三春城下の南四里、滝桜南の根本村旧鎮守です。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社とされています。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
根本神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。
◎過足
・「鎮守仁渡神社」
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。
・過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。
・「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
日本にある江戸時代前に建立された有名な神社仏閣
その7割が、空海、田村麻呂そして徳一が創建
◎ 樋渡
・樋渡神社です。
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。
熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。
境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。梅も咲きます。
◎ 蛇石
「蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。
◎ 狐田稲荷神社
三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就した。
大晦日、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
享保三年に、家老職連名で奉納した鳥居です。
◎ 貝山村
・白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
柴田勝家 与力 織田信長重臣佐久間氏末裔由来 佐久間氏の氏神様
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。我が子の無事帰還祈願でしょか?
◎ 「春沢見渡・日枝神社」
春田集落の見渡・日枝神社は、三春ダムの完成により、旧蛇沢と春田の住民がこの地に移転してきました。
蛇沢郷鎮守見渡神社は、天之村雲命を祭神として蛇沢村にありました。
関東より移住した先祖が分霊し勧請したと伝えられています。
また、日枝神社は、春田鎮守山王権現として大山祇神を祭神として春田村に鎮座していました。日枝神社の神の使いは猿といわれています。
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2022-11-17 Thu
先ごろ、福島大学の藤原遥准教授からの依頼がありまして、福島大学の学生さん約30名の方々に三春昭進堂代表の“わたしがから見た三春町のまちづくり”ということでお話させていただきました。
「三春で生まれ育ったこと、そして住んでいることが誇れる住民とのまちづくり」
~自分の地域を肯定することによって自分自身を肯定することになる~
三春昭進堂代表 髙橋龍一
福島大学 人文社会学群 経済経営学類 藤原 遥 ゼミ
於2022.11.13 三春町役場の多目的ホール
・昭進堂の歴史
明治の中頃・絹の生産が盛ん・製糸業の失敗
岩城街道・自由民権運動(河野廣中等、政治結社正道館・三春人中心)
郡山~平線(現49号線)で三春城下を外れる・三春城下衰退の要因
三春馬市場の競り市 農耕馬・軍馬 年2回 S40年代~子牛二月に一回
城下新町・場所にこだわった商売 三春名物化「おたりさん」おたりまんじゅう
眞照寺(旧三春藩主祈願所)・田村大元神社(旧三春藩領内総鎮守)・天沢寺(総持寺貫主輩出)・州伝寺(三春藩主松下家墓所・先々代大地玄亀大和尚弟子200人・先代石龍正孝老師(東北大准教授)墓所・庚申坂弓町新地(遊郭)・寺社仏閣の多い地域
・髙橋さんが地域と関わるうえで大事にされてきたこと
三春出身といえなかった反省・三春は裏切り者・三春狐・田舎
塵壺 旧三春藩領 15000部発行新聞折込チラシ・旧三春藩領内
ホームページ、新聞雑誌テレビ等各種メディア
先人が残したものを後世に伝えたい・口伝
蔵から古い書物が出てきた・自分以外家族は興味がない
三春藩領 御春輩(みはるのともがら) 春陽士(しゅんようのふ)
滝桜への感謝 三春の広告塔 メディアに引き合いが多い
・三春町の歴史について
東北の鎌倉・小さな城下町 映画「鎌倉物語」黄泉の国茶屋“紅い饅頭”
戦国武将 三春田村氏伊達政宗・
会津蒲生代官・城下町の形勢 松下・
秋田氏安東水軍・お家騒動化け猫伝説
・三春町の建物の歴史について
城下町武家屋敷 寺社を中心とした四季折々に映える城下の町並み
城下荒町・中町、寺町 裏通りの発達 夜の移動 木戸回避
お墓参り藩主以下藩重役の墓参回避
・中心市街地整備についてどのようにお考えか。
市街地整備30年
街路灯、石井幹子氏(レインボーブリッジ・皇居・エッフェル塔・ローマコロッセ等)交流館「まほら」 大高正人氏(三春町歴史民俗資料館・自由民権記念館 福島県立美術館 神奈川県立近代美術館別館
建築写真 門馬金昭氏 大手建設会社パンフレット
画僧「雪村」 林進氏(文学博士・(元)大和文華館学芸員)歴史民俗資料館所蔵「奔馬図」まほら緞帳
三春人形館ラッココレクション・約90年前、大事な文化遺産であると考えた二人の東北大学生が廃絶をおそれ、収集中井淳(後に関西学院大学教授)と高久田脩一(後に旧制田村中学の教師となる)
元三春町長 当時の都市整備課元課長とそのスタッフ
・今後、三春町において保全する価値があると考える建物。
三春城址・各種寺社仏閣・遠藤病院 旧庄屋屋敷 その周辺整備
旧三春藩領 三春町、田村市、小野町、郡山市(中田・西田・日和田・田村町)
田村四十八舘・田村三十三観音
・今後、三春町の景観を考えるうえでの課題
中心市街地(城下)だけではなく、歴史的な意味合いを含めた郷各地区拠点整備
トップが変われば街並み整備のビジョンそのものが遅延
行政に頼り過ぎない住民主体の街づくり ビジョン
・景観づくりをする際に、住民とどのようなことができるか。
歴史的な意味合いを伝授・孫子の代まで
“三春は城下町なんだ”という意識があれば、自ずと景観を意識するもの(鎌倉・京都・金沢)
子供たちへの自己肯定程度の向上・民度の向上
:学校・高生涯学習・ロータリークラブ等の各種団体での講話
・景観づくりをする際に、町に要望したいこと。
全国共通(政令指定都市・中核都市除外)期間限定の補助金を活用したイベントの意味合い・到達地点の明確化何のためのイベントなのか?
三春藩領 広域観光ビューロ 会津武家屋敷
「温故知新」ハード面(構造物)とソフト面(歴史的な意味)の両立 歴史的意味合い
「ワクワクする小さな城下町」
「三春で学んだことが誇れる教育」=「三春で生まれ育ったこと、そして住んでいることが誇れる住民とのまちづくり」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:10 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::地域貢献 歴史講話 |
2022-09-16 Fri
「お陰さまで・・・郷土三春」
「舞鶴大学」 三春生涯学習講話会 於まほらR4.9.13
三春昭進堂 髙橋龍一
はじめに
テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる
滝桜・春だけでも世界中から脚光を浴びる
小学館発行の人気雑誌「サライ」(令和4年10月6日発刊)へ三春町の特集が4ページ
三春町と連携協定が締結されたアウトドア用品メーカーのmontbell(モンベル)、そして、サライも加わっての「三春特集」です。
歴史への興味
学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
塵壺 毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく 経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年9月で374号 30年有余年 (手配200平成7年より新聞折込)
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」
・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春
全国新聞折り込み広告大賞2022福島県代表でエントリー
伊勢参り お陰参り
朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記
三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名
三春田村家三代
義顕・隆顕・清顕 (愛姫父)10万石(郡山、岩瀬含)
伊達政宗 田村大元神社宿所
磐城国の由来 御城山掘削(地デジアンテナ工事)
三春城下の成り立ちは、500年前
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城(日和田八丁目舘)から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。
明王町(大元帥明王の門前)は明王にかかわりのある神官や宮大工等々の町
現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。
中町と下大町は、そして、新町(新南町)後の蒲生代官時代に新設されています。
・お城山 太鼓堂(中町愛宕神社参道へ移転) 鐘撞堂 (田村大元神社三の丸)
・三春城主秋田家慰霊碑 戊辰戦争殉職者慰霊碑
・上校庭 お殿様御殿 下校庭 まほら 中央大町 奉行所や役場
・歴民下 講所・明徳門 学校 ・護国神社
・天神口・天神橋 とうりゃんせ♪・防火用の池 池之端稲荷
・お城山への道 亀井坂・天神坂・三部坂
・月斎舘 100歳超 天才軍師「畠に地縛り、田に、蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」
・八幡町
八幡神社 お城から移転 安部安東秋田氏由来
・丈六焼き 丈六佛 90センチ 八幡様の化身追いはぎ商人 灯籠
・三春大神宮 土砂崩れ 三春城下総鎮守 松尾神社・甲子神社・橋本神社
・中町
福聚寺 戦国時代日和田八丁目
・本陣 秀吉の時代 近江松阪武将・商人 蒲生時代
・愛宕神社 火消 近江の蒲生時代か? 太鼓堂 西福寺庚申
・荒町
本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成。
藩主及び士族の菩提寺
お彼岸・お盆・命日等 町民は道を開けるその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、
・馬頭観音は石段の減り具合 参詣者のひとの多さ
・大町
大商人街 山三伊賀屋渡辺商店 伊賀・武将の商人 カネイ
・王子神社 おっしゃま 星信仰 百杯宴碑 川前紫渓
・浪岡家(秋田) 北畠親房 荒木家 明智 細川家
・紫雲寺 腹切梅 化け猫 秋田家猫塚 枝垂れ桜 真照寺 弘法・興教大師
新町
・松下家町割り 新南町
田村大元神社 三春藩五万石領内総鎮守 三春城三の丸 泰平寺 学頭坊 10修験
・大元帥明王 元寇 真照寺 別当 廃仏毀釈 阿吽仁王像 昭和30年代
「正徳・享保事件」お家騒動 化け猫騒動の発端
江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
「腹切り梅」「猫冢(塚)」化け猫伝説の証明
御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。
旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡の庭
•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。
•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。
この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。
又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。
主夜神(しらしん) 夜神
三春城御花畑にあったという「主夜神」紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。
この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。
おわりに
故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失
わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「三春で学んだことを誇れる教育」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::地域貢献 歴史講話 |
2022-06-24 Fri
「中妻の歴史」中妻生涯学習「すずらん学級」講話会 三春昭進堂 髙橋龍一
於さくら湖自然観察ステーション R4.6.23
三春城下商人の先人から「地域貢献」そして文化の担い手として民度の向上を教えられています。
「商品を売るのは当たり前ですが、目先の利益だけではない地域文化の向上、そして地域住民のお役に立たなければならいという指針が示され、まさに商いは、売り手と買い手だけでなく、その商いが社会全体の幸福につながるものでなければならないという商人の理念である「三方よし」の考え方を教わっています。
塵壺を発行しているという因縁もあってか歴史勉強会の講師をいえあいされることがあります。
ご縁もあり、今回はコロナ禍でのびのびとなっていた「中妻生涯学習スズラン学級」様、約40名の方々の勉強会で「中妻の歴史」という題でお話をさせていただきました。
中妻の歴史
はじめに
テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる
伊勢参り 朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記
三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名
歴史への興味
学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
塵壺 毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく
経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年6月で3371号 約30年 手配200平成7年より新聞折込
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春
三春田村家三代
義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石(郡山、岩瀬含)
・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字
・三春秋田氏 安倍・安東家
田村麻呂 阿弖流為 京都・清水寺「田村堂」
奥州藤原氏 清原家末 平泉金色堂 ジパング(黄金の国) 対源氏義経を匿う
・鎌倉時代・蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査
関ケ原の合戦後・宍戸五万に減封 水軍を取り上げ常陸宍戸へ 不満噴出 本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘が正室・家光の又従妹・強力な水軍?
秋田城介官位から秋田氏
生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿、娘のお千世方を連れて
伊勢名物 和漢胃腸薬「秋田教方中倉萬金丹」
実季の長男 秋田俊季公 水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い
鷹巣
・石の宮様 大元師明王
大元帥明王の勧請は、平安時代となる弘仁十己亥年(819年)2月25日、磐城守山山中村(現郡山市田村町守山町山中)より奉還し、同社神主の柳沼市太夫神が神職として勤仕したと記されています。その後、応仁の乱後の室町時代となる文明17巳年(1485)、舊(旧)記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭礼には鷹巣村近郷より寄付方控左書を綴奉するとの記載もありました。
・五龍神社(五龍大権現)
鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。
鷹巣鎮守「八雲神社」の由来は、瀬山にあった天正16年(1588)勧請の牛頭天王を、明治初期に廃仏毀釈神仏離反の命により、祭神を「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、神社名を「八雲神社」と改めこの地に移したもので、鷹巣地区の総鎮守となっています。
戦国時代の三春城主田村家重臣、鷹巣七竈の首長と云われた橋本刑部左衛門貞綱が、尾州津島から勧請したと伝えられている「牛頭天王」
・田村大和は、鷹巣の修験・威徳院賢晃を改名した名前で、後に田村清見と再度改め初代鷹巣小学校の校長となった方で、鷹林和泉は二代目の校長です。
・宇賀神様 稲荷神社 宇賀玉(神楽)栗原新田秋田藩政下 新田開発
鎌倉銭洗弁財天・上野不忍池弁財天 弁天様の頭に鎮座 金運上昇・芸能上達
・橋本正吉様 「田村の庄」鷹巣の歴史 鷹巣の諸家由来や継承をまとめた力作
中妻小学校・三春中学校・県立図書館・国会図書館・三春町図書館・歴史民俗資料館へ寄贈
俳句の会(民度の高さの証)生活・文化レベルの高さ
・薬師寺 法相宗徳一和尚。
全国の有名寺社の6割、徳一弘法大師、坂上田村麻呂 大同年間(平安時代初期・806-810)
薬師寺のご本尊は、木造阿弥陀如来聖衆来迎像。
創建時は独尊であったと思われますが、阿弥陀二十五菩薩来迎像と呼ばれ阿弥陀如来の周囲に二十五菩薩が配置され、雲上に聖聚を従えて往生者を迎える様を描写した彫刻仏像です。この様式の仏画は多数みられますが、木造は大変珍しいものです。
沼澤地区
・沼沢子安薬師如来堂 徳一由来の創建 光明寺
会津慧日寺 閼伽井(赤井)岳薬師如来 波立薬師堂
戦国田村氏要害、田村四十八舘沼沢舘にある光明寺は、舘主沼沢孫兵衛の屋敷跡と伝えられています。
江戸期には真言宗修験の守山大元帥明王別当師継院末寺と記録されています。
近代の明治の初めには中妻小学校の前進となる、達材小学校(後に沼沢小学校に改称)が設立されます。
・春日神社 境内末社の疱瘡神に奉納した相撲は近年まで続き、今も土俵の跡が残る
・沼沢往来 遠藤様 清水田様
斎藤地区
斉藤村社「三渡権現」 宝亀二年(771年)、土地の豪族、伊藤氏の遠祖藤原頼豊が、松樹山と呼ばれる現地に勧請したと伝えられています。
平安期に創られた古社として古い行事を今に伝えています。
祭神は天弁羅雲命で夏季祭礼には「お湯立て」の神事が行われます。
また、神楽・奉納される太々神楽は古式をとどめる出雲流で町の無形民俗文化財に指定されています。
・安養寺、
寛永二年、三春城下大町にある浄土宗紫雲寺方丈の隠居寺として、良編岌誉上人により開山された小さなお堂で、御本尊は、如意輪観音で、三十三観音、子安観音、三光地蔵
尊を祀っています。
また、案内板には、その昔の縁日には説法会が開かれ、浄土宗ということもあり、町人が近郷近在の参拝者で賑わい茶店が軒を連ねたと云われます。
・月見崎には三春城主田村氏の重臣,田村四十八館の一つ松樹山上館主の斉藤大善の軍中勝利を祈願して、嫡子藤原頼位が建立した妙見様と呼ばれる、松樹神社があり、近くには五輪塔がありますが、その案内板には松樹山上館主の墓と思われるとありました。
西方地区
・霧の城 西方舘 千葉氏
・「西方不動堂」は「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人の額には墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。
・「乳付け観音」と呼ばれる馬頭観音堂も鎮座しています。この観音様は「馬産安全」「子孫繁栄」に霊験あらたかで、田村地方では小野の東堂山と並んで信仰され、かつての祭礼は旧三月十七日で、西方の各戸では、団子を持参して参拝者に「団子撒き」をしていました。
笹を浸して神前に供えておき、参拝者にこの笹と、小さな板に馬の走る焼き印を押して配り、馬が丈夫に育つようにと、たてがみに結んでいたとされています。
堂の内外には江戸期三春の馬画名匠と云われた徳山研山の書かれた大絵馬をはじめ四十六面の親子絵馬が奉納されています。
毎年元旦に同地区で開催される、「西方水かけまつり」
塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。
古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。
もう一説には、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。
「中妻文化財を守る会」の方々が、地区にある史跡を後世に伝えようと立てているもので、中妻地区住民の地元に対する想いには、頭が下がります。
おわりに
故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2022-06-22 Wed
生涯学習支援ボランティア会講話 於ライスレイクの家 R4.6.21
三春昭進堂 髙橋龍一
三春歴代藩主と化け猫騒動
はじめに
テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる
伊勢参り
朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記
三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名
歴史への興味
学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
塵壺
毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく
経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年6月で3371号 約30年 手配200平成7年より新聞折込
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春
三春田村家三代
義顕・隆顕・清顕 (愛姫父)10万石(郡山、岩瀬含)
伊達政宗 田村大元神社宿所
磐城国の由来 御城山掘削(地デジアンテナ工事)
・田村麻呂の末裔 平氏三春田村氏 藤原田村荘司田村氏
・守山から田村大元神社 田村氏のお城・菩提寺福聚寺は日和田八丁目
・阿武隈川東岸 本拠地 日和田・西田・阿久津・田村町・守山(江戸期守山藩領)
・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字
清顕急死 生首が飛ぶ 卯の刻参り女の殺害
田丸具直
天正19年(1591年)会津若松城主 蒲生氏郷の奉行人、与力。
・須賀川より、三春城代として入府
・関ヶ原の合戦前後 上杉景勝郡代を経て、蒲生源左衛門・蒲生五郎兵衛
(会津蒲生秀行家臣)・・・近代・三春城築城及び城下町創設 約40年
加藤明利
寛永四年(1627年) 豊臣秀吉恩顧、会津藩主加藤嘉明の三男。
・三万石にて入府。
松下長綱
寛永5年(1628年)豊臣秀吉恩顧、三万石にて二本松より転封。
・豊臣秀吉旧主松下松下加兵衛之綱の孫 約15年
・墓所 曹洞宗 天翁山州伝寺(前住太地玄亀老師)
・生母墓所 浄土宗 引接山光岩寺
・ 近代三春城下町の整備(現六町制)
・ 乱心を理由に徳川幕府により改易 御城受け取り 籠城討ち死・切腹・恭順
二本松・相馬・白川・会津藩城受け取り
三春秋田氏
安倍・安東家 秋田俊季 水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い
正保二年(1645年) 蝦夷探題・日ノ本将軍末裔安倍姓安東秋田家。
田村麻呂 阿弖流為 清水寺田村堂 アテルイ供養
安倍氏 安倍貞任 安倍首相先祖西へ 残留安東氏
平安末期大和朝廷 源義家 前九年の役 後三年
奥州藤原三代氏 安東氏縁・清原家 平泉金色堂 ジパング(黄金の国) 鎌倉初期対源氏義経を匿う
安東氏
蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査
安東氏・湊氏 浪岡氏(青森浪岡町 北畠親房・顕家末)
・安東實季 関ケ原までは、出羽国秋田湊城主
妻・五か国管領細川昭元の娘・円光院(織田信長妹お犬の娘)
徳川三代家光の又従妹 吉兆細川家 細川護熙分家
応仁の乱 京都市内 東軍大将細川勝元 西軍 山名宗全 西陣由来
若狭国小浜の羽賀寺建立 安藤水軍寄港地縁
宍戸五万に減封 水軍を取り上げ常陸宍戸へ 不満噴出 本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘正室・家光の又従妹・強力な水軍?
秋田城介官位から 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿、娘のお千世方を連れて
隣接する常陸笠間藩主が忠臣蔵でお馴染みの播磨赤穂藩主浅野家
小野寺氏、大高氏、不破氏等々…三春宍戸由来家臣の親戚
※赤穂浪士で有名な浅野内匠頭長矩(ながのり)が切腹した一関藩江戸屋敷(藩主田村建顕)というのも三春縁になります。
※安政7年(1860年)に水戸藩浪士らによって大老・井伊直弼が暗殺された、あの「桜田門外の変」三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭として「外桜田門御番所御当番」の役職にあり、「内桜田門」は「桔梗門」のことでその警備を任されていました。
秋田家文書「桜田門勤務心得」「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)三春藩江戸定府公役には桜田門警備記載
また、「桜田門外の変」の水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士の小野寺慵斎(ヨウサイ)がいます。
伊勢名物 和漢胃腸薬『秋田教方中倉萬金丹』
『三重県薬業史』によれば、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉萬金丹」
実季の長男 秋田俊季公 母である「円光院」は「織田信長」の孫にあたり、2代将軍「徳川秀忠」夫人の従姉妹でもありました。
日之本将軍(ひのもとしょうぐん)
北日本・津軽・北海道・千島にまたがる蝦夷の地。この一帯を蝦夷管領として支配下に置いたのが“日之本将軍”と称された安東(あんどう)氏でした。
東日流(津軽)十三湊(つがるとさみなと 青森県五所川原市十三湖の辺り)を中心に、北方の文物の交易で大いに栄えたため、「日之本将軍」などと言う大層な名前で呼ばれました。
「正徳・享保事件」お家騒動 化け猫騒動の発端
江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わ
りに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。
この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。
このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。
幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。
「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野多兵衛は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。
滋野は事前に妻子を離縁、るいの及ぶのを防ぐ。 妻墓所岩代に在りという
天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。
この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。
化け猫騒動
家老の荒木氏が娘を化け猫騒動関連の三春城下大火の際に、城下を焼き尽くしお城も焼け落ちた壊滅的な被害を受けますが、真照寺門前で消火の陣頭指揮の為に出坐した殿様を追うように延焼した火炎が収まった
本堂の中には、化け猫騒動、天明大火後、時の藩主秋田千季公が納めた弘法・興教大師像があります、これは、夜毎、猫の怨霊にうなされた千季公が、その霊を鎮めるために納めたもので、中に腹切梅の滋野多兵衛の位牌が納められている
滋野の腹切梅の事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったという話が広まり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。
「猫冢(塚)」化け猫伝説の証明
御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。
旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡の庭
お城側の土手の雑木を伐採中に、紅枝垂れ櫻の根本付近から出土したということです。
その中心人物の別格家老荒木玄蕃。
•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。
•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。
この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。
又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。
主夜神(しらしん) 夜神
三春城御花畑にあったという「主夜神」紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。
主夜神は、「婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)」として、「華厳経入法界品」に記されています。
恐怖の厄を免れさせて安隠を与へるなど、古くからすべての衆生を救護する神とされ「主夜」から「守夜」と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益をもつ神様であるとされています。
夜を守る神と、闇夜に眼を光らせる猫がむすびつき、主夜神は古くから猫、とりわけ黒い猫が御使いであるとされています。
この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。
おわりに
故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2021-10-16 Sat
三春町生涯学習 沢石「さわやか学級」講話会があり、講師の依頼があり、三春の歴代藩主、そして「橋本正行と南朝」神社の御祭神(後醍醐天皇、御村上天皇、陸奥宮)。
そして、三春佐久間氏の系図等をお話ししました。
さすがに人生に先輩方です。
私の方が色々と教えていただきました。
ありがとうございました。
この講話も、地域貢献」の一環ですが、私が地元三春で健全経営の商いをさせていただけるのも先輩方のお陰だと持っています。
その観点からも、先輩方に感謝し、先輩方がその先輩、言うなれば先人から受け継がれてきたものを継承して次世代へ繋げる・・・そういうことが感謝の記しとしても自分なりの恩返しと仕事だと思っています。
沢石生涯学習「さわやか学級」講話会 如是我聞 於:沢石会館 R3.10.14 40名
三春昭進堂 髙橋龍一
・ご挨拶 三春昭進堂の髙橋 四代目
セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 昭進堂は昭和元年に命名
・塵壺
平成3年3月~ 令和3年10月で363号 手配り300枚
・歴史への興味
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
三春と云えなかった自分の反省から~
学校の先生からの^三春藩裏切り
・三春田村氏
三春田村家三代 義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石 郡山 岩瀬、
清顕急死 生首が飛ぶ 卯の刻参り女の殺害 磐城の由来 地デジ
・田村麻呂の末裔 平氏三春田村氏 藤原田村荘司田村氏 記録がなく一本化
・守山から田村大元神社 田村のお城・菩提寺福聚寺は日和田八丁目
・阿武隈川東岸 本拠地 日和田・西田・阿久津・田村町・守山(江戸期守山藩領)
・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字
・田村氏族 - - 奥州田村郡(磐城)の橋本村(下枝)より起こる。
田村義顕も橋本氏と云い、その弟 月斎100歳も橋本庄七郎と称す。 一関田村家文書
又、光大寺館(芦澤村の光大寺)は、田村氏の族 橋本修理亮、下枝館(御館村)は、橋本刑部少輔、田村氏の重臣 橋本明則、天文元年より住す、その子 定明なりと。
伊達成実記に「三春の家老 橋本紀伊、橋本刑部(顕法・徳)」とあり。
又、田村大膳太夫清顕の家臣に橋本時顕(荒和田)、橋本玄蕃(富澤)、橋本定・(鹿島館(高野村土棚)、橋本修理亮(芦澤)などあり。
・三春秋田氏 安倍・安東家
田村麻呂 阿弖流為 清水寺田村堂
安倍氏 安倍貞任 安倍首相先祖西へ 残留安東氏
大和朝廷 源義家 前九年の役 後三年
奥州藤原氏 清原家 平泉金色堂 ジパング(黄金の国)
安東氏
蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査
安東氏・湊氏 浪岡氏(青森浪岡町 北畠親房・顕家末)
・安東實季 妻五か国管領細川昭元の娘・円光院
(織田信長妹お犬の娘)徳川三代家光の又従妹 吉兆細川家 細川護熙分家
応仁の乱 京都市内 東軍大将細川勝元 西軍 山名宗全 西陣由来
若狭国小浜の羽賀寺建立 安藤水軍寄港地縁
関ヶ原の戦いでは東軍方 領地拡大のチャンス 最上氏と敵対 強力な水軍保有
家康から御咎め
徳川幕府は、常陸佐竹氏(西軍・上杉氏と同盟)を 北日本海沿岸の秋田へ
出羽秋田四十九万石を宍戸五万に減封 水軍を取り上げ常陸宍戸へ
不満噴出 本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘正室・家光の又従妹・強力な水軍?
秋田城介官位から 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿と娘を連れて
伊勢名物 和漢胃腸薬『萬金丹』
『三重県薬業史』によれば、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉萬金丹」
実季の長男 秋田俊季公
水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い
・高木神社 帝釈天
平安時代初頭の大同二年(有名寺社伝説の7割・田村麻呂・空海・徳一創設)、開山に法相宗徳一大師(磐梯山慧日寺・鷹巣薬師寺・天台宗最澄と仏教論争)を招いて、霊域“高野ヶ岡”に小祠を建立し、高木神勝軍地蔵の二社を勧請、「鶏足山豊前寺」を建立して、高野郷の鎮守としたとされています。
鎌倉時代末の南北朝期、南朝方の皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じた、奥州鎮守府将軍北畠陸奥守顕家公(浪岡氏先祖)が、白河結城氏と共に多賀国府へ下向の時、当地を通過する際、“村司・佐久間右京太夫が村人を集めて、御仮屋を造り郷食を奉じます。
義良親王は、御礼として御宸筆の御歌「徳實恩澤(トクジツオンタク)の利益」を下さり、以後この御歌を祭祀、御宮社を「帝爵天皇宮」としています。
その後も、神徳は継承され、戦国期南北朝動乱の初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村ノ庄(熊野大社領地・荘園)の総鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。
江戸期の秋田藩政下では、実沢村鎮守として継承され、明治維新後の廃仏毀釈で、高木神勝軍地蔵尊は金剛山瑞祥寺へ移し、新たに、高皇産霊命(高木神)を祭神して實澤村鎮守“高木神社”と改称されます
社殿に施された彫刻は稀に見る力作揃いで、拝殿外壁の欄間にはめ込まれた明治期の彫り物は、“日清・日露戦争や昭和初期の日独(第一次大戦)そして大東亜戦争での“武運長久”を祈念して奉納されたものです。
拝殿内にも、大東亜戦争時に奉納された軍艦の絵馬が飾られてあります。
・宮代神社
富沢村にある「宮代神社」は,旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。
鎌倉末の南北朝期の三春地方は、田村氏が南朝方として最期まで奮戦
宇津峰山山頂(討つ宮) 祠 宇津峰カントリークラブ1番ホールと9ホールの間
宇都宮氏北朝方(宮を打つ)
南朝小山氏 小山氏の乱 田村荘司の乱
後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。
元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発したが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。
・三春佐久間氏
実沢には、室町時代から戦国期には三春田村氏の出城である“田村四十八舘”の一つ、北方守護与力五十騎を統括する“実沢館”があり、城主実沢山城守が治めていました。
後に、北方守護は富沢舘の富沢氏となり、実沢佐久間氏が名主として治めます。
この佐久間氏の由来には諸説あります。
歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後に三春田村氏に仕官したとする説。
もう一つ、旧織田家家臣 柴田勝家の麾下与力佐久間玄蕃盛政(鬼玄葉)二男で、柴田家滅亡(親子の中が悪く)に、三春田村氏仕官し、田村の重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安(隼人正)の一族とする説等々・・・
・鷹巣堤屋敷 江戸期の庄屋佐久間又兵衛
戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。
いづれにしても、三春田村氏が、戦国時代を乗り切るために、最も信頼する最強の精鋭部隊である佐久間一族を北方守護として配置したことには変わりはありません。
戦国期の終末、太閤秀吉による「奥羽仕置き・田村仕置」にて田村家の改易後は、知行地に帰農し、代々実沢村の名主・村司を勤めてきました。

田村四十八舘
澤石村(三春町沢石)五舘跡
正楽舘
舘主 渡邊雲龍斎
御舘
舘主 橋本玄蕃
長根舘
舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住
臺(むろ)舘
舘主 佐久間豊後
新舘
舘主 某氏若狭
富沢
富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。
後に、田村家中が伊達派と相馬派に分裂した時に、富沢一族は、相馬派筆頭の小野保・小野城主田村梅雪斎に組し、小野城城代衆(三十六騎衆)と小野城下に移住します。
富沢氏移籍後は、実沢館( 実沢字開宝山)、実沢新館(実沢字館腰)主の佐久間氏が北方警備を司ります。
・江戸時代 旗本5千石秋田氏 富沢
・実沢地名の由来
大御神(義良親王・後の後村上天皇)の“徳實恩澤の利益”を感謝する意味を込めて實澤(実沢)としたと伝えられ、毎年この由来のとおり、徳實恩澤によって、五穀豊穣と世界平和があることへの、祈願と感謝で、村人総出の春秋の祭礼が挙行されています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2021-01-21 Thu
三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話
要田地区の高齢者学級「ひまわり学級」様から、講話の依頼があり、三春の歴史「戦国時代三春田村氏と田村家臣団」と題してお話をさせていただきました。
新型コロナ感染拡大防止という観点から飲食の中止、ソーシャルディスタンス、アルコール消毒等の対策をしっかりとっての高齢者学級例会です。
中世 戦国期の三春城主田村「田村武士団」 2021.1.20
於要田ひまわり学級 三春昭進堂 髙橋龍一
・麒麟が来る “戦の無い国造” 150年戦争 室町時代初期より 広義では平安末期の源平時代までさかのぼる
自分の領地・土地を守る 名主に頼る 税(米による年貢・兵役・人足・雑務)
近隣の地侍や山賊が襲ってくる
田村地方は、平安時代から室町初期までは熊野大社の荘園
管理官が藤原~田村荘司は藤原姓とみられていましたが~記載なく不明
戦国大名田村氏が平姓(平氏)ですので、もともと平姓だったと推測されます。
一説では室町末期の南北朝時代に下向した橋本一族との縁戚もあり田村氏を名乗った~
田村の領主 田村麻呂の末裔とする 田村家を名乗ることが領主の証?
・洞 (内) 約100年 三春築城以来 3代
三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。
田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。
・織田信長による農兵分離政策と豊臣秀吉の刀狩及び太閤検地
「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。
三春秋田氏 転入 給料
田村氏 土着 地侍の集合 力関係
最終的に信頼できるのが、一族郎党の洞
また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。
戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。
三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。
・三春田村家初代 義顕の奥方は、磐城氏より
・三春田村家2代 隆顕の奥方は、伊達氏より
・三春田村家3代 清顕の奥方は、相馬氏より
後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。
しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。
また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。
時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。
尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。
現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。
宮田上洞・中洞・下洞
要田は、天正の三春城主田村清顕時代(約450年前)、熊耳館・熊耳太郎右エ門、笹山舘・笹山五郎右エ門の配下であった。
さらに、元禄11年寅(268年前)の秋田公時代の名主調べには、笹山-佐藤五左エ門、熊耳・岩崎長蔵、南成田-大内仁右エ門、荒和田-橋本善次右エ門とあり、その後天保15年には、南成田・橋本五郎左エ門から秋元四郎に変り、熊耳-安瀬半十郎、笹山-渡辺市郎治となっている。
鷹巣橋本氏~伊達に行かず三春に残った一族
・佐久間氏 佐久間信盛 比叡山・本願寺 末裔 宇賀神様 白山信仰 北陸の豪族
・青山氏 青山通り 旗本
・武田氏 武田信玄 弟の家系
・吉田氏 家臣 播磨赤松氏の一族常葉顕則
・真田幸村娘 片倉小十郎 白石城主 秋田家の墓
・秋田氏 安倍安東 十三湖 津軽 海賊 世界ペルシャ湾沿岸まで貿易
三春初代の父實季 伊勢朝熊に蟄居 永松院墓所
・浪岡氏・北畠顕家 青森
・荒木氏 先祖は、戦国丹波(兵庫県)を治めた荒木村重の一族
薗部城(京都府園部町)主で荒木氏綱 光秀合力
・細川氏 応仁の乱総大将 細川勝元東陣 山名壮前 西陣の由来
・小野寺氏 桜田門 守衛三春小野寺 軍師小野寺慵斎三春脱藩明治期の書物
赤穂浪士小野寺十内 常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)二本松松下 加藤
・大高氏 まほら設計 赤穂浪士大高源吾
・大内氏
1588年(天正 16年)大内定綱帰参
伊達の脅威、会津葦名の脅威 天正十一年(1583)ころから、清顕の麾下に属していた大内定綱が本格的な反抗を開始するようになり、ついに定綱は二本松畠山氏を後楯として清顕と対立した。
以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返されたが、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。
ついに、清顕みずから兵を率いて塩松の千石森まで出馬して新城を構築した。対する大内勢も定綱みずからが出馬して、新城の城柵まで打ち破り、田村勢はここでもまた追い崩されてしまった。
相次ぐ大敗に清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとしたが、新田民部に諌められて三春へ退いたという。
天正 13年9月、 政宗の攻撃を受け会津に逃走した大内定綱は、 伊達家を離反する際、童名方から松本図書跡を与え、家老にとりたてるという約束であったが、領地どころか扶持米さえ与えられない状況にあったため、高野親兼をたのみ、政宗に再度奉公したいと願い出た。
葦名牽制に役立つとの判断で帰参が許された。天正 16年3月の事である。(郡山市史1p500)
田村荘司と小山氏
田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。
以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。
田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。
応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。おやま~こやまと称する
その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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