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沢石さわやか学級「三春の歴史講話会」 如是我聞 三春昭進堂 髙橋龍一





三春町生涯学習 沢石「さわやか学級」講話会があり、講師の依頼があり、三春の歴代藩主、そして「橋本正行と南朝」神社の御祭神(後醍醐天皇、御村上天皇、陸奥宮)。

そして、三春佐久間氏の系図等をお話ししました。


さすがに人生に先輩方です。

私の方が色々と教えていただきました。


ありがとうございました。


この講話も、地域貢献」の一環ですが、私が地元三春で健全経営の商いをさせていただけるのも先輩方のお陰だと持っています。


その観点からも、先輩方に感謝し、先輩方がその先輩、言うなれば先人から受け継がれてきたものを継承して次世代へ繋げる・・・そういうことが感謝の記しとしても自分なりの恩返しと仕事だと思っています。






沢石生涯学習「さわやか学級」講話会 如是我聞    於:沢石会館  R3.10.14   40名
                       

三春昭進堂 髙橋龍一


・ご挨拶 三春昭進堂の髙橋 四代目

セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう 
込木柳作 明治の終わりごろ 昭進堂は昭和元年に命名

・塵壺

平成3年3月~ 令和3年10月で363号 手配り300枚


・歴史への興味 

商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢

三春と云えなかった自分の反省から~

学校の先生からの^三春藩裏切り






・三春田村氏

三春田村家三代 義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石 郡山 岩瀬、

清顕急死 生首が飛ぶ 卯の刻参り女の殺害 磐城の由来 地デジ

・田村麻呂の末裔 平氏三春田村氏 藤原田村荘司田村氏 記録がなく一本化

・守山から田村大元神社 田村のお城・菩提寺福聚寺は日和田八丁目 

・阿武隈川東岸 本拠地 日和田・西田・阿久津・田村町・守山(江戸期守山藩領)

・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字 

・田村氏族 - - 奥州田村郡(磐城)の橋本村(下枝)より起こる。

田村義顕も橋本氏と云い、その弟 月斎100歳も橋本庄七郎と称す。  一関田村家文書
又、光大寺館(芦澤村の光大寺)は、田村氏の族 橋本修理亮、下枝館(御館村)は、橋本刑部少輔、田村氏の重臣 橋本明則、天文元年より住す、その子 定明なりと。

伊達成実記に「三春の家老 橋本紀伊、橋本刑部(顕法・徳)」とあり。
又、田村大膳太夫清顕の家臣に橋本時顕(荒和田)、橋本玄蕃(富澤)、橋本定・(鹿島館(高野村土棚)、橋本修理亮(芦澤)などあり。







・三春秋田氏 安倍・安東家
田村麻呂 阿弖流為 清水寺田村堂
安倍氏 安倍貞任 安倍首相先祖西へ 残留安東氏 
 大和朝廷 源義家 前九年の役 後三年
奥州藤原氏 清原家 平泉金色堂 ジパング(黄金の国)

安東氏  
 蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
 安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
 十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査

安東氏・湊氏  浪岡氏(青森浪岡町 北畠親房・顕家末)


・安東實季 妻五か国管領細川昭元の娘・円光院 
(織田信長妹お犬の娘)徳川三代家光の又従妹 吉兆細川家 細川護熙分家

応仁の乱 京都市内 東軍大将細川勝元 西軍 山名宗全 西陣由来 

若狭国小浜の羽賀寺建立 安藤水軍寄港地縁  

関ヶ原の戦いでは東軍方 領地拡大のチャンス 最上氏と敵対 強力な水軍保有

 家康から御咎め 

徳川幕府は、常陸佐竹氏(西軍・上杉氏と同盟)を 北日本海沿岸の秋田へ

出羽秋田四十九万石を宍戸五万に減封  水軍を取り上げ常陸宍戸へ 

不満噴出   本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘正室・家光の又従妹・強力な水軍? 
秋田城介官位から 生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿と娘を連れて 
伊勢名物 和漢胃腸薬『萬金丹』
『三重県薬業史』によれば、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉萬金丹」

実季の長男 秋田俊季公  
水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い






・高木神社 帝釈天

平安時代初頭の大同二年(有名寺社伝説の7割・田村麻呂・空海・徳一創設)、開山に法相宗徳一大師(磐梯山慧日寺・鷹巣薬師寺・天台宗最澄と仏教論争)を招いて、霊域“高野ヶ岡”に小祠を建立し、高木神勝軍地蔵の二社を勧請、「鶏足山豊前寺」を建立して、高野郷の鎮守としたとされています。


鎌倉時代末の南北朝期、南朝方の皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じた、奥州鎮守府将軍北畠陸奥守顕家公(浪岡氏先祖)が、白河結城氏と共に多賀国府へ下向の時、当地を通過する際、“村司・佐久間右京太夫が村人を集めて、御仮屋を造り郷食を奉じます。

義良親王は、御礼として御宸筆の御歌「徳實恩澤(トクジツオンタク)の利益」を下さり、以後この御歌を祭祀、御宮社を「帝爵天皇宮」としています。
その後も、神徳は継承され、戦国期南北朝動乱の初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村ノ庄(熊野大社領地・荘園)の総鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。

江戸期の秋田藩政下では、実沢村鎮守として継承され、明治維新後の廃仏毀釈で、高木神勝軍地蔵尊は金剛山瑞祥寺へ移し、新たに、高皇産霊命(高木神)を祭神して實澤村鎮守“高木神社”と改称されます

社殿に施された彫刻は稀に見る力作揃いで、拝殿外壁の欄間にはめ込まれた明治期の彫り物は、“日清・日露戦争や昭和初期の日独(第一次大戦)そして大東亜戦争での“武運長久”を祈念して奉納されたものです。
拝殿内にも、大東亜戦争時に奉納された軍艦の絵馬が飾られてあります。




・宮代神社

富沢村にある「宮代神社」は,旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。

 鎌倉末の南北朝期の三春地方は、田村氏が南朝方として最期まで奮戦

宇津峰山山頂(討つ宮) 祠 宇津峰カントリークラブ1番ホールと9ホールの間

宇都宮氏北朝方(宮を打つ)

南朝小山氏 小山氏の乱 田村荘司の乱

後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。

元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発したが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。






・三春佐久間氏 

実沢には、室町時代から戦国期には三春田村氏の出城である“田村四十八舘”の一つ、北方守護与力五十騎を統括する“実沢館”があり、城主実沢山城守が治めていました。
後に、北方守護は富沢舘の富沢氏となり、実沢佐久間氏が名主として治めます。

この佐久間氏の由来には諸説あります。
歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後に三春田村氏に仕官したとする説。

もう一つ、旧織田家家臣 柴田勝家の麾下与力佐久間玄蕃盛政(鬼玄葉)二男で、柴田家滅亡(親子の中が悪く)に、三春田村氏仕官し、田村の重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安(隼人正)の一族とする説等々・・・

・鷹巣堤屋敷 江戸期の庄屋佐久間又兵衛 

戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。

いづれにしても、三春田村氏が、戦国時代を乗り切るために、最も信頼する最強の精鋭部隊である佐久間一族を北方守護として配置したことには変わりはありません。
戦国期の終末、太閤秀吉による「奥羽仕置き・田村仕置」にて田村家の改易後は、知行地に帰農し、代々実沢村の名主・村司を勤めてきました。











田村四十八舘 

澤石村(三春町沢石)五舘跡



正楽舘 

舘主 渡邊雲龍斎




御舘

舘主 橋本玄蕃




長根舘 


舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住





臺(むろ)舘

舘主 佐久間豊後




新舘

舘主 某氏若狭







富沢 
 富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。
後に、田村家中が伊達派と相馬派に分裂した時に、富沢一族は、相馬派筆頭の小野保・小野城主田村梅雪斎に組し、小野城城代衆(三十六騎衆)と小野城下に移住します。

富沢氏移籍後は、実沢館( 実沢字開宝山)、実沢新館(実沢字館腰)主の佐久間氏が北方警備を司ります。

・江戸時代 旗本5千石秋田氏 富沢

・実沢地名の由来
大御神(義良親王・後の後村上天皇)の“徳實恩澤の利益”を感謝する意味を込めて實澤(実沢)としたと伝えられ、毎年この由来のとおり、徳實恩澤によって、五穀豊穣と世界平和があることへの、祈願と感謝で、村人総出の春秋の祭礼が挙行されています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話 「戦国時代三春田村氏と田村家臣団



三春町要田ひまわり学級での三春の歴史講話

要田地区の高齢者学級「ひまわり学級」様から、講話の依頼があり、三春の歴史「戦国時代三春田村氏と田村家臣団」と題してお話をさせていただきました。


新型コロナ感染拡大防止という観点から飲食の中止、ソーシャルディスタンス、アルコール消毒等の対策をしっかりとっての高齢者学級例会です。



中世 戦国期の三春城主田村「田村武士団」  2021.1.20 

於要田ひまわり学級 三春昭進堂 髙橋龍一


・麒麟が来る “戦の無い国造”  150年戦争 室町時代初期より 広義では平安末期の源平時代までさかのぼる

自分の領地・土地を守る 名主に頼る 税(米による年貢・兵役・人足・雑務)

近隣の地侍や山賊が襲ってくる


田村地方は、平安時代から室町初期までは熊野大社の荘園

管理官が藤原~田村荘司は藤原姓とみられていましたが~記載なく不明

戦国大名田村氏が平姓(平氏)ですので、もともと平姓だったと推測されます。
一説では室町末期の南北朝時代に下向した橋本一族との縁戚もあり田村氏を名乗った~

田村の領主 田村麻呂の末裔とする 田村家を名乗ることが領主の証?

・洞 (内) 約100年 三春築城以来 3代

三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。

田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。

・織田信長による農兵分離政策と豊臣秀吉の刀狩及び太閤検地
 「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。

三春秋田氏 転入 給料
田村氏 土着 地侍の集合 力関係

最終的に信頼できるのが、一族郎党の洞

 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。





 
戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。

 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

・三春田村家初代 義顕の奥方は、磐城氏より
・三春田村家2代 隆顕の奥方は、伊達氏より
・三春田村家3代 清顕の奥方は、相馬氏より

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。
しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。

 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。

 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。

宮田上洞・中洞・下洞





要田は、天正の三春城主田村清顕時代(約450年前)、熊耳館・熊耳太郎右エ門、笹山舘・笹山五郎右エ門の配下であった。

さらに、元禄11年寅(268年前)の秋田公時代の名主調べには、笹山-佐藤五左エ門、熊耳・岩崎長蔵、南成田-大内仁右エ門、荒和田-橋本善次右エ門とあり、その後天保15年には、南成田・橋本五郎左エ門から秋元四郎に変り、熊耳-安瀬半十郎、笹山-渡辺市郎治となっている。


鷹巣橋本氏~伊達に行かず三春に残った一族

・佐久間氏 佐久間信盛 比叡山・本願寺 末裔 宇賀神様 白山信仰 北陸の豪族

・青山氏 青山通り 旗本

・武田氏 武田信玄 弟の家系

・吉田氏 家臣 播磨赤松氏の一族常葉顕則

・真田幸村娘 片倉小十郎 白石城主 秋田家の墓

・秋田氏 安倍安東 十三湖 津軽 海賊 世界ペルシャ湾沿岸まで貿易
  三春初代の父實季 伊勢朝熊に蟄居 永松院墓所 

・浪岡氏・北畠顕家 青森

・荒木氏 先祖は、戦国丹波(兵庫県)を治めた荒木村重の一族 
薗部城(京都府園部町)主で荒木氏綱 光秀合力

・細川氏 応仁の乱総大将 細川勝元東陣 山名壮前 西陣の由来

・小野寺氏 桜田門 守衛三春小野寺 軍師小野寺慵斎三春脱藩明治期の書物
赤穂浪士小野寺十内 常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)二本松松下 加藤

・大高氏 まほら設計 赤穂浪士大高源吾

・大内氏
1588年(天正 16年)大内定綱帰参
伊達の脅威、会津葦名の脅威 天正十一年(1583)ころから、清顕の麾下に属していた大内定綱が本格的な反抗を開始するようになり、ついに定綱は二本松畠山氏を後楯として清顕と対立した。
以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返されたが、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。
ついに、清顕みずから兵を率いて塩松の千石森まで出馬して新城を構築した。対する大内勢も定綱みずからが出馬して、新城の城柵まで打ち破り、田村勢はここでもまた追い崩されてしまった。
相次ぐ大敗に清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとしたが、新田民部に諌められて三春へ退いたという。

天正 13年9月、 政宗の攻撃を受け会津に逃走した大内定綱は、 伊達家を離反する際、童名方から松本図書跡を与え、家老にとりたてるという約束であったが、領地どころか扶持米さえ与えられない状況にあったため、高野親兼をたのみ、政宗に再度奉公したいと願い出た。

葦名牽制に役立つとの判断で帰参が許された。天正 16年3月の事である。(郡山市史1p500)

田村荘司と小山氏
田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。

以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。

田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。
応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。おやま~こやまと称する

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
中郷さくらの会 歴史講演会 於三春の里 令和元年12月10日(火) 三春昭進堂 髙橋龍一




当三春昭進堂4代に亘ってお世話になっている中郷さくらの会さまより、「城下新町の家屋についている屋号について話してもらいたい」との依頼を受けまして三春城下の成り立ちと共にお話してまいりました。


私の親の世代の方々です。

もちろん、子供のころ顔見知りの方々ですので、緊張し中がらも温かく見守ってもらいながら話を聞いていただきました。



中郷さくらの会 歴史講演会   於三春の里 令和元年12月10日(火)
                      
三春昭進堂 髙橋龍一

1.三春城下の成り立ち
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り、築城したのが始まりと言われます。田村氏は義顕、隆顕、清顕の三代が三春城主としてこの城に拠った。
お城を中心に、北=北町 南=南町 新町=荒町 中町=蒲生2 大町(下大町)=蒲生
新南町(松下)=新町(秋田)

天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成「奥州仕置き」を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。
会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。
家光の代寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、これとは別に嘉明の次男、明利に三春三万石が与えられます。
その間にも城の改修や、町割りそして寺社の建設が進みました。

翌年には明利は二本松に移封され、松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年ほど幕領であったが翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部した。

町割りと修験堂寺院

三春城下の修験には大元帥明王別当学頭坊(山中・明王町)を筆頭に

1、華正院(荒町)馬頭観音堂
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町・王子権現)
5、般若寺(北町・天満宮別当)愛染堂
6、陽照寺(北町切通し)御本尊「阿弥陀如来坐像」は真照寺へ
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井・三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中・大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)西国三十三観音石仏 天澤寺へ
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)百杯宴石碑
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)後秋葉神社 水天宮 智法院屋敷
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、満徳院(丈六)
21、西福寺(中町)愛宕神社別当
22、大光寺(中町)愛宕神社別当 八幡山大光寺
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています
修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。

2.新町の成り立ち
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町(明王町・田村~蒲生)と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形だった。

大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。

真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水は入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。

3.セリ市場付近の屋号





資料参照

4.荒町(新町) 蒲生時代
明治になり、郭境門が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、昔から商工業が盛んなところでした。工業といっても、製糸工場、羽二重工場ですが、旧藩時代から明治大正にかけて盛んでした。
前の三春中学校敷地にあった三盛社は、当時女工150名を使って操業していて、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

街本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、馬頭観音等が立ち並び、寺町でした。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで参っていました。

この場合、町屋のものはその行列に遠慮して通り過ぎるのを待って墓参に行く有様でした。
お盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為です。

小浜海道口の方は、今の渋池の中ほどから、上り二折れしていた道を、先の三春中学校西側に沿うように道路を作り、交通の利便性を図って往来がスムーズになり繁昌していました。

馬頭観音は、古い由緒を持っています。戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。
小野の東堂山、堂坂(現小泉)と共に三観音(馬頭観音)と呼ばれ、庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

5.北町
三分坂 戦国期の三春城主田村公の直参旗本「不断衆」屋敷跡。
後の秋田公代には、藩主及び御城の近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」が屋敷を構えた。
宿直番衆は、昼夜問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せ支給されていたので三分坂と呼ばれたと伝えられている。
旧三春城登城口「天神橋口」
かつては、ここに防火用水と城防御のための、堀があり、この場所に橋がかかっていました。天神橋とは、昔北野天満宮(現北野神社)が、城内にありこの橋を通って領民がお参りに行ったところから名付けられました。
「亀井清水」 かつて、少し上に、郭境相馬海道口黒門があり、その行き帰りにのどを潤したといわれます。

6.八幡町
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。

飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。
八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

7.中町 蒲生
三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。
三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。

御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。
御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。
この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
江戸期秋田氏の時は旗本5千石代官屋敷

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。
大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。

旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。

このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。

新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

8.大町
伊賀屋山三渡辺商店 
第九十三国立銀行 初代頭取 渡邊甚十郎
本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見れます。

呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。
後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。
橋元柳平 明治末芹ヶ沢の田村競輪競馬場 清水馬場
三春狐~ 自由民権運動家弾圧とこの頃の三春藩営やっかみ! 二本松藩

 神田 春山 船田

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。
御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。
舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありましたが、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。
山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。

明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?
また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」



一般社団法人福島県建築士事務所協会 県中支部青年部研修会 「三春周辺歴史・建築探訪」


福島県建築士事務所協会 県中支部青年部は、株式会社村上設計取締役村上様を会長とする県中の設計事務所の青年部の方々が所属する会です。


同会相談役のエーユーエム構造設計株式会社の浜尾様よりご依頼がありまして、昨日、三春城下の寺社仏閣や歴史的建造物をご案内いたしました。

公私共にお世話になっている郡山市雲龍堂の阿部様からのご紹介を受けた浜尾様からの依頼ですので、少しでも三春城下を知っていただこうと快諾してご案内をした次第です。


当日は、15名の方の参加され、初めに真照寺住職山岸和尚様には真照寺の説明と真言密教式座禅の阿字観をご教授いただきました。

また、庚申坂弓町新地の旧妓楼の所有者河辺様には、妓楼内をご案内いただきました。

ありがとうございました。




以下は案内した場所となります。

1、真照寺 三春藩主秋田氏祈願所 午前8時~
真照寺山岸住職及び三春昭進堂髙橋による三春城下歴史概要・真照寺説明

・藩主御殿遺構 欄間・木戸
・弘法大師、興教大師木造
・古四王堂
・方丈池









2、庚申坂弓町新地 河辺邸  午前9時過ぎより見学可能






私自身も、旧遊郭である妓楼へお邪魔するのは初めてのことです。







私自身も楽しませていただきました。














大正年間に撮影された満開の瀧桜と娼妓が写った写真がありました。

桜木として初めて国の天然記念物に指定された大正11年の翌年の春だと思います。日本髪の庚申坂弓町新地遊郭の娼妓さんが写っています。






これは貴重な構図です。





そして、終戦後の進駐軍兵士登楼お断りの看板!






陶器の便器




三春乗合自動車開業のポスター





河辺さんの旦那様による補修・修復によって保存状態がよく保たれています。






玄関引き上げ大戸の傷跡



3、田村大元神社 三春藩藩内総鎮守 



・仁王門

・本殿 

・熊野宮・北野宮 


4、天澤寺 曹洞宗 


・伽藍・天邪鬼 

・身代わり地蔵尊 

・駆け込み寺  

・柿の木地蔵  

・お城山 秋田家慰霊塔 北畠浪岡氏 

・上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡

桜川沿い 

・百杯宴碑 


7、大町お祭通り ・磐州通り







7、三春文化伝承館 紫雲閣(現在立ち入り禁止)







座敷蔵「紫雲閣」は昨年から一部破損して居る為に現在立ち入り禁止となっていました。









盆過ぎとはいえ快晴の真夏日です。


暑い中お疲れさまでした。

また、メンバーの三条屋代表の宮川様とは幕末の長岡藩家老・軍事総統の河井蒼龍窟の話での楽しい情報交換をいただきありがとうございました。

これは別枠でもっとお話ししたいところです。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」~菓匠蒼龍
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」払拭学習会
                          
三春出身の郷土史研究家橋本捨五郎さんを講師に迎えて、表記のジャレ唄「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」の三春狐の由来払しょくのための勉強会が、三春町国際交流会主催でライスレイクの家で始めっています。

「今この根も葉もないじゃれ唄を払拭していかないと・・・・」との思いからの勉強会立ち上げとなりました。

私も講師の捨五郎さんや国際交流会の石川会長からお誘いを受けまして、先月から参加しています。

本日、その勉強会がありますが、わたくし所用のため欠席となりますので、先月の私の考えた発言内容を記載させていただきます。

以下は私の考える三春狐です。

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」
                          
髙橋龍一

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、意図的にただ勢いだけで流布された戯言的狂歌(ジャレ唄)・・・だと私は思っています。

1.三春町民の知識階級の方々には、高度成長期まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識しか無かったはず。

2.明治の自由民権運動初期には、三春人を見れば皆自由民権運動家の疑いをかけられていた時期がある。

3.明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

このじゃれ歌は、町民目線での歌=士族軽視

NHK「朝が来た」を見れば当時の藩御用商人が藩から受けた仕打ちがわかります。

武士の俸禄がコメで支給されそれをお金に両替して、さらにお金を藩に貸し付け、さんざん貸付金を棒引きした挙句に「戊辰の役」のために戦費を差し出します。

さらに、戊辰の役敗戦や明治維新、廃藩置県とともに長年の貸付金返済が不能になり、倒産した商家も少なくなかったはずです。

是ではこんな恨み言を盛りこんだ“じゃれ歌”を作っても“ばち”は当たらないでしょう・・・・


この詩をよくよく読み込んでみますと、

・三春狐(狐はお稲荷さんの使い)は三春藩を裏切ったと馬鹿にした歌ではなく。

・広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出し会津猪と揶揄された会津藩。

・二本松史観の解釈から出て来たであろう、ピョンピョン跳ねまるで了見違い棒(坊=世間知らずな子供)とまで揶揄された二本松藩
この両藩の戦争批判。

・そして奥羽列藩同盟の盟主伊達仙台藩の日和見主義への批判が読み取れます。
戊辰の役で、各藩士、町民さらには諸外国からの汚名を一番払拭したかったのは仙台藩ではなかったか?

それを三春狐に騙された=三春藩の裏切りと定義したのは、明治以降の三春の発展に対する会津や二本松の旧藩士ではなく、奥羽列藩同盟の盟主伊達藩からではなかったか?
 伊達仙台藩は戦後、越後長岡藩など奥羽越列藩同盟の戦費の各藩債権の返済を外国から迫られる。

・会津猪由来 
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。

・尚、長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから会津荘内同盟および奥羽列藩同盟(後に越後長岡)という虚構の構図が生まれます。

しかし、伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、三春町民すべてを対象として言われ続けることには違和感があります。

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」と思っていました。


三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |
「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於三春町老人クラブ連合会


「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於老人クラブ連合会

三春昭進堂主人 髙橋龍一

1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」

2.戦国以前
那智熊野権現大社の荘園・・領内にある熊野神社
・湯峰氏。熊野講中引導師・・・湯の峰温泉参拝の禊場(温泉)

 田村家の家臣・・・直参以外は田村庄司の配下(荘園の役人で各地より召集)

 ちなみに三春田村家は平姓、田村庄司家は、藤原姓とされてきましたが、その藤原姓の根拠となる資料が見当たらない。

近年の研究では、同じ平姓という見方もあります。

三春過足の上石家(親戚)、坂上田村麿の東征の途中、滞在した土地で子を作りその子に「上石」の姓を与えた。

福島県郡山市田村町金沢、中田町上石あり。宮崎県北諸県郡三股町樺山が本拠とされるが、兵庫県加東市上田(ウエダ)が本拠。
戦国時代末期、新潟県上越市にあって上杉謙信の家臣だったと伝える。




3.戦国田村氏・・・塵壺6月号参照
・戦国田村家・・・田村麻呂の末裔・平氏田村一族(南朝田村庄司一族とは異とされてきましたが近年の研究では同一視されています)
・田村麻呂・大和民族(渡来人末の父とアイヌ末の母から生まれた身長6尺のハーフ)

三春田村領の周辺には、北に伊達氏、岩代大内氏、西に会津蘆名氏、東に相馬氏、南に二階堂氏、佐竹氏、岩城氏などの戦国大名がひしめき合い度々侵攻が繰り返されていました。
 また、田村家の組織編制の上で、織田信長以前の中世的な全国の武将と同じく、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえ家中掌握が弱かったと考えられます。
そのために、独立性の強い在地領主層は、度々周辺の武将から調略を受け、各々が家名存続・自領安堵の為に、抵抗・離反が度々起こっていました。まさに「四面楚歌」の状態です。

・伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置)

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。




後に、愛姫が片倉家の白石に清顕の甥となる田村宗顕ら田村家宗家を呼び寄せ、その子である牛縊(うしくびり)定廣が、少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し、妻となったのが、真田幸村(信繁)の娘・阿菖蒲でした。

尚、この時伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家である田村宗顕・牛縊定廣の田村本家、はじめ御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など分家した11家(分家下士含めると28家)にとどまります。
※当時の分家とは、三春の自領地に親族をを残して伊達家へ仕官




4.安倍・安東家秋田家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・米造り弥生文化
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・安倍貞任・東和の旗まつり「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家に廃退より秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

・倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。
鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化
東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。
文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗は、元が負けることを想定していた?
鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい

5.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉
武士の給料は米で支給。経済はお金
・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・奇兵隊や幕府歩兵
その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化




6.戊辰戦争と三春・
・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 
会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われる。
会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)

旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ
旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ

7.会津戦争と三春・・・三春狐に騙された。

戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)
三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・最後執政秋田春季静臥と大原家(薩摩藩)


・三春藩銃砲組・・・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・・・・・・・・・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人


当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
筆頭家老西郷頼母、家老神保修理、秋月悌次郎等、戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、

狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

*明治後期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が棚倉城攻防戦での三春藩の撤退を記載しているのみ。
山川大蔵浩著「会津藩始末記」明治四十四年発行にも記載なし。

・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。
・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
・蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ
これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。

元禄以来、経済は貨幣が流通している・・武士の給金は米券で支給・・両替手数料
開国による品不足・物価上昇・・・庶民の暮らしの圧迫

伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?しかし、悪役が欲しい・・・・。

これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・
士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだしも、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのに違和感があります。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。
しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけ。

8.まとめ~三春に狐は居なかった!
・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ
・唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。


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三春物語938番「三春~教科書には載らない歴史」~於Ri2530地区三春ロータリークラブ例会


>Ri2530地区三春ロータリークラブ会長の増子博保さんから”三春ロータリークラブの木曜昼の例会で、三春の歴史について話してほしい”と云うことで、ご案内を受けました。

増子会長は、今年度の目標として「地域を知り、地域の貢献し、ロータリー仲間を増やそう!」というスローガンを掲げているそうです。
そのトップバッターとして私に白羽の矢が当たったという次第だそうで、ありがとうございます。。

お題は「三春のと戊辰戦争」ということでしたので、例の「三春狐」の払拭の絶好の機会到来とばかりに、歓び勇んでお邪魔させていただき、諸先輩を前にして大変恐縮でしたが、”おしゃべりな饅頭屋の一席”にお付き合い頂こうと、お話をさせていただきました。



このような機会を与えていただいたこと、三春ロータリーの皆様には、感謝申し上げます。

また、増子会長には、過分なるご紹介いただきました事、大変恐縮です。

エスコートしていただいた、永井さんには、様々な場面においていつも感謝いたします。

重ねて御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。




丁度この日は、友好ロータリークラブの茨城県八潮市の八潮ロータリークラブの方々のご臨席での卓話となりました。

先日、有楽町の帝国ホテルで行われた八潮ロータリークラブ40周年祝賀会の御礼だそうで、この人の輪と申しましょうか?交流の厚さと申しましょうか?絆なんでしょうね、ここにロータリークラブの意義、素晴らしさの断片を垣間た思いがいたします。

杉村会長はじめ八潮ロータリークラブの皆様には台風11号直撃の中のご訪問ありがとうございます。
貴重な経験をさせていただきました。

また、画像をいただきありがとうございます。早速使わせていただきました。

さらには、化粧用具のビューラー国内シェアは約70%、資生堂「マキアージュ」のビューラーは全て沼澤製作所の社長沼澤明夫さんもロータリータリアンとして来町され、お土産として持参していただいた「自社製八潮ロータリークラブ発足40周年記念」に製作されたビューラーを、当店女将と女性スタッフの分まで頂戴いたしました。

重ねて御礼を申し上げます。

尚、国際ロータリーの会長である田中作次さまが所属されています。
地域社会の為、世界の平和の為に世界中を駆け回り活動を続ける賢人は日本で3人目のリーダーとのことです。




本来であれば、諸先輩を前にしてジャケット着用で登壇すべきところなんでしょうか、饅頭屋として、歴史の語り手としていつもの作務衣で臨場させていただきました。

下記はその卓話の内容です。


「三春~教科書には載らない歴史」    於三春ロータリークラブ例会

三春昭進堂主人 髙橋龍一


1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」


2. 戦国田村氏・・・塵壺6月号参照

3. 秋田家安倍安東家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・・塵壺伊勢詣り
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家により秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。

鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化

東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。

文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗が元が負けることを想定していた?

鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい



おたりまんじゅうを食しながらのお茶での懇親会にて、杉村八潮会長と増子三春会長と3ショット

4.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉

 天皇は洛内(京都)や大和地方の一信仰の対象・・・江戸幕府が規定・・自ら犯す

開国・不平等な通商貿易
・米価本位の経済の破たん・欧米各国の脅威・飢饉

金・絹など西洋と貿易・・・金が安、銀が高・・欧米とのかけ離れ
金銀の交換比率は,日本では1:5,世界市場では1:15
外国商人は洋銀を日本に持ち込み,国内比価で金と交換し,暴利を貪った

輸出急増のため,国内は品不足 → 国内物価高騰物・・・・民衆の爆発・打ちこわしや一揆の続発、“ええじゃないか”

薩摩藩や長州藩などの西国諸藩・・・地場産業の開発や密貿易により現金収入

地場産業振興・輸送・・・北前船・
密貿易・・・・出島や沖縄・竹島・尖閣諸島等々

石見浜田藩(島根浜田市))・棚倉更迭・・ヤシの実でサッカー目付(スパイ)間宮林蔵に見つかる

「忠臣蔵」赤穂浪士の軍資金・・・塩売買・・・大量生産・遠方への輸送可能
・・・・・莫大な利益    小野寺十内秀和 (祖父十太夫は三春藩士)

「桜田門外の変」水戸浪士・・・こんにゃく農家から献金・・少ない

こんにゃく・・・長持ちしない江戸へ船で輸送
三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭 として「外桜田門御番所御当番」

水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士小野寺慵斎がいます。
・江戸城下水運の管理・彦根藩 運用税の値上げ~利益減少

・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・長州藩奇兵隊や幕府歩兵

その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化



5.戊辰戦争と三春・・塵壺秋田静臥

・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 

会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われるー会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

三春藩の協力・荷駄運搬のみ
・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
新政府軍・薩摩長州を中心とする西国諸藩は、振り上げたこぶしの落としどころとして会津をロックオン

勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)
旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ

旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ


八潮ロータリークラブの皆様

6.三春狐に騙された・

三春町民の知識階級の方々には、戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

鶴ヶ城落城後、会津藩士は青森斗南藩に事実上の流刑に処せられます。
しかしそれを不服としていた佐川官兵衛などは、警視庁が募集した不平士族鎮圧のための入庁し、西南戦争などで活躍しました。

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。・・・塵壺山三
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・・・これへの嫉妬と斗南移住の会津藩士や二本松藩士への怒りの矛先を他に向けるため意図して“風説の流布”を執行した。

・最後執政秋田静臥と大原家(薩摩藩)
・土佐藩と河野広道・広中
・三春藩銃砲組指南役
・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人

藩 名     石高 施条砲  大砲総数  後装銃数  旧式前装銃数   
三春藩      5.0    0     3       86       400       
二本松藩    10.1    2    12        0       60      
仙 伊達家   62.6   0     84      533      5,727     
米沢 上杉家  15.0    0     18      60      900     

当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」への理論的解明と改訂となっています。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・
尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

幕末戊辰の役・会津戦争で東北の大藩というだけで期待され、日和見的な態度が祟って、対岸の火の粉をかぶりしまし、一番損をしたのはどの藩かは、すぐにお分かりですよね?

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、ただ勢いだけで流布(風説の流布)された戯言的狂歌・・・だと私も思っています。
*明治初期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が「三春離反」を記載しているのみ.


・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、我を忘れ死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。


そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。
伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。

しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?
しかし、悪役が欲しい・・・・。

・さらに付け加えて、云わせていただけるならば、会津落城前、上杉米沢藩が降伏し、伊達仙台藩が降伏したころにできた“じゃれ唄”です。
これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのには違和感があります。

まして、会津人や二本松人でもなく、だた聞きかじりの無知、心無い方々や士族でもない町人の方々が、さも知っているの呈で、吹聴しているというのは、怒りや悲しさを通り越して、呆れてしまい、哀れに見えてきます。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材としては不足しないということかな・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。


しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎の「龍馬がゆく」や「峠」などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけでした。


昼食を食べて例会スタートです。

6.まとめ

・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ

・三春と云う名前は全国区

・三春昭進堂HP・菓子の宣伝は5パーセント
唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。

・三春昭進堂やおたりまんじゅうを全国ブランドにするのは気が遠くなるような労力が必要だが、三春と云う名前は全国ブランド・・滝桜は三春で一番の営業マン




三春昭進堂 髙橋龍一

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