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「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」~菓匠蒼龍
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」払拭学習会
                          
三春出身の郷土史研究家橋本捨五郎さんを講師に迎えて、表記のジャレ唄「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」の三春狐の由来払しょくのための勉強会が、三春町国際交流会主催でライスレイクの家で始めっています。

「今この根も葉もないじゃれ唄を払拭していかないと・・・・」との思いからの勉強会立ち上げとなりました。

私も講師の捨五郎さんや国際交流会の石川会長からお誘いを受けまして、先月から参加しています。

本日、その勉強会がありますが、わたくし所用のため欠席となりますので、先月の私の考えた発言内容を記載させていただきます。

以下は私の考える三春狐です。

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」
                          
髙橋龍一

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、意図的にただ勢いだけで流布された戯言的狂歌(ジャレ唄)・・・だと私は思っています。

1.三春町民の知識階級の方々には、高度成長期まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識しか無かったはず。

2.明治の自由民権運動初期には、三春人を見れば皆自由民権運動家の疑いをかけられていた時期がある。

3.明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

このじゃれ歌は、町民目線での歌=士族軽視

NHK「朝が来た」を見れば当時の藩御用商人が藩から受けた仕打ちがわかります。
武士の俸禄がコメで支給されそれをお金に両替して、さらにお金を藩に貸し付け、さんざん貸付金を棒引きした挙句に「戊辰の役」のために戦費を差し出します。
さらに、戊辰の役敗戦や明治維新、廃藩置県とともに長年の貸付金返済が不能になり、倒産した商家も少なくなかったはずです。
是ではこんな恨み言を盛りこんだ“じゃれ歌”を作っても“ばち”は当たらないでしょう・・・・

この詩をよくよく読み込んでみますと、
・三春狐(狐はお稲荷さんの使い)は三春藩を裏切ったと馬鹿にした歌ではなく。

・広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出し会津猪と揶揄された会津藩。

・二本松史観の解釈から出て来たであろう、ピョンピョン跳ねまるで了見違い棒(坊=世間知らずな子供)とまで揶揄された二本松藩
この両藩の戦争批判。

・そして奥羽列藩同盟の盟主伊達仙台藩の日和見主義への批判が読み取れます。
戊辰の役で、各藩士、町民さらには諸外国からの汚名を一番払拭したかったのは仙台藩ではなかったか?

それを三春狐に騙された=三春藩の裏切りと定義したのは、明治以降の三春の発展に対する会津や二本松の旧藩士ではなく、奥羽列藩同盟の盟主伊達藩からではなかったか?
 伊達仙台藩は戦後、越後長岡藩など奥羽越列藩同盟の戦費の各藩債権の返済を外国から迫られる。

・会津猪由来 
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。

・尚、長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから会津荘内同盟および奥羽列藩同盟(後に越後長岡)という虚構の構図が生まれます。

しかし、伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、三春町民すべてを対象として言われ続けることには違和感があります。

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」と思っていました。


三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍刹記::講話集 |
「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於三春町老人クラブ連合会


「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於老人クラブ連合会

三春昭進堂主人 髙橋龍一

1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」

2.戦国以前
那智熊野権現大社の荘園・・領内にある熊野神社
・湯峰氏。熊野講中引導師・・・湯の峰温泉参拝の禊場(温泉)
 田村家の家臣・・・直参以外は田村庄司の配下(荘園の役人で各地より召集)
 ちなみに三春田村家は、平姓。田村庄司家は、藤原姓
三春過足の上石家(親戚)、坂上田村麿の東征の途中、滞在した土地で子を作りその子に「上石」の姓を与えた。福島県郡山市田村町金沢、中田町上石あり。宮崎県北諸県郡三股町樺山が本拠とされるが、兵庫県加東市上田(ウエダ)が本拠。
戦国時代末期、新潟県上越市にあって上杉謙信の家臣だったと伝える。




3.戦国田村氏・・・塵壺6月号参照
・戦国田村家・・・田村麻呂の末裔・平氏田村一族(南朝田村庄司一族とは異)
・田村麻呂・大和民族(渡来人末の父とアイヌ末の母から生まれた身長6尺のハーフ)

三春田村領の周辺には、北に伊達氏、岩代大内氏、西に会津蘆名氏、東に相馬氏、南に二階堂氏、佐竹氏、岩城氏などの戦国大名がひしめき合い度々侵攻が繰り返されていました。
 また、田村家の組織編制の上で、織田信長以前の中世的な全国の武将と同じく、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえ家中掌握が弱かったと考えられます。
そのために、独立性の強い在地領主層は、度々周辺の武将から調略を受け、各々が家名存続・自領安堵の為に、抵抗・離反が度々起こっていました。まさに「四面楚歌」の状態です。

・伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置)

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。




後に、愛姫が片倉家の白石に清顕の甥となる田村宗顕ら田村家宗家を呼び寄せ、その子である牛縊(うしくびり)定廣が、少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し、妻となったのが、真田幸村(信繁)の娘・阿菖蒲でした。

尚、この時伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家である田村宗顕・牛縊定廣の田村本家、はじめ御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など分家した11家(分家下士含めると28家)にとどまります。
※当時の分家とは、三春の自領地に親族をを残して伊達家へ仕官




4.安倍・安東家秋田家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・米造り弥生文化
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・安倍貞任・東和の旗まつり「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家に廃退より秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

・倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。
鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化
東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。
文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗は、元が負けることを想定していた?
鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい

5.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉
武士の給料は米で支給。経済はお金
・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・奇兵隊や幕府歩兵
その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化




6.戊辰戦争と三春・
・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 
会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われる。
会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)

旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ
旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ

7.会津戦争と三春・・・三春狐に騙された。

戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)
三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・最後執政秋田春季静臥と大原家(薩摩藩)


・三春藩銃砲組・・・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・・・・・・・・・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人


当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
筆頭家老西郷頼母、家老神保修理、秋月悌次郎等、戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、

狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

*明治後期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が棚倉城攻防戦での三春藩の撤退を記載しているのみ。
山川大蔵浩著「会津藩始末記」明治四十四年発行にも記載なし。

・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。
・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
・蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ
これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。

元禄以来、経済は貨幣が流通している・・武士の給金は米券で支給・・両替手数料
開国による品不足・物価上昇・・・庶民の暮らしの圧迫

伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?しかし、悪役が欲しい・・・・。

これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・
士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだしも、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのに違和感があります。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。
しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけ。

8.まとめ~三春に狐は居なかった!
・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ
・唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。


| ryuichi | 22:35 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍刹記::講話集 |
三春物語938番「三春~教科書には載らない歴史」~於Ri2530地区三春ロータリークラブ例会


>Ri2530地区三春ロータリークラブ会長の増子博保さんから”三春ロータリークラブの木曜昼の例会で、三春の歴史について話してほしい”と云うことで、ご案内を受けました。

増子会長は、今年度の目標として「地域を知り、地域の貢献し、ロータリー仲間を増やそう!」というスローガンを掲げているそうです。
そのトップバッターとして私に白羽の矢が当たったという次第だそうで、ありがとうございます。。

お題は「三春のと戊辰戦争」ということでしたので、例の「三春狐」の払拭の絶好の機会到来とばかりに、歓び勇んでお邪魔させていただき、諸先輩を前にして大変恐縮でしたが、”おしゃべりな饅頭屋の一席”にお付き合い頂こうと、お話をさせていただきました。



このような機会を与えていただいたこと、三春ロータリーの皆様には、感謝申し上げます。

また、増子会長には、過分なるご紹介いただきました事、大変恐縮です。

エスコートしていただいた、永井さんには、様々な場面においていつも感謝いたします。

重ねて御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。




丁度この日は、友好ロータリークラブの茨城県八潮市の八潮ロータリークラブの方々のご臨席での卓話となりました。

先日、有楽町の帝国ホテルで行われた八潮ロータリークラブ40周年祝賀会の御礼だそうで、この人の輪と申しましょうか?交流の厚さと申しましょうか?絆なんでしょうね、ここにロータリークラブの意義、素晴らしさの断片を垣間た思いがいたします。

杉村会長はじめ八潮ロータリークラブの皆様には台風11号直撃の中のご訪問ありがとうございます。
貴重な経験をさせていただきました。

また、画像をいただきありがとうございます。早速使わせていただきました。

さらには、化粧用具のビューラー国内シェアは約70%、資生堂「マキアージュ」のビューラーは全て沼澤製作所の社長沼澤明夫さんもロータリータリアンとして来町され、お土産として持参していただいた「自社製八潮ロータリークラブ発足40周年記念」に製作されたビューラーを、当店女将と女性スタッフの分まで頂戴いたしました。

重ねて御礼を申し上げます。

尚、国際ロータリーの会長である田中作次さまが所属されています。
地域社会の為、世界の平和の為に世界中を駆け回り活動を続ける賢人は日本で3人目のリーダーとのことです。




本来であれば、諸先輩を前にしてジャケット着用で登壇すべきところなんでしょうか、饅頭屋として、歴史の語り手としていつもの作務衣で臨場させていただきました。

下記はその卓話の内容です。


「三春~教科書には載らない歴史」    於三春ロータリークラブ例会

三春昭進堂主人 髙橋龍一


1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」


2. 戦国田村氏・・・塵壺6月号参照

3. 秋田家安倍安東家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・・塵壺伊勢詣り
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家により秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。

鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化

東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。

文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗が元が負けることを想定していた?

鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい



おたりまんじゅうを食しながらのお茶での懇親会にて、杉村八潮会長と増子三春会長と3ショット

4.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉

 天皇は洛内(京都)や大和地方の一信仰の対象・・・江戸幕府が規定・・自ら犯す

開国・不平等な通商貿易
・米価本位の経済の破たん・欧米各国の脅威・飢饉

金・絹など西洋と貿易・・・金が安、銀が高・・欧米とのかけ離れ
金銀の交換比率は,日本では1:5,世界市場では1:15
外国商人は洋銀を日本に持ち込み,国内比価で金と交換し,暴利を貪った

輸出急増のため,国内は品不足 → 国内物価高騰物・・・・民衆の爆発・打ちこわしや一揆の続発、“ええじゃないか”

薩摩藩や長州藩などの西国諸藩・・・地場産業の開発や密貿易により現金収入

地場産業振興・輸送・・・北前船・
密貿易・・・・出島や沖縄・竹島・尖閣諸島等々

石見浜田藩(島根浜田市))・棚倉更迭・・ヤシの実でサッカー目付(スパイ)間宮林蔵に見つかる

「忠臣蔵」赤穂浪士の軍資金・・・塩売買・・・大量生産・遠方への輸送可能
・・・・・莫大な利益    小野寺十内秀和 (祖父十太夫は三春藩士)

「桜田門外の変」水戸浪士・・・こんにゃく農家から献金・・少ない

こんにゃく・・・長持ちしない江戸へ船で輸送
三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭 として「外桜田門御番所御当番」

水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士小野寺慵斎がいます。
・江戸城下水運の管理・彦根藩 運用税の値上げ~利益減少

・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・長州藩奇兵隊や幕府歩兵

その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化



5.戊辰戦争と三春・・塵壺秋田静臥

・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 

会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われるー会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

三春藩の協力・荷駄運搬のみ
・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
新政府軍・薩摩長州を中心とする西国諸藩は、振り上げたこぶしの落としどころとして会津をロックオン

勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)
旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ

旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ


八潮ロータリークラブの皆様

6.三春狐に騙された・

三春町民の知識階級の方々には、戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

鶴ヶ城落城後、会津藩士は青森斗南藩に事実上の流刑に処せられます。
しかしそれを不服としていた佐川官兵衛などは、警視庁が募集した不平士族鎮圧のための入庁し、西南戦争などで活躍しました。

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。・・・塵壺山三
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・・・これへの嫉妬と斗南移住の会津藩士や二本松藩士への怒りの矛先を他に向けるため意図して“風説の流布”を執行した。

・最後執政秋田静臥と大原家(薩摩藩)
・土佐藩と河野広道・広中
・三春藩銃砲組指南役
・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人

藩 名     石高 施条砲  大砲総数  後装銃数  旧式前装銃数   
三春藩      5.0    0     3       86       400       
二本松藩    10.1    2    12        0       60      
仙 伊達家   62.6   0     84      533      5,727     
米沢 上杉家  15.0    0     18      60      900     

当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」への理論的解明と改訂となっています。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・
尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

幕末戊辰の役・会津戦争で東北の大藩というだけで期待され、日和見的な態度が祟って、対岸の火の粉をかぶりしまし、一番損をしたのはどの藩かは、すぐにお分かりですよね?

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、ただ勢いだけで流布(風説の流布)された戯言的狂歌・・・だと私も思っています。
*明治初期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が「三春離反」を記載しているのみ.


・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、我を忘れ死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。


そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。
伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。

しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?
しかし、悪役が欲しい・・・・。

・さらに付け加えて、云わせていただけるならば、会津落城前、上杉米沢藩が降伏し、伊達仙台藩が降伏したころにできた“じゃれ唄”です。
これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのには違和感があります。

まして、会津人や二本松人でもなく、だた聞きかじりの無知、心無い方々や士族でもない町人の方々が、さも知っているの呈で、吹聴しているというのは、怒りや悲しさを通り越して、呆れてしまい、哀れに見えてきます。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材としては不足しないということかな・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。


しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎の「龍馬がゆく」や「峠」などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけでした。


昼食を食べて例会スタートです。

6.まとめ

・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ

・三春と云う名前は全国区

・三春昭進堂HP・菓子の宣伝は5パーセント
唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。

・三春昭進堂やおたりまんじゅうを全国ブランドにするのは気が遠くなるような労力が必要だが、三春と云う名前は全国ブランド・・滝桜は三春で一番の営業マン




三春昭進堂 髙橋龍一

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平成23年度学校運営協議会委員・学校関係者評価委員研究協議会発言録写
平成23年度学校運営協議会委員・学校関係者評価委員研究協議会 発言録写

日時:平成24年1月23日(月) (協議会 10:30~16:30)
    パネルディスカッション11:00~12:20 (80分間)


会場:国立オリンピック記念青少年総合センター(明治神宮・代々木公園隣接) 
(受付:カルチャー棟1階 小ホール)

パネルディスカッション参加者
 <パネリスト>
 ・貝ノ瀬 滋 氏 東京都三鷹市教育委員会教育長
 ・片山安基夫 氏 岡山市立岡輝中学校校長
 ・高橋 龍一 氏 福島県三春町立三春小学校学校運営協議会会長
 <コーディネーター>
 ・松浦 晃幸 文部科学省初等中等教育局参事官付学校運営支援企画官


広報「みはる」に掲載されました。




パネルディスカッションでの私の発言内容です。

「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」

           髙橋龍一

○地域の立場から、学校にかかわることの魅力とは?
また、地域住民として、どのようなことを目指して、学校にかかわっておられますでしょうか。

【はじめに】
 ・公立の小学校から公立中学校への進学率は99パーセント
公立中学校から公立高校へは85パーセントという土壌があります。
「地域が学校にかかわる」というのは、決して新しい取組ではない。
特に三春では、過去、独自の教育 改革・地方自治改革の流れの中で、地域住民と連携した学校づくりが進められてきた。

前三春町長伊藤寛氏と元教育長武藤義男氏による「三春町の教育改革」
30年前の三春町の教育改革は、当時三春町教育長の武藤義男さんと、武藤さんを教育長に抜擢した前町長伊藤寛さんの教育改革そして地方自治改革です。
現在も続く「三春町教育研究員制度」などの教員の意識改革や、地域住民と連携しながらの学校つくりなど、いまの「学校運営協議会コミニティースクール」の原型が垣間見れる画期的な教育改革でした。
この伊藤・武藤体制での教育改革は、今の教育改革、そして地方自治行政改革へとつながる大きな一歩だったように思います。


また、現在の三春町政は、公共事業の一般入札制度導入や行政職員のプラス査定制度など鈴木町長の強いリーダーシップの下で様々な行政改革が進み、町民の声が町に届きやすい町政に反映しやすい体質になっています。
これらが、今の三春小学校学校運営協議会の導入の母体となったとかなあと考えています。

地方自治の学校運営
国ができないことは自治体単位で、自治体で行き届かないことは地域のみんなが自ら組織を作って助け合って考えていかなければならないということ、そして人と人とのつながりの大切さを改めて思い起こさなければならないと考えます。
大きな町と小さな町ではおのずと町の政策が違います。
地方自治、地方分権を政府では、公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されていますが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じはじめているように感じます。
そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、政府は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになってきました。
そういう意味に置いても、このコミュニティスクールは、非常に分権的な制度だとおもいます。

日本の未来を担う子供たちの義務教育の場である学校を「新しい公共」の場として『官』から『公』へという考え方の元で、保護者や地域住民が、子どもたちの将来のために協力し合うことを通じ、学校や教育を教員や行政だけに任せるのではなく、「自分たちの学校」という意識を持ってより良い学校及びより良い地域を目指す仕組みとしての創造。

保護者や地域の人が参加して、地域の学校の教育課程や行事そして施設設備などをどうするか、どのように予算を使っていくのかなどを校長らと一緒に話し合って決めていけるようになれば、学校のことはよく分かるし、関心もでて、日本の公立学校は大きく変わることになるかもしれません。

公共学校の運営に保護者や地域住民が参画することを通じて,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりができる。
一方、学校においては,保護者や地域住民に対する説明責任の意識が高まり,また,保護者や地域住民においては,学校教育の成果について自分たち一人一人も責任を負っているという自覚と意識が高まっていくと思います。
さらには,相互のコミュニケーションの活発化を通じた学校と地域との連携・協力の促進により,学校を核とした新しい地域社会づくりが広がっていくことでしょう。


【地域が学校にかかわることの魅力・よさ】
 自分自身も、現在、三春小学校において学校運営協議会の会長として学校にかかわっているが、その魅力は、地域と学校との協働による良い取組が上手く進み、子どもの教育が充実していることである。
 
運営協議会委員の三春町内にある各種団体からの排出
・町全体の情報の共有化(学校から地域へ・地域から学校へ)

①登下校の交通安全などの安全教育(見守り隊及び地域住民)行政防災無線の活用

②盆踊りや祭礼などの地域行事へ参加及び警備(PTA及び地域住民)

③職場体験や地域の歴史研究などのキャリア教育(観光ボランティア及び地域住民)

④学習支援体制 三春小学校ボランティア・コーディネーター(サンボラ)
ゲストティーチャーや○付けボランティア等

三春小学校学校運営協議会の委員は、それぞれ町内にある様々な組織機関に加入しているかそのOBで組織されている。
特に今年度は過程を公のものとして町教育委員会より、区長会、民生委員、町づくり協議会、PTA、老人会、商工会等々の組織機関に委員排出の協力要請をして参集していただいた委員の方々が加盟。

各委員が所属機関で学校及び児童生徒の関する事柄をそれぞれ持ち寄っていただいている。
また、運営協議会での内容をそれぞれの所属機関で話してもらっている。
私自身の関与に関しては、個々には元三春町防犯協会三春支部長及び元三春町消防団三春分団長という立場での運営協議会参画ということで、防災や防犯という見地からの意見や質問、そして提案をしている。
また、自営業という立場で保護者や地域住民からの学校や児童生徒への様々な意見を聴取している。


公立学校
公共(パブリック)というのは、市民的な、市民による共同の、という意味で、役所=官を指す言葉ではないのですが、民主主義になった後も日本では、公共というと、役所=官のことだと思われてきたわけです。
ここから脱却して、公共とは、主権者である「私」がつくるものという意識に基づいて国・社会を運営していくことが必要であり、そのようなシチズンシップ(市民精神)に基づく公共を【新しい公共】と呼ばれています。

民主主義国家では、ほんらい、「私」はこの国・社会をつくっている一人の人間であるという自由と責任の下に「私」が公共を担うとされています。
市民がつくり・雇っている「役所・役人=官」は、専門家として、その市民の公共を支え、守るために仕事をすることが原則だと考えています。
 


【学校へのかかわり方、目指していること】

 こうした取組が実現できるのは、本校が学校運営協議会制度を導入していることが大きなポイント。
 11月に横浜で開催された文部科学省の推進協議会で、質疑応答にあった「教育とは?」という漠然とした質問がありました。
私は、教育には「家庭でしか教えられない教育」、「学校でしか教えられない教育」、
そして「地域でしか教えられない教育」と、それぞれ違った分野の三つの教育があると考えます。

そして、学校運営協議会とは、この三つを結ぶパイプ役と考えています。
 学校運営協議会を上手く機能させながら、これらの教育を充実させることが、自分の目指すところである。
 学校運営協議会として取り組んできたことは、多岐に渡る。
例えば・・・
 ・地域の特色を生かした「総合的な学習の時間」の充実
・地域・保護者からの意見要望を「教育課程」へ効果的に反映
・詳細な教育課程の策定
県教育委員会への要望として
・バランスのとれた教職員の男女比率
・特色のある教育活動への教職員の配置
・特別支援教育(学習障害や適応障害等)充実のための教職員の配置(本年度も要望)
県内での指定校の少なさ=要望が通りやすい
県教育委員会からの人材面での優遇

【学校運営協議会の効果】
       情報の共有化
 公共学校の運営に保護者や地域住民が参画することを通じて,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりができる。

一方、学校においては,保護者や地域住民に対する説明責任の意識が高まり,また,保護者や地域住民においては,学校教育の成果について自分たち一人一人も責任を負っているという自覚と意識が高まっていくと思います。
さらには,相互のコミュニケーションの活発化を通じた学校と地域との連携・協力の促進により,学校を核とした新しい地域社会づくりが広がっていくことでしょう。
例えば、特別支援教育においては、三春町の子供にその対象児童が多く在籍しているのではなく、5歳児検診などの事前審査や障害者福祉施設及び作業所の充実の中で、親御さんたちのネットワークで三春小学校の特別支援体制の充実を知り地学区外や移住による登校している。

○学校と地域が目標を共有して取り組むためには、地域の方と教員とのコミュニテケーションや共通理解などが 重要。
また、教員、地域住民の双方に過度な負担があっても上手くいかないと思われるが、何か工夫されていることなどはおありでしょうか。

コミュニティスクール化のメリットを3点挙げてみたいと思います。
第一に、単一校ではなく三春町(地域全体)に学校運営協議会が作られることによって、常に先生が、親や地域の方々の評価の目にさらされるという点。

第二に、単一校ではなく三春町(地域全体)に学校運営協議会に参加する保護者自身が、自らの子供への接し方、家庭教育の行い方について確認、学習ができるという点。

第3に、単一校ではなく三春町(地域全体)に定年退職を迎えた方など、第二の人生を歩もうとされている方々にとって、学校運営協議会に入ることは、子育てや社会人としての経験・体験を発揮する場を得ることができ、生きがいを感じることができるという点。

衆議院の付帯決議では、「学校運営協議会を導入するにあたっては、学校は地域コミュニティの拠点であることをふまえ、保護者や地域住民の主体的な意欲と要望を尊重すること」と期されています。


【教員と地域住民との距離感の解消】

 教員と地域住民とのコミュニケーション、協議の機会を確保することが大切。
  それも無理なく行うことがポイントである。
  例えば、学校評価や教育課程の編成はどこの学校でも行うものだが、ここに地域住民がかかわるということも 一つの方法。
教員と地域住民(本校は学校運営協議会が中心だが)が一緒に考えて、つくる、という場を作れば、おのずと距離感は縮まるはず。
  本校では、アンケートの実施と分析、公表を協働で行っている。
児童や保護者はもちろん、教職員からも様々な声が聞かれる。
  また、教育課程の編成にも地域がアイデアを出すことで、地域の特色が生きた学習につながる。
当然、教育課程の詳細はプロである教員がつくるものだが、地域を知る者がそこに情報を提供することは重要。
  協働して良い学習活動が構築できれば、教員も地域の力を信じてくれるようになる。
 
 また、学校を公開する機会をできるだけ充実することも大切。
・校内授業研究会や三春中学校区小中連携授業研究会の公開。
・三春町教育研究発表会の開催(町内全教職員)と公開。
・学習発表会「三春っ子」のへの招待
・保健委員会への参加
などなど様々な分野の学校行事に於いて参加の呼びかけがあり、一体感が感じられる。

教職員の資質向上を目指し
「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」として児童生徒の学力と人間性の向上に寄与していただいている。  
地域が力を貸すことで教員の負担も減るものと思う。

○地域との連携が、どうしても一部になってしまうという参画の偏りの問題があるが。その点ではいかがでしょうか。

【参画の拡大】ということ
 学校の頑張りを地域の目線で、地域の声として多くの保護者や地域住民に周知していくことが大切。
また、学校運営協議会が取り組んでいることを積極的に発信し、新しい学校の在り方に興味をもってくれる人を増やすことだ。
  各種団体からの人選での、相互情報提供という部分でクリアしている

自分も協力してみようという意識を引き出していきたいものだ。
  また、地域人材の世代交代は、戦略的に行うべき。
三春では、学校運営協議会委員の選定を工夫している。
  それは、世代交代は活性化として大変重要な内容と思われます。
その中で、小さな町だからの欠点として人材の確保が挙げられます。

これは、学校や行政に参画する特定の地域住民が集中してしまうという点です。
このために、以前から導入していましたが、三春小学校学校運営協議会の委員選定を、今年度はその選出過程を公のものとして捉え、三春町教育委員会より、区長会、民生委員、町づくり協議会、PTA、老人会、商工会等々の組織機関に委員排出の協力要請をして、それぞれの組織の中で選出していただいた。
そして、この事柄もそれぞれ組織の規約にも盛り込んでいただいた。

○最後に一言お願いします。
「今後の目標に代えて】
・地域に根差した運営協議会そして地方自治
近年「新しい公共」という言葉が聞かれるようになってきました。
もちろん自民党政権下でもささやかれていた言葉ですが、地域主権の確立を目指す「新しい公共」とは、教育や福祉、あるいは医療や自治等を、官と住民が一緒に作り上げる仕組づくりだと思います。
そこで生まれた課題が「地域文化をつくる教育」であり、地域の自然, 伝統, 文化,そこに生きる人々やその暮らしなど、自分が生まれ育った土地と人を愛する人間こそが、人々が平和に共存できる新しい社会を築くことができるんだろうと思います。

「自分たちの地域の学校」を良くするという意識が、「自分たちの地域」を良くするという意識につながり、成熟した「新しい公共」を担う意識へと発展することで、人々の支え合いと活気のある社会が実現されるんだろうと思います。

・サロン的性格の付与
子育てに悩む保護者の方々は、実は本心を打ち明ける相談相手がいなくて、孤独感の中で、苦しんでいる場合が多いと聞きます。
そんな時、PTAではカバーしきれない分野の担当として、「公共の場」としての学校運営協議会委員が介在して、その組織編制の特性である「地域の人生の大先輩」である方々に気軽に相談できるような仕組みがあれば苦情処理の円満解決のツールとなり「モンスターペアレント」などありえないのではないと考えます。

・小中一貫校
三春中学校でも導入予定していますが、公立学校として義務教育の小学校教育六年間と中学校教育三年間を別々に考えないで9年間というスパンで子供を教育する。
所謂「中一ギャップ」と呼ばれる小学校六年生と中学一年生の隙間をなくし、15歳で卒業のときに、どういう学力をつけさせる、どういう子供を育てるということをきちんと明確にするような、そういう長期的な視野にたった一貫した教育が必要なんだとおもいます。

公共社会教育の「ハードウェア」は学校です。
学校には空き教室があり、保健室、図書室、花壇、校庭があります。
そして学校の立地は町の中心地となっている場合がほとんどとなっています。
そのようなことを総合的美見ると学校はコミュニティソリューション(地域に住む皆で連携し、情報を共有し、皆で問題)の拠点になるのではないかと思います。
介護施設と学校が一体化しているモデルは京都などにありますが、例えば、健康教室。
高血圧にはこうしたらいいとか、健診を受けたほうがいいという指導は学校の保健室を活用すればすぐにできます。
あるいは午後や夜は学校の教室で大人のための健康教室も開けます。直ちに健康を中心とした予防医療のためのコミュニティ医療もできますし、そこで保育、子育てもできます。

または、町立図書館も公立学校の図書室を拡充してその任に充てるというのは如何でしょう。理屈は同じです。
 
そのときに行政をどのように使うのか、どうやって教育の専門家を使うのか。教育委員会は基本的には学校関係者、地域の関係者、保護者、教育専門家、行政担当者で構成されますが、例えば、そこで教育の専門家を医療の専門家に変えればいいですし、行政の担当者も担当部局に変えていけばいいわけです。

子どもや高齢者など弱者が大切にされない家庭や地域や国は、それがどんなに科学や経済が発展したものであっても、よい社会ではありません。地域の地理的・文化的・人的・歴史的財産を学び、地域を愛し、お年寄りを愛し、小さな子ども達を愛し、これからも地域を盛り立てていこうとする青少年を一人でも多く育てることは、教育の大切な役割の一つだと私は思います。
また、そこに住む子ども達が地域を守るため、地域を活性化するため、地元の高校や大学で、地域に根ざしたいろんな産業・歴史・文化・専門知識などを身につけていこうという気持ちになってくれるような教育プログラムが日本には今まで欠けていたのではないでしょうか。
そして、そういう仕組みが出来上がっていくことを願っています。


あとがきに代えて

一昨年前にNHKで放送した司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」。
その文庫本のあとがきに
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない・・・」
という一文があります。
明治の日本は、いずれは欧米諸国の仲間入りを果たすという目標(坂の上の雲)を追うためには、教育(勉強)しかないという姿勢が庶民のレベルまで浸透し、個々の教育の重要性をうたったものだと解していますが、 北国の小さな地方自治体である現代の三春もまたしかりだと思っています。

森田先生から「武藤義男元教育長遺稿・追悼文集」と共に頂いた、その著書「三春町の教育改革・資料合冊」を大変興味深く拝読しています。
この膨大な研究資料を読み進む中で、その研究意義の深さを改めて感じた次第です。

昨今の学校教育にかかわる諸問題がメディア等で取り上げられる中で、教育とは?学校とは?教育委員会とは?という漠然とした疑問や質問が噴出しているように感じています。
いじめ問題しかり、ゆとり教育からの脱却しかりです。

人間が人間である最大の意義というものは、広い意味での教育を通じて成長することではないでしょうか。
教育を通じ、先人が築いてきた知恵や文化を身に付けるとともに、新しい考え方や行動を編み出してゆく。
また、教育によってそれぞれの才能を開花させ、一人の人間として自立するとともに、家族や社会の一員として、さらには日本国民として、他の人を尊重し、誇りと責任を持って生きていくことを学ぶものなのでしょう。

人は、地域・社会環境の中で育つものだと考えています。
人を育てるとは、社会に出て生きていくためにふさわしい「生きる力」・スキルを身に着けるために、様々な環境を整えて、その動機付けとなる体験の機会を与えることではないでしょうか。
さらに付け加えるならば、教育を受ける一人ひとりの人間が社会的自立を果たし、よりよき存在になるために重要であるにとどまらず、社会や国の将来を左右するものであり、教育こそ人間社会の存立基盤といえるのではないでしょうか。

そして、それにふさわしい環境とは、目標を意識できることであり、そこでの体験を通して子どもたちの思考・態度が形成されるベクトルを共有し、その過程を意図的に設定および捻出する場が、教育であり学校だと思っています。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』に描かれている明治という時代は、永く続いた封建社会が崩れ、外国に負けない近代的な国家の建設に向けて歩み出した激動の時代でしたが、幕藩体制から解き放たれた国民みんなが、身分を越えて「日本人」として、ひとつの目標を共有したはじめての時代でもありました。
松山に生まれた正岡子規や秋山好古、真之兄弟も、あらゆる困難に直面しながら、激動の時代を、それぞれが『坂の上の雲』という夢や目標を持って、ひたむきに生きてゆきました。

豊かになった現代の日本では、その日さえ楽しければいいという刹那的な生き方で、夢や目標を持つことを忘れてしまった人が多くなっていると感じます。

だからこそ、明治人が持った気概や情熱を現代に生きる私たちが学ばなければならない、そう考えます。

大きくても小さくても、かまいません。みんなで夢や理想や目標を持ちませんか?
それさえ見えれば人はそれに向って一生懸命生きることができ、そのことが人生を充実したものにしてくれるものと思います。
そして、この三春町での教育を通じて、ひとりでも多くの子供たちが夢や目標を持つことの尊さを感じて欲しいと願っています。

前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
 司馬遼太郎著 『坂の上の雲』(第一巻「あとがき」)より



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三春物語835番 第一回「まんじゅうこわい!」開催~真照寺・三春昭進堂・三春町観光協会


本日、三春を代表するお寺、旧三春藩所祈願寺”真照寺”と三春昭進堂のコラボ企画!
三春町観光協会主催の三春通年型イベント企画「第一回まんじゅうこわい」が開催され、25名のお客様に参加いただきました。

頭もお腹も大満足できる三春を満喫する旅と題しての企画です。




饅頭つくり体験 (場所:三春保健センター)
 
 講師:三春昭進堂でのおとどけです。

 おたりまんじゅうの昭進堂から、簡単にできる饅頭つくりを伝授します。


三春町保健センターで饅頭つくり体験です。



当女将の指導の下、餡玉を、おたりまんじゅうの皮で包んでいきます。

皆様悪戦苦闘しながらも、いい塩梅の饅頭が包みあがりました。

早速三春昭進堂工場にて蒸かします。





場所を真照寺本堂に移動して、落語「まんじゅうこわい」です。

 話し手は、独快亭来歌の名を持つ、元校長先生の田部洋靖さんです。
独快亭来歌?続けて読んでみてください、”どっかいってくっか”→何処かに行って来るか!・・・・

とんちが利いた洒落た芸名ですね!

よ!来歌~


落語の定番「まんじゅうこわい」の三春バージョンでのおとどけです。

三春の各饅頭屋の饅頭や、御茶屋の名前が飛び交い皆様充分に楽しめたようですね!

しかし、真打顔負けの噺家ぶりですが、この先生の多彩さには驚かされます。



そして、真照寺住職による「こわ~いお話」です。
真照寺の本堂で聞く、「三春藩御家騒動と化け猫騒動」という怖い話です。

今、三春民俗資料館では、「化け猫騒動」展を行っており、正にタイムリーなお話でした。



江戸時代の化け猫騒動のお話を、その現場とも云うべき真照寺で聞く・・・・

何とも化け猫を身近で感じるお話でした。


三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村、および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。



正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました、しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。


 
 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。

 天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城御三階を炎上させました。
その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かいます。
 


丁度、真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。

火勢は、その場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。



この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。

           

続いて、当店女将による、お茶のおもてなしです。

先ほど、ご自身で作っていただいた、おたりまんじゅうを、蒸かし立てのままお持ちしました。



蒸かし立て熱々の饅頭を頂いて、抹茶で一息です。

事前に、お茶の簡単な飲み方の示しましての、お茶会です。

観光協会の職員にも協力いただいて、お運びからのお点前となりました。



もう一つ、参加された方々へのサプライズ企画として「化け猫騒動どら焼き」をプレゼントさせていただきました。



この企画がまとまった先月初めに、真照寺住職より”化け猫騒動に因むお菓子をお客様にお出してはどうか?”という提案とお題を頂きました。

あれこれ試行錯誤の上、猫のお菓子=どら焼き(ドラえもん)、そして上野合羽橋の道具屋に散々探してもらって、やっと見つけた”猫の焼き印”、そして真照寺を表す「三春の祈願所シール」で、仕上げてみました。



参加された皆様、本当にありがとうございました。

観光協会では第2回以降も思案中ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます。



観光協会の皆様方はじめ、田部先生、お茶の影点ての面川様、そして真照寺山岸住職、本当にお世話になりました。

三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 18:12 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍刹記::講話集 |
「三春と明治維新」三春町異業種交流会講演
三春町異業種交流会さまからのお招きを受けまして、「三春の明治維新」と題しまして、歴史のお話をしてきました。




三春異業種交流会            

                 H25.7.23(火)於三春城下大藤屋

「三春の明治維新」          三春昭進堂主人 髙橋龍一

1. はじめに

・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・会津史観教師による三春卑下
勝者・大勢側からみた偏った歴史認識に疑問・・・左翼思想や偏った宗教観はありません

・父など、三春在の年配の方々の三春歴史離れ



・河北新報三春支局長影山常次氏と初代三春写真館館主遠藤祐四郎氏・・「三春名所案内」作成
大正十四年発行・有料の三春観光パンフレット(写真集)・・・・三春の歴史復活・・・観光資源としての歴史観・・・三春に自信を持て!
寺社仏閣・学校・会社・盆踊り・遊郭・・・商店の広告入り



2.歴代三春城主の不思議~教科書には載らない歴史~
・戦国田村家・・・田村麻呂の末裔・平氏田村一族(南朝田村庄司一族とは異)
・田村麻呂・大和民族(渡来人末の父とアイヌ末の母から生まれた身長6尺のハーフ)
・伊達政宗正室愛姫の実家
         豊臣秀吉による奥羽仕置きにより伊達藩に合弁吸収
・第一回三春まつり「戦国合戦絵巻」
伊達派・・清顕生母実家・・愛姫嫁ぎ先政略結婚
相馬派・・清顕夫人実家・・・反伊達家
伊達派勝利するも伊達家に召し抱えの田村家家臣二十家以外は他藩召し抱えか帰農

・秋田家安倍安東家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家により秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・安倍水軍

平安末から鎌倉期、蝦夷探題・樺太から東南アジア・インドからペルシャ湾等々(地中海沿岸説も)にペルシャ湾沿岸まで出張・補給を兼ねた寄港地を設営し、日本人街を形成
海外と貿易・・・
“青森ヒバ”耐水性の高い木材・・・地中海イベリア島のフェニキュア人{海の民}
倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。

エルサレムの~の丘・ジパングの原型が記載された石碑(十字軍の頃11~14世紀初頭)
マルコポーロ「東方見聞録」にある黄金国“ジパング”
鎌倉初期・・本拠地十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)
・・・・奥州藤原黄金文化

東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存
和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい



*三春城下の町内会・自治運営
江戸期の秋田藩政三春城下の士分以外の町内会運営は通常、上層町人の代表である惣年寄、町年寄、検断などによって担われていました。

町検断役所において評議して城下町内の最終意志決定を行い、町会所を中心として町内会による自治運営をしていたと考えられています。

秋田氏の城下奥州三春では近世後期のお内、総鎮守太元帥明王祭礼から検討すると、町奉行- 惣年寄・月行事- 町役人- 平町人という伝達経路が確認できます。

このような体制は、秋田氏入部以降の江戸中期に形成されたと考えられます。

町会所は、この月行事の発議と、町人の負担によって成立しています。
そこには月行事層=三春城下の年寄による都市運営の成長と業務の多様化が反映しています。


3.明治維新とは
・徳川幕府300年の終焉・・・吉宗や松平定守などの改革だけでは間に合わない事情
幕末ペリー来航~ 将軍継嗣問題・安政の大獄・公武合体と尊攘運動
再訪してきたペリーに対して、幕府から“天皇の許可を貰わないと開国できない”と云ったことから幕末は始まる。
老中筆頭阿部正弘は、この難局の打開策を広く求め、なんと各大名から旗本、さらには庶民に至るまで意見を募集。これまで、外交のことは幕府が独断で決めていたにもかかわらず、政治的に大きな転換を行います。
しかし、名案は出ることなく、かえって幕府の威信低下を招く結果となります。
それまで大名以下民衆の殆どが、徳川幕府以外の統治者(大和朝廷と天皇は忘れさられていた)の存在を知らなかった。
天皇は洛内(京都)や大和地方の一信仰の対象・・・江戸幕府が規定・・自ら犯す

開国・不平等な通商貿易
・米価本位の経済の破たん・欧米各国の脅威・飢饉
金・絹など西洋と貿易・・・金が安、銀が高・・欧米とのかけ離れ
金銀の交換比率は,日本では1:5,世界市場では1:15
外国商人は洋銀を日本に持ち込み,国内比価で金と交換し,暴利を貪った

輸出急増のため,国内は品不足 → 国内物価高騰物・・・・民衆の爆発・打ちこわしや一揆の続発、“ええじゃないか”

薩摩藩や長州藩などの西国諸藩・・・地場産業の開発や密貿易により現金収入
地場産業振興・輸送・・・北前船・
密貿易・・・・出島や沖縄・竹島・尖閣諸島等々
浜田藩・棚倉更迭・・ヤシの実でサッカー目付(スパイ)間宮林蔵に見つかる

・「忠臣蔵」赤穂浪士の軍資金・・・塩売買・・・大量生産・遠方への輸送可能
・・・・・莫大な利益
・「桜田門外の変」水戸浪士・・・こんにゃく農家から献金・・少ない
こんにゃく・・・長持ちしない江戸へ船で輸送

・江戸城下水運の管理・彦根藩 運用税の値上げ~利益減少
・勤王と佐幕
大日本史編纂水戸光圀と水戸史観
・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・奇兵隊や幕府歩兵
その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化



4.戊辰戦争と三春
・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 同等
会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、宿場や村々が焼き払われるー武士に対する恨み
三春藩の協力・荷駄運搬のみ

・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
新政府軍・薩摩長州を中心とする西国諸藩は、振り上げたこぶしの落としどころとして会津をロックオン
勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、
旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や請西藩など佐幕諸藩は、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ
旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ

・三春狐に騙された・新発田狐・米沢狐・仙台キツネ
鶴ヶ城落城後、会津藩士は青森斗南藩に事実上の流刑に処せられます。
しかしそれを不服としていた佐川官兵衛などは、警視庁が募集した不平士族鎮圧のための入庁し、西南戦争などで活躍しました。
また、藩籍を返納して武士を捨て農民になった者は、坂下や喜多方、柳津で帰農していましたが、日清戦争後位から若松城下に再度住むようになります。

このころ三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
河野広中など貴族院(後の参議院)議員から農水大臣、さらには、貴族院議長にまで上り詰めていました。
・・・これへの嫉妬と斗南移住の会津藩士や二本松藩士への怒りの矛先を他に向けるため意図して“風説の流布”を執行した。



・最後執政秋田静臥と大原家(薩摩藩)
・土佐藩と河野広道・広中
・三春藩銃砲組・・・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・・・・・・・・・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人

藩 名     石高 施条砲  大砲総数  後装銃数  旧式前装銃数   小銃総数
三春(秋田家)    5.0   0     3     86       400     486  
二本松(丹羽家)  10.1    2    12      0       60      60
仙台 伊達家   62.6   0    84    533      5,727     6,260
米沢 上杉家  15.0     0    18     60      900     960

当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)



5、廃藩置県と廃仏毀釈
・国立第九十三国立銀行(後の三春銀行株式会社)
旧士族救済・・・士族席の株式化・・配当金で生活費を捻出
貨幣価値のわからない士族達は、株式を手放し三春を去る・・

・首のない地蔵・・・黒禰宜飛田氏を筆頭に神道過激派
・神道・神社の確立・・・各字鎮守の制定(明治後期の日露戦争戦勝祈願)
旧三春総鎮守大元帥明王・・・国常立命・・・・・・・田村大元神社
旧三春藩社神明宮・・・・・・天照大神・・・・・・・三春大神宮
修験愛宕権現・・・・・・・・愛宕権現将軍地蔵尊・・愛宕神社
天満宮・・・北野神社
熊野権現信仰王子権現(八王子権現?)・・・王子神社(houji)・・渡来人伝説
ハングル語以前(室町末期に清朝により征服)の古代朝鮮語
牛頭天皇・・・八雲神社
八幡宮・・・源義家が石清水八幡宮で元服し八幡太郎と称したことから、源氏の氏神



田村家初代義顕の創設した大元帥明王社(現田村大元神社)に末社・・秋田家代に城外である現地に移転
源氏は、秋田家の祖安倍安東の敵将
・修験道の廃止・廃寺・・三春物見遊山参照
・祭礼に見る明治維新・・旧三春藩総鎮守大元帥明王(現田村大元神社)から三春大神宮(旧三春藩社神明宮)・歴史的見解から青白天狗の面と衣装の返還
・神祇院・国弊社管理・太平洋戦争終結まで国有地・・・
天皇を中心とした帝国国家の統制下・・・国家神道により国家権力服従、聖戦の完遂、神州日本の不滅
太平洋戦争終結後、占領軍GHQの命令により国弊社の解体、神社域の各市町村へ、そして各字(一部宗教法人化)へ移管

・社会党・・農地解放



6.まとめ
・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ
・三春と云う名前は全国区
・三春昭進堂HP・菓子の宣伝は5パーセント
三春昭進堂やおたりまんじゅうを全国ブランドにするのは気が遠くなるような労力が必要だが、三春と云う名前は全国ブランド・・滝桜は三春で一番の営業マン
・全国の経営者や文部科学省職員や教育委員会の方々との話に話題を提供できる。
・小さな城下町のアピール



滝桜は、猪苗代や裏磐梯と同一の福島県の滝桜
猪苗代湖を猪苗代町のもの郡山市のものと見ないような感覚です。
城下町三春の観光資源・寺社仏閣(様々な宗教観と云う観点から)はあくまで点。
その点を結びつける核となるのは、過去の偶像展示の歴史民俗資料館ではなく、城下町の城下町たるゆえんの原点であるお城です。
そうです、三春舞鶴城です。
城下町の誇り!


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三春小学校6年生の総合学習特別講師


三春小学校6年生の総合学習特別講師
先日、三春小学校の6年生の授業に招かれました。
総合学習の時間「三春城下の歴史を調べる」でゲストティーチャーとして三春の歴史にかかわる話をしてまいりました。
話し方として、子供たちに興味を持って貰おうと各町の寺社仏閣のまつわる伝説を交えて話していきました。

・田村麻呂の三春駒伝説
・戦国武将田村家と田村清顕の急死にまつわる怪談
・秋田家お家騒動と三春大火~化け猫騒動~腹切り梅伝説
・愛宕下秋田家江戸屋敷
・河野広中と日比谷騒動
 等々

長い三春の歴史を駆け足で話します。
まず、歴史とはチャンバラ時代劇とは違い、正邪のないこと。
そして、歴史の教科書では日本の基本となる事柄を取り上げているということ。
また、教科書には乗らない郷土の歴史があることなどを冒頭に前ふりしてか、伝説や伝承を怪談形式で話しました。



最後に「恐ろしい伝説や伝承、怪談の類とは、昨年の原子力発電所の事故直後の様々な風評被害やゴシップネタと同じく、世情の不安なときに民衆心理が産み出す虚像や虚構の類で、後の世になって伝説化された作り話です」と締めくくりました。

後に児童の皆さんから御礼の手紙をいただきましたが、ほとんどの手紙の中に「生首」「化け猫」「腹切り梅」などのワードが記入してありましたが、強烈な印象だったんでしょう。
後は、先生方よろしくフォロー願います。



私の郷土の歴史である「三春歴史観」については、時代だったんでしょう、40年位前の私がまだ小学生、そして中学生だったころの話ですが、授業中に、極一部の先生から”三春狐に騙された~”「三春藩の裏切り」を聞かされました。

当時、多感な少年期の龍一少年にも、「三春の歴史を語ってはいけない」「三春藩は裏切り者」など
生まれ故郷である三春を卑下したということを記憶にとどめることになりました。

しかし、後に、よくよく調べてみるとそれは間違いであることがわかりました。

たまたまその方が会津、それも坂下や猪苗代など会津藩とか関係のない方々で、薄ら聞きかじりの「会津史観」。
それもごく一部の間で間違った歴史観者の間で、ささやかれていた話が、尾びれ背びれがついて”三春狐・・・”となっていったものでした。

昨今は、そのような間違いもなく「教科書には乗らない郷土の歴史」として正確に伝わってます。
そして、これを未来を受け継ぐ子供たちに伝えていくお手伝いが少しでも出来たらなあと考えています。

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