CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2022 - 07  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




「中妻の歴史」中妻生涯学習「すずらん学級」講話会    三春昭進堂 髙橋龍一 於さくら湖自然観察ステーション  R4.6.23 



「中妻の歴史」中妻生涯学習「すずらん学級」講話会    三春昭進堂 髙橋龍一

於さくら湖自然観察ステーション  R4.6.23 

三春城下商人の先人から「地域貢献」そして文化の担い手として民度の向上を教えられています。

「商品を売るのは当たり前ですが、目先の利益だけではない地域文化の向上、そして地域住民のお役に立たなければならいという指針が示され、まさに商いは、売り手と買い手だけでなく、その商いが社会全体の幸福につながるものでなければならないという商人の理念である「三方よし」の考え方を教わっています。

塵壺を発行しているという因縁もあってか歴史勉強会の講師をいえあいされることがあります。
ご縁もあり、今回はコロナ禍でのびのびとなっていた「中妻生涯学習スズラン学級」様、約40名の方々の勉強会で「中妻の歴史」という題でお話をさせていただきました。







中妻の歴史
                       

はじめに

テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい

県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富

小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる



伊勢参り 朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記




 三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう 
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名



歴史への興味 

学校の先生からの^三春藩裏切り

三春と云えなかった自分 高校生

商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢




塵壺 毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく
経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年6月で3371号 約30年 手配200平成7年より新聞折込
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春




三春田村家三代 

義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石(郡山、岩瀬含)

・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字 

・三春秋田氏 安倍・安東家

田村麻呂 阿弖流為 京都・清水寺「田村堂」

奥州藤原氏 清原家末 平泉金色堂 ジパング(黄金の国) 対源氏義経を匿う

・鎌倉時代・蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船

 安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾

 十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査


関ケ原の合戦後・宍戸五万に減封  水軍を取り上げ常陸宍戸へ 不満噴出   本来なら切腹・お家取り潰し=回避

旧管領細川氏娘が正室・家光の又従妹・強力な水軍? 

秋田城介官位から秋田氏

 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿、娘のお千世方を連れて 

伊勢名物 和漢胃腸薬「秋田教方中倉萬金丹」

実季の長男 秋田俊季公  水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い






鷹巣

・石の宮様 大元師明王 
大元帥明王の勧請は、平安時代となる弘仁十己亥年(819年)2月25日、磐城守山山中村(現郡山市田村町守山町山中)より奉還し、同社神主の柳沼市太夫神が神職として勤仕したと記されています。その後、応仁の乱後の室町時代となる文明17巳年(1485)、舊(旧)記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭礼には鷹巣村近郷より寄付方控左書を綴奉するとの記載もありました。

・五龍神社(五龍大権現)

 鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。







鷹巣鎮守「八雲神社」の由来は、瀬山にあった天正16年(1588)勧請の牛頭天王を、明治初期に廃仏毀釈神仏離反の命により、祭神を「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、神社名を「八雲神社」と改めこの地に移したもので、鷹巣地区の総鎮守となっています。

戦国時代の三春城主田村家重臣、鷹巣七竈の首長と云われた橋本刑部左衛門貞綱が、尾州津島から勧請したと伝えられている「牛頭天王」
・田村大和は、鷹巣の修験・威徳院賢晃を改名した名前で、後に田村清見と再度改め初代鷹巣小学校の校長となった方で、鷹林和泉は二代目の校長です。



・宇賀神様 稲荷神社 宇賀玉(神楽)栗原新田秋田藩政下 新田開発

鎌倉銭洗弁財天・上野不忍池弁財天 弁天様の頭に鎮座 金運上昇・芸能上達


・橋本正吉様 「田村の庄」鷹巣の歴史 鷹巣の諸家由来や継承をまとめた力作
中妻小学校・三春中学校・県立図書館・国会図書館・三春町図書館・歴史民俗資料館へ寄贈

俳句の会(民度の高さの証)生活・文化レベルの高さ







・薬師寺 法相宗徳一和尚。

全国の有名寺社の6割、徳一弘法大師、坂上田村麻呂 大同年間(平安時代初期・806-810)
薬師寺のご本尊は、木造阿弥陀如来聖衆来迎像。

創建時は独尊であったと思われますが、阿弥陀二十五菩薩来迎像と呼ばれ阿弥陀如来の周囲に二十五菩薩が配置され、雲上に聖聚を従えて往生者を迎える様を描写した彫刻仏像です。この様式の仏画は多数みられますが、木造は大変珍しいものです。



沼澤地区

・沼沢子安薬師如来堂  徳一由来の創建 光明寺

会津慧日寺 閼伽井(赤井)岳薬師如来 波立薬師堂 

戦国田村氏要害、田村四十八舘沼沢舘にある光明寺は、舘主沼沢孫兵衛の屋敷跡と伝えられています。
江戸期には真言宗修験の守山大元帥明王別当師継院末寺と記録されています。

近代の明治の初めには中妻小学校の前進となる、達材小学校(後に沼沢小学校に改称)が設立されます。



・春日神社 境内末社の疱瘡神に奉納した相撲は近年まで続き、今も土俵の跡が残る

・沼沢往来 遠藤様 清水田様



斎藤地区

斉藤村社「三渡権現」 宝亀二年(771年)、土地の豪族、伊藤氏の遠祖藤原頼豊が、松樹山と呼ばれる現地に勧請したと伝えられています。
平安期に創られた古社として古い行事を今に伝えています。

祭神は天弁羅雲命で夏季祭礼には「お湯立て」の神事が行われます。

また、神楽・奉納される太々神楽は古式をとどめる出雲流で町の無形民俗文化財に指定されています。  



・安養寺、

寛永二年、三春城下大町にある浄土宗紫雲寺方丈の隠居寺として、良編岌誉上人により開山された小さなお堂で、御本尊は、如意輪観音で、三十三観音、子安観音、三光地蔵
尊を祀っています。

また、案内板には、その昔の縁日には説法会が開かれ、浄土宗ということもあり、町人が近郷近在の参拝者で賑わい茶店が軒を連ねたと云われます。


・月見崎には三春城主田村氏の重臣,田村四十八館の一つ松樹山上館主の斉藤大善の軍中勝利を祈願して、嫡子藤原頼位が建立した妙見様と呼ばれる、松樹神社があり、近くには五輪塔がありますが、その案内板には松樹山上館主の墓と思われるとありました。
 






西方地区

・霧の城 西方舘 千葉氏

・「西方不動堂」は「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人の額には墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。

・「乳付け観音」と呼ばれる馬頭観音堂も鎮座しています。この観音様は「馬産安全」「子孫繁栄」に霊験あらたかで、田村地方では小野の東堂山と並んで信仰され、かつての祭礼は旧三月十七日で、西方の各戸では、団子を持参して参拝者に「団子撒き」をしていました。
 笹を浸して神前に供えておき、参拝者にこの笹と、小さな板に馬の走る焼き印を押して配り、馬が丈夫に育つようにと、たてがみに結んでいたとされています。
堂の内外には江戸期三春の馬画名匠と云われた徳山研山の書かれた大絵馬をはじめ四十六面の親子絵馬が奉納されています。


 毎年元旦に同地区で開催される、「西方水かけまつり」

 塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
 前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。
古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。

もう一説には、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。


「中妻文化財を守る会」の方々が、地区にある史跡を後世に伝えようと立てているもので、中妻地区住民の地元に対する想いには、頭が下がります。








おわりに

故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」

昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。

是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。

「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」 




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「三春歴代藩主と化け猫騒動」生涯学習支援ボランティア会講話 於ライスレイクの家  R4.6.21                         三春昭進堂 髙橋龍一




生涯学習支援ボランティア会講話 於ライスレイクの家  R4.6.21 

                       三春昭進堂 髙橋龍一


三春歴代藩主と化け猫騒動


はじめに

テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる



伊勢参り 

朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記


 三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう 
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名








歴史への興味 

学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢



塵壺 
毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく
経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年6月で3371号 約30年 手配200平成7年より新聞折込



令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」・お菓子の紹介が3割、三春7割

三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春





三春田村家三代

 義顕・隆顕・清顕 (愛姫父)10万石(郡山、岩瀬含)
 伊達政宗 田村大元神社宿所
磐城国の由来 御城山掘削(地デジアンテナ工事)
・田村麻呂の末裔 平氏三春田村氏 藤原田村荘司田村氏 
・守山から田村大元神社 田村氏のお城・菩提寺福聚寺は日和田八丁目 
・阿武隈川東岸 本拠地 日和田・西田・阿久津・田村町・守山(江戸期守山藩領)
・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字 
清顕急死 生首が飛ぶ 卯の刻参り女の殺害 



田丸具直 

天正19年(1591年)会津若松城主 蒲生氏郷の奉行人、与力。
・須賀川より、三春城代として入府
・関ヶ原の合戦前後 上杉景勝郡代を経て、蒲生源左衛門・蒲生五郎兵衛
(会津蒲生秀行家臣)・・・近代・三春城築城及び城下町創設 約40年



 加藤明利

 寛永四年(1627年) 豊臣秀吉恩顧、会津藩主加藤嘉明の三男。
・三万石にて入府。

 松下長綱

 寛永5年(1628年)豊臣秀吉恩顧、三万石にて二本松より転封。
・豊臣秀吉旧主松下松下加兵衛之綱の孫  約15年
・墓所   曹洞宗 天翁山州伝寺(前住太地玄亀老師)
・生母墓所 浄土宗 引接山光岩寺
・ 近代三春城下町の整備(現六町制)
・ 乱心を理由に徳川幕府により改易 御城受け取り 籠城討ち死・切腹・恭順
二本松・相馬・白川・会津藩城受け取り



三春秋田氏 

安倍・安東家 秋田俊季 水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い

正保二年(1645年) 蝦夷探題・日ノ本将軍末裔安倍姓安東秋田家。

田村麻呂 阿弖流為 清水寺田村堂 アテルイ供養

安倍氏 安倍貞任 安倍首相先祖西へ 残留安東氏 

 平安末期大和朝廷 源義家 前九年の役 後三年

奥州藤原三代氏 安東氏縁・清原家 平泉金色堂 ジパング(黄金の国)  鎌倉初期対源氏義経を匿う







安東氏  

 蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船

 安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾

 十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査

安東氏・湊氏  浪岡氏(青森浪岡町 北畠親房・顕家末)


・安東實季 関ケ原までは、出羽国秋田湊城主

妻・五か国管領細川昭元の娘・円光院(織田信長妹お犬の娘)

徳川三代家光の又従妹 吉兆細川家 細川護熙分家

応仁の乱 京都市内 東軍大将細川勝元 西軍 山名宗全 西陣由来 

若狭国小浜の羽賀寺建立 安藤水軍寄港地縁  

宍戸五万に減封  水軍を取り上げ常陸宍戸へ 不満噴出   本来なら切腹・お家取り潰し=回避

旧管領細川氏娘正室・家光の又従妹・強力な水軍? 

秋田城介官位から 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿、娘のお千世方を連れて
 


隣接する常陸笠間藩主が忠臣蔵でお馴染みの播磨赤穂藩主浅野家

小野寺氏、大高氏、不破氏等々…三春宍戸由来家臣の親戚

※赤穂浪士で有名な浅野内匠頭長矩(ながのり)が切腹した一関藩江戸屋敷(藩主田村建顕)というのも三春縁になります。

※安政7年(1860年)に水戸藩浪士らによって大老・井伊直弼が暗殺された、あの「桜田門外の変」三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭として「外桜田門御番所御当番」の役職にあり、「内桜田門」は「桔梗門」のことでその警備を任されていました。

秋田家文書「桜田門勤務心得」「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)三春藩江戸定府公役には桜田門警備記載
 
また、「桜田門外の変」の水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士の小野寺慵斎(ヨウサイ)がいます。



伊勢名物 和漢胃腸薬『秋田教方中倉萬金丹』

『三重県薬業史』によれば、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉萬金丹」

実季の長男 秋田俊季公 母である「円光院」は「織田信長」の孫にあたり、2代将軍「徳川秀忠」夫人の従姉妹でもありました。 




日之本将軍(ひのもとしょうぐん)

北日本・津軽・北海道・千島にまたがる蝦夷の地。この一帯を蝦夷管領として支配下に置いたのが“日之本将軍”と称された安東(あんどう)氏でした。

東日流(津軽)十三湊(つがるとさみなと 青森県五所川原市十三湖の辺り)を中心に、北方の文物の交易で大いに栄えたため、「日之本将軍」などと言う大層な名前で呼ばれました。



「正徳・享保事件」お家騒動 化け猫騒動の発端

江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。

 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わ
りに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。

この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。

 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。


 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。



「腹切り梅」

亡くなった広季の守役だった滋野多兵衛は責めを負い切腹を申し渡されます。

その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。

滋野は事前に妻子を離縁、るいの及ぶのを防ぐ。 妻墓所岩代に在りという

天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。
 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。



化け猫騒動

家老の荒木氏が娘を化け猫騒動関連の三春城下大火の際に、城下を焼き尽くしお城も焼け落ちた壊滅的な被害を受けますが、真照寺門前で消火の陣頭指揮の為に出坐した殿様を追うように延焼した火炎が収まった

本堂の中には、化け猫騒動、天明大火後、時の藩主秋田千季公が納めた弘法・興教大師像があります、これは、夜毎、猫の怨霊にうなされた千季公が、その霊を鎮めるために納めたもので、中に腹切梅の滋野多兵衛の位牌が納められている


滋野の腹切梅の事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったという話が広まり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。



「猫冢(塚)」化け猫伝説の証明

御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。

旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡の庭

お城側の土手の雑木を伐採中に、紅枝垂れ櫻の根本付近から出土したということです。

その中心人物の別格家老荒木玄蕃。

•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。

•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。

この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。


又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。



主夜神(しらしん) 夜神

三春城御花畑にあったという「主夜神」紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。

主夜神は、「婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)」として、「華厳経入法界品」に記されています。
恐怖の厄を免れさせて安隠を与へるなど、古くからすべての衆生を救護する神とされ「主夜」から「守夜」と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益をもつ神様であるとされています。

夜を守る神と、闇夜に眼を光らせる猫がむすびつき、主夜神は古くから猫、とりわけ黒い猫が御使いであるとされています。

この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。









おわりに

故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」

昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。

是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。

「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」 




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:21 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
沢石さわやか学級「三春の歴史講話会」 如是我聞 三春昭進堂 髙橋龍一





三春町生涯学習 沢石「さわやか学級」講話会があり、講師の依頼があり、三春の歴代藩主、そして「橋本正行と南朝」神社の御祭神(後醍醐天皇、御村上天皇、陸奥宮)。

そして、三春佐久間氏の系図等をお話ししました。


さすがに人生に先輩方です。

私の方が色々と教えていただきました。


ありがとうございました。


この講話も、地域貢献」の一環ですが、私が地元三春で健全経営の商いをさせていただけるのも先輩方のお陰だと持っています。


その観点からも、先輩方に感謝し、先輩方がその先輩、言うなれば先人から受け継がれてきたものを継承して次世代へ繋げる・・・そういうことが感謝の記しとしても自分なりの恩返しと仕事だと思っています。






沢石生涯学習「さわやか学級」講話会 如是我聞    於:沢石会館  R3.10.14   40名
                       

三春昭進堂 髙橋龍一


・ご挨拶 三春昭進堂の髙橋 四代目

セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう 
込木柳作 明治の終わりごろ 昭進堂は昭和元年に命名

・塵壺

平成3年3月~ 令和3年10月で363号 手配り300枚


・歴史への興味 

商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢

三春と云えなかった自分の反省から~

学校の先生からの^三春藩裏切り






・三春田村氏

三春田村家三代 義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石 郡山 岩瀬、

清顕急死 生首が飛ぶ 卯の刻参り女の殺害 磐城の由来 地デジ

・田村麻呂の末裔 平氏三春田村氏 藤原田村荘司田村氏 記録がなく一本化

・守山から田村大元神社 田村のお城・菩提寺福聚寺は日和田八丁目 

・阿武隈川東岸 本拠地 日和田・西田・阿久津・田村町・守山(江戸期守山藩領)

・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字 

・田村氏族 - - 奥州田村郡(磐城)の橋本村(下枝)より起こる。

田村義顕も橋本氏と云い、その弟 月斎100歳も橋本庄七郎と称す。  一関田村家文書
又、光大寺館(芦澤村の光大寺)は、田村氏の族 橋本修理亮、下枝館(御館村)は、橋本刑部少輔、田村氏の重臣 橋本明則、天文元年より住す、その子 定明なりと。

伊達成実記に「三春の家老 橋本紀伊、橋本刑部(顕法・徳)」とあり。
又、田村大膳太夫清顕の家臣に橋本時顕(荒和田)、橋本玄蕃(富澤)、橋本定・(鹿島館(高野村土棚)、橋本修理亮(芦澤)などあり。







・三春秋田氏 安倍・安東家
田村麻呂 阿弖流為 清水寺田村堂
安倍氏 安倍貞任 安倍首相先祖西へ 残留安東氏 
 大和朝廷 源義家 前九年の役 後三年
奥州藤原氏 清原家 平泉金色堂 ジパング(黄金の国)

安東氏  
 蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
 安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
 十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査

安東氏・湊氏  浪岡氏(青森浪岡町 北畠親房・顕家末)


・安東實季 妻五か国管領細川昭元の娘・円光院 
(織田信長妹お犬の娘)徳川三代家光の又従妹 吉兆細川家 細川護熙分家

応仁の乱 京都市内 東軍大将細川勝元 西軍 山名宗全 西陣由来 

若狭国小浜の羽賀寺建立 安藤水軍寄港地縁  

関ヶ原の戦いでは東軍方 領地拡大のチャンス 最上氏と敵対 強力な水軍保有

 家康から御咎め 

徳川幕府は、常陸佐竹氏(西軍・上杉氏と同盟)を 北日本海沿岸の秋田へ

出羽秋田四十九万石を宍戸五万に減封  水軍を取り上げ常陸宍戸へ 

不満噴出   本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘正室・家光の又従妹・強力な水軍? 
秋田城介官位から 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿と娘を連れて 
伊勢名物 和漢胃腸薬『萬金丹』
『三重県薬業史』によれば、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉萬金丹」

実季の長男 秋田俊季公  
水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い






・高木神社 帝釈天

平安時代初頭の大同二年(有名寺社伝説の7割・田村麻呂・空海・徳一創設)、開山に法相宗徳一大師(磐梯山慧日寺・鷹巣薬師寺・天台宗最澄と仏教論争)を招いて、霊域“高野ヶ岡”に小祠を建立し、高木神勝軍地蔵の二社を勧請、「鶏足山豊前寺」を建立して、高野郷の鎮守としたとされています。


鎌倉時代末の南北朝期、南朝方の皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じた、奥州鎮守府将軍北畠陸奥守顕家公(浪岡氏先祖)が、白河結城氏と共に多賀国府へ下向の時、当地を通過する際、“村司・佐久間右京太夫が村人を集めて、御仮屋を造り郷食を奉じます。

義良親王は、御礼として御宸筆の御歌「徳實恩澤(トクジツオンタク)の利益」を下さり、以後この御歌を祭祀、御宮社を「帝爵天皇宮」としています。
その後も、神徳は継承され、戦国期南北朝動乱の初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村ノ庄(熊野大社領地・荘園)の総鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。

江戸期の秋田藩政下では、実沢村鎮守として継承され、明治維新後の廃仏毀釈で、高木神勝軍地蔵尊は金剛山瑞祥寺へ移し、新たに、高皇産霊命(高木神)を祭神して實澤村鎮守“高木神社”と改称されます

社殿に施された彫刻は稀に見る力作揃いで、拝殿外壁の欄間にはめ込まれた明治期の彫り物は、“日清・日露戦争や昭和初期の日独(第一次大戦)そして大東亜戦争での“武運長久”を祈念して奉納されたものです。
拝殿内にも、大東亜戦争時に奉納された軍艦の絵馬が飾られてあります。




・宮代神社

富沢村にある「宮代神社」は,旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。

 鎌倉末の南北朝期の三春地方は、田村氏が南朝方として最期まで奮戦

宇津峰山山頂(討つ宮) 祠 宇津峰カントリークラブ1番ホールと9ホールの間

宇都宮氏北朝方(宮を打つ)

南朝小山氏 小山氏の乱 田村荘司の乱

後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。

元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発したが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。






・三春佐久間氏 

実沢には、室町時代から戦国期には三春田村氏の出城である“田村四十八舘”の一つ、北方守護与力五十騎を統括する“実沢館”があり、城主実沢山城守が治めていました。
後に、北方守護は富沢舘の富沢氏となり、実沢佐久間氏が名主として治めます。

この佐久間氏の由来には諸説あります。
歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後に三春田村氏に仕官したとする説。

もう一つ、旧織田家家臣 柴田勝家の麾下与力佐久間玄蕃盛政(鬼玄葉)二男で、柴田家滅亡(親子の中が悪く)に、三春田村氏仕官し、田村の重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安(隼人正)の一族とする説等々・・・

・鷹巣堤屋敷 江戸期の庄屋佐久間又兵衛 

戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。

いづれにしても、三春田村氏が、戦国時代を乗り切るために、最も信頼する最強の精鋭部隊である佐久間一族を北方守護として配置したことには変わりはありません。
戦国期の終末、太閤秀吉による「奥羽仕置き・田村仕置」にて田村家の改易後は、知行地に帰農し、代々実沢村の名主・村司を勤めてきました。











田村四十八舘 

澤石村(三春町沢石)五舘跡



正楽舘 

舘主 渡邊雲龍斎




御舘

舘主 橋本玄蕃




長根舘 


舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住





臺(むろ)舘

舘主 佐久間豊後




新舘

舘主 某氏若狭







富沢 
 富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。
後に、田村家中が伊達派と相馬派に分裂した時に、富沢一族は、相馬派筆頭の小野保・小野城主田村梅雪斎に組し、小野城城代衆(三十六騎衆)と小野城下に移住します。

富沢氏移籍後は、実沢館( 実沢字開宝山)、実沢新館(実沢字館腰)主の佐久間氏が北方警備を司ります。

・江戸時代 旗本5千石秋田氏 富沢

・実沢地名の由来
大御神(義良親王・後の後村上天皇)の“徳實恩澤の利益”を感謝する意味を込めて實澤(実沢)としたと伝えられ、毎年この由来のとおり、徳實恩澤によって、五穀豊穣と世界平和があることへの、祈願と感謝で、村人総出の春秋の祭礼が挙行されています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話 「戦国時代三春田村氏と田村家臣団



三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話

要田地区の高齢者学級「ひまわり学級」様から、講話の依頼があり、三春の歴史「戦国時代三春田村氏と田村家臣団」と題してお話をさせていただきました。


新型コロナ感染拡大防止という観点から飲食の中止、ソーシャルディスタンス、アルコール消毒等の対策をしっかりとっての高齢者学級例会です。



中世 戦国期の三春城主田村「田村武士団」  2021.1.20 

於要田ひまわり学級 三春昭進堂 髙橋龍一


・麒麟が来る “戦の無い国造”  150年戦争 室町時代初期より 広義では平安末期の源平時代までさかのぼる

自分の領地・土地を守る 名主に頼る 税(米による年貢・兵役・人足・雑務)

近隣の地侍や山賊が襲ってくる


田村地方は、平安時代から室町初期までは熊野大社の荘園

管理官が藤原~田村荘司は藤原姓とみられていましたが~記載なく不明

戦国大名田村氏が平姓(平氏)ですので、もともと平姓だったと推測されます。
一説では室町末期の南北朝時代に下向した橋本一族との縁戚もあり田村氏を名乗った~

田村の領主 田村麻呂の末裔とする 田村家を名乗ることが領主の証?

・洞 (内) 約100年 三春築城以来 3代

三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。

田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。

・織田信長による農兵分離政策と豊臣秀吉の刀狩及び太閤検地
 「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。

三春秋田氏 転入 給料
田村氏 土着 地侍の集合 力関係

最終的に信頼できるのが、一族郎党の洞

 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。





 
戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。

 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

・三春田村家初代 義顕の奥方は、磐城氏より
・三春田村家2代 隆顕の奥方は、伊達氏より
・三春田村家3代 清顕の奥方は、相馬氏より

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。
しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。

 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。

 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。

宮田上洞・中洞・下洞





要田は、天正の三春城主田村清顕時代(約450年前)、熊耳館・熊耳太郎右エ門、笹山舘・笹山五郎右エ門の配下であった。

さらに、元禄11年寅(268年前)の秋田公時代の名主調べには、笹山-佐藤五左エ門、熊耳・岩崎長蔵、南成田-大内仁右エ門、荒和田-橋本善次右エ門とあり、その後天保15年には、南成田・橋本五郎左エ門から秋元四郎に変り、熊耳-安瀬半十郎、笹山-渡辺市郎治となっている。


鷹巣橋本氏~伊達に行かず三春に残った一族

・佐久間氏 佐久間信盛 比叡山・本願寺 末裔 宇賀神様 白山信仰 北陸の豪族

・青山氏 青山通り 旗本

・武田氏 武田信玄 弟の家系

・吉田氏 家臣 播磨赤松氏の一族常葉顕則

・真田幸村娘 片倉小十郎 白石城主 秋田家の墓

・秋田氏 安倍安東 十三湖 津軽 海賊 世界ペルシャ湾沿岸まで貿易
  三春初代の父實季 伊勢朝熊に蟄居 永松院墓所 

・浪岡氏・北畠顕家 青森

・荒木氏 先祖は、戦国丹波(兵庫県)を治めた荒木村重の一族 
薗部城(京都府園部町)主で荒木氏綱 光秀合力

・細川氏 応仁の乱総大将 細川勝元東陣 山名壮前 西陣の由来

・小野寺氏 桜田門 守衛三春小野寺 軍師小野寺慵斎三春脱藩明治期の書物
赤穂浪士小野寺十内 常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)二本松松下 加藤

・大高氏 まほら設計 赤穂浪士大高源吾

・大内氏
1588年(天正 16年)大内定綱帰参
伊達の脅威、会津葦名の脅威 天正十一年(1583)ころから、清顕の麾下に属していた大内定綱が本格的な反抗を開始するようになり、ついに定綱は二本松畠山氏を後楯として清顕と対立した。
以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返されたが、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。
ついに、清顕みずから兵を率いて塩松の千石森まで出馬して新城を構築した。対する大内勢も定綱みずからが出馬して、新城の城柵まで打ち破り、田村勢はここでもまた追い崩されてしまった。
相次ぐ大敗に清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとしたが、新田民部に諌められて三春へ退いたという。

天正 13年9月、 政宗の攻撃を受け会津に逃走した大内定綱は、 伊達家を離反する際、童名方から松本図書跡を与え、家老にとりたてるという約束であったが、領地どころか扶持米さえ与えられない状況にあったため、高野親兼をたのみ、政宗に再度奉公したいと願い出た。

葦名牽制に役立つとの判断で帰参が許された。天正 16年3月の事である。(郡山市史1p500)

田村荘司と小山氏
田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。

以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。

田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。
応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。おやま~こやまと称する

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
中郷さくらの会 歴史講演会 於三春の里 令和元年12月10日(火) 三春昭進堂 髙橋龍一




当三春昭進堂4代に亘ってお世話になっている中郷さくらの会さまより、「城下新町の家屋についている屋号について話してもらいたい」との依頼を受けまして三春城下の成り立ちと共にお話してまいりました。


私の親の世代の方々です。

もちろん、子供のころ顔見知りの方々ですので、緊張し中がらも温かく見守ってもらいながら話を聞いていただきました。



中郷さくらの会 歴史講演会   於三春の里 令和元年12月10日(火)
                      
三春昭進堂 髙橋龍一

1.三春城下の成り立ち
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り、築城したのが始まりと言われます。田村氏は義顕、隆顕、清顕の三代が三春城主としてこの城に拠った。
お城を中心に、北=北町 南=南町 新町=荒町 中町=蒲生2 大町(下大町)=蒲生
新南町(松下)=新町(秋田)

天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成「奥州仕置き」を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。
会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。
家光の代寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、これとは別に嘉明の次男、明利に三春三万石が与えられます。
その間にも城の改修や、町割りそして寺社の建設が進みました。

翌年には明利は二本松に移封され、松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年ほど幕領であったが翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部した。

町割りと修験堂寺院

三春城下の修験には大元帥明王別当学頭坊(山中・明王町)を筆頭に

1、華正院(荒町)馬頭観音堂
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町・王子権現)
5、般若寺(北町・天満宮別当)愛染堂
6、陽照寺(北町切通し)御本尊「阿弥陀如来坐像」は真照寺へ
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井・三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中・大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)西国三十三観音石仏 天澤寺へ
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)百杯宴石碑
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)後秋葉神社 水天宮 智法院屋敷
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、満徳院(丈六)
21、西福寺(中町)愛宕神社別当
22、大光寺(中町)愛宕神社別当 八幡山大光寺
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています
修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。

2.新町の成り立ち
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町(明王町・田村~蒲生)と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形だった。

大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。

真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水は入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。

3.セリ市場付近の屋号





資料参照

4.荒町(新町) 蒲生時代
明治になり、郭境門が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、昔から商工業が盛んなところでした。工業といっても、製糸工場、羽二重工場ですが、旧藩時代から明治大正にかけて盛んでした。
前の三春中学校敷地にあった三盛社は、当時女工150名を使って操業していて、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

街本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、馬頭観音等が立ち並び、寺町でした。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで参っていました。

この場合、町屋のものはその行列に遠慮して通り過ぎるのを待って墓参に行く有様でした。
お盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為です。

小浜海道口の方は、今の渋池の中ほどから、上り二折れしていた道を、先の三春中学校西側に沿うように道路を作り、交通の利便性を図って往来がスムーズになり繁昌していました。

馬頭観音は、古い由緒を持っています。戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。
小野の東堂山、堂坂(現小泉)と共に三観音(馬頭観音)と呼ばれ、庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

5.北町
三分坂 戦国期の三春城主田村公の直参旗本「不断衆」屋敷跡。
後の秋田公代には、藩主及び御城の近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」が屋敷を構えた。
宿直番衆は、昼夜問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せ支給されていたので三分坂と呼ばれたと伝えられている。
旧三春城登城口「天神橋口」
かつては、ここに防火用水と城防御のための、堀があり、この場所に橋がかかっていました。天神橋とは、昔北野天満宮(現北野神社)が、城内にありこの橋を通って領民がお参りに行ったところから名付けられました。
「亀井清水」 かつて、少し上に、郭境相馬海道口黒門があり、その行き帰りにのどを潤したといわれます。

6.八幡町
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。

飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。
八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

7.中町 蒲生
三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。
三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。

御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。
御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。
この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
江戸期秋田氏の時は旗本5千石代官屋敷

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。
大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。

旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。

このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。

新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

8.大町
伊賀屋山三渡辺商店 
第九十三国立銀行 初代頭取 渡邊甚十郎
本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見れます。

呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。
後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。
橋元柳平 明治末芹ヶ沢の田村競輪競馬場 清水馬場
三春狐~ 自由民権運動家弾圧とこの頃の三春藩営やっかみ! 二本松藩

 神田 春山 船田

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。
御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。
舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありましたが、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。
山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。

明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?
また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」



一般社団法人福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」


福島県建築士事務所協会 県中支部青年部は、株式会社村上設計取締役村上様を会長とする県中の設計事務所の青年部の方々が所属する会です。


同会相談役のエーユーエム構造設計株式会社の浜尾様よりご依頼がありまして、昨日、三春城下の寺社仏閣や歴史的建造物をご案内いたしました。

公私共にお世話になっている郡山市雲龍堂の阿部様からのご紹介を受けた浜尾様からの依頼ですので、少しでも三春城下を知っていただこうと快諾してご案内をした次第です。


当日は、15名の方の参加され、初めに真照寺住職山岸和尚様には真照寺の説明と真言密教式座禅の阿字観をご教授いただきました。

また、庚申坂弓町新地の旧妓楼の所有者河辺様には、妓楼内をご案内いただきました。

ありがとうございました。




以下は案内した場所となります。

1、真照寺 三春藩主秋田氏祈願所 午前8時~
真照寺山岸住職及び三春昭進堂髙橋による三春城下歴史概要・真照寺説明

・藩主御殿遺構 欄間・木戸
・弘法大師、興教大師木造
・古四王堂
・方丈池









2、庚申坂弓町新地 河辺邸  午前9時過ぎより見学可能






私自身も、旧遊郭である妓楼へお邪魔するのは初めてのことです。







私自身も楽しませていただきました。














大正年間に撮影された満開の瀧桜と娼妓が写った写真がありました。

桜木として初めて国の天然記念物に指定された大正11年の翌年の春だと思います。日本髪の庚申坂弓町新地遊郭の娼妓さんが写っています。






これは貴重な構図です。





そして、終戦後の進駐軍兵士登楼お断りの看板!






陶器の便器




三春乗合自動車開業のポスター





河辺さんの旦那様による補修・修復によって保存状態がよく保たれています。






玄関引き上げ大戸の傷跡



3、田村大元神社 三春藩藩内総鎮守 



・仁王門

・本殿 

・熊野宮・北野宮 


4、天澤寺 曹洞宗 


・伽藍・天邪鬼 

・身代わり地蔵尊 

・駆け込み寺  

・柿の木地蔵  

・お城山 秋田家慰霊塔 北畠浪岡氏 

・上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡

桜川沿い 

・百杯宴碑 


7、大町お祭通り ・磐州通り







7、三春文化伝承館 紫雲閣(現在立ち入り禁止)







座敷蔵「紫雲閣」は昨年から一部破損して居る為に現在立ち入り禁止となっていました。









盆過ぎとはいえ快晴の真夏日です。


暑い中お疲れさまでした。

また、メンバーの三条屋代表の宮川様とは幕末の長岡藩家老・軍事総統の河井蒼龍窟の話での楽しい情報交換をいただきありがとうございました。

これは別枠でもっとお話ししたいところです。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」~菓匠蒼龍
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」払拭学習会
                          
三春出身の郷土史研究家橋本捨五郎さんを講師に迎えて、表記のジャレ唄「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」の三春狐の由来払しょくのための勉強会が、三春町国際交流会主催でライスレイクの家で始めっています。

「今この根も葉もないじゃれ唄を払拭していかないと・・・・」との思いからの勉強会立ち上げとなりました。

私も講師の捨五郎さんや国際交流会の石川会長からお誘いを受けまして、先月から参加しています。

本日、その勉強会がありますが、わたくし所用のため欠席となりますので、先月の私の考えた発言内容を記載させていただきます。

以下は私の考える三春狐です。

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」
                          
髙橋龍一

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、意図的にただ勢いだけで流布された戯言的狂歌(ジャレ唄)・・・だと私は思っています。

1.三春町民の知識階級の方々には、高度成長期まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識しか無かったはず。

2.明治の自由民権運動初期には、三春人を見れば皆自由民権運動家の疑いをかけられていた時期がある。

3.明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

このじゃれ歌は、町民目線での歌=士族軽視

NHK「朝が来た」を見れば当時の藩御用商人が藩から受けた仕打ちがわかります。

武士の俸禄がコメで支給されそれをお金に両替して、さらにお金を藩に貸し付け、さんざん貸付金を棒引きした挙句に「戊辰の役」のために戦費を差し出します。

さらに、戊辰の役敗戦や明治維新、廃藩置県とともに長年の貸付金返済が不能になり、倒産した商家も少なくなかったはずです。

是ではこんな恨み言を盛りこんだ“じゃれ歌”を作っても“ばち”は当たらないでしょう・・・・


この詩をよくよく読み込んでみますと、

・三春狐(狐はお稲荷さんの使い)は三春藩を裏切ったと馬鹿にした歌ではなく。

・広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出し会津猪と揶揄された会津藩。

・二本松史観の解釈から出て来たであろう、ピョンピョン跳ねまるで了見違い棒(坊=世間知らずな子供)とまで揶揄された二本松藩
この両藩の戦争批判。

・そして奥羽列藩同盟の盟主伊達仙台藩の日和見主義への批判が読み取れます。
戊辰の役で、各藩士、町民さらには諸外国からの汚名を一番払拭したかったのは仙台藩ではなかったか?

それを三春狐に騙された=三春藩の裏切りと定義したのは、明治以降の三春の発展に対する会津や二本松の旧藩士ではなく、奥羽列藩同盟の盟主伊達藩からではなかったか?
 伊達仙台藩は戦後、越後長岡藩など奥羽越列藩同盟の戦費の各藩債権の返済を外国から迫られる。

・会津猪由来 
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。

・尚、長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから会津荘内同盟および奥羽列藩同盟(後に越後長岡)という虚構の構図が生まれます。

しかし、伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、三春町民すべてを対象として言われ続けることには違和感があります。

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」と思っていました。


三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |