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「私の体験秘録」厚木事件始末記 佐藤六郎 旧日本海軍大佐 




「私の体験秘録」 厚木事件始末記  旧日本海軍大佐  佐藤六郎 
              
          
三春昭進堂主人 髙橋龍一

1.はじめに

先日、カネサン書店渡辺康人社長から、母方の叔父である旧日本海軍大佐佐藤六郎(海軍機関学校 第三十一期生 現田村市芦沢出身)氏の戦時中の事柄を昭和50年代にまとめようと認められた文書の資料をお預かりいたしました。

大きな紙の袋に収められた多くの書類封筒を取り出す康人さんの手には「厚木事件」と記された封筒があります。

胸の高鳴りを抑えながら、おもむろにその封筒から中に入っている書類を取り出しますと「厚木事件」と記された紐綴じの黒いバインダーやその当時の事柄を記した資料がたくさん入っています。

それからは時間を忘れて夜更けまでその資料の分類や読み込み、資料照合等々・・


厚木航空隊事件

昭和20年8月30日。日本を占領統治する連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥が無事に厚木に降り立ちます。

この時、一発でも銃声が響いていたならば米軍の無血進駐は武力進駐へと一変し、戦後の日本の自由と繁栄はありえなかったでしょう。

その陰でこれからの日本の将来を憂い天皇制存続という国体維持のために命を懸けて働いた佐藤六郎海軍大佐や大安組安藤明社長など男たちの物語がありました。

この終戦直後の混乱期に起きた厚木航空隊の反乱、後に云う「厚木事件」の中で長年にわたり疑問?としてモヤモヤしていた事柄がクリアーになった感じです!

・小園司令の捕縛入院の真相
・小園司令徹底抗戦の真意
・破損戦闘機を飛行場へ投棄した犯人は?
・大安組安藤明氏の「天皇制護持」
・大安クラブの功罪
・佐藤六郎大佐へ厚木鎮圧の下名者は?
・佐藤六郎大佐と他の航空隊指揮官とのやり取りは?
・マッカーサー元帥の厚木進駐の真意は?
・マッカーサー襲撃の回避
等々・・・・


※海軍厚木基地の所在地は、神奈川県の厚木市にあるわけではなく、同じ神奈川でも綾瀬市と大和市の一部を含む約500haに及ぶ広大な敷地にあり、昭和16年に運用開始され終戦時には厚木海軍航空隊、相模野海軍航空隊(航空機の整備兵教育を担当する部隊)そして、高座海軍工廠(航空機の機体製造を行う工場)が設置され帝都防衛の主要基地となっていました。








2.「厚木事件始末記」


当該資料からの引用も含めた私の所見をまとめてみました。

後に「厚木航空隊反乱事件」「厚木事件」とよばれると厚木基地占拠は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏が決定され、玉音放送という終戦直後の混乱期に、GHQ総司令官マッカーサー元帥が進駐軍の先遣隊として厚木飛行場に降り立つ事を知った海軍将校の一部が、天皇制護持、天皇の戦争責任回避を求めて徹底抗戦を提唱し、武装解除して破壊した戦闘機の残骸で滑走路を封鎖し、米軍を迎え撃とうとしていた事件でした。

佐藤六郎海軍大佐は、有末精三陸軍中将が委員長、鎌田陸軍中将を副委員長とする厚木終戦連絡会より、小園大佐と同期で旧知の間柄ということで特命派遣委員に任命されます。

厚木航空隊の反乱決起鎮圧の協力要請を、厚木空中立派はもちろん他の日本陸・海軍の各部隊、警視庁、消防、行政など公の組織に求めますが、どこも動く気配はありません。

結局、佐藤大佐は、決死の覚悟で海軍の出入り業者であった大安組社長安藤明氏を伴って立った二人で、海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐以下の反乱軍が占拠した厚木基地の航空隊本部に乗り込みます。

佐藤大佐の手記によれば、当時、小園司令は徹底応戦派の幹部数名とともに野比海軍病院(精神病院・精神科病棟・現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センターか?)にて身柄拘束されて不在だったことが記されています。

そして、小園司令なき反乱部隊は、佐藤大佐らの説得が功を奏し武装蜂起を解除しつつあり、安藤氏は全国から仲間を集め、GHQ進駐妨害のために飛行場他基地内にバラまかれた戦闘機・爆撃機の残骸処理後に飛行場を整地してマッカーサー元帥率いるGHQ先遣隊(チャールズ・テンチ大佐指揮)の厚木進駐に間に合わせています。

今回拝見させていただいた資料は、海空会 日本海軍航空外史刊行会・編 昭和58年発行の「海空時報」別冊に寄稿された「私の体験秘録」(佐藤六郎・海軍機関学校 三一期)
及び 「戦後三十五年厚木事件を回想す」(佐藤六郎・三一期)「鎮魂と苦心の記録」海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会世話人 昭和56年7月発行の資料となります。

尚、資料の中には「厚木事件関係者の電話回答」昭和56年8月発行も含まれています。



佐藤六郎大佐の手記の中で、厚木事件の真相を公開する真意として小園氏と安藤氏に言及するに及んで、次のように述べています。

当時、何と云おうとも、小園大佐が悪く聞える事(悪く云われること)が我慢出来ませんでした。

私(佐藤大佐)と彼(小園大佐)との交友は同期生以上のもので、最後に厚木で逢えなかった事が誠に残念でした。

※ 別の本の序文には、厚木にて小園大佐説得の命令を受けた際に“万が一の時は、小園と刺し違いで死ね”の意を瞬間に感じとったと記されています。

また、大安組・大安クラブ代表の安藤明親分に対しては、晩年、零落しての最後が非常に憐れだったので、その偉大なる功を称えるために、その葬儀の席で弔詞を読み、厚木事件での彼の功績を公表したと記されていました。









3.厚木基地飛行場の現状回復と修復

天皇の戦争責任追及を回避し、国体護持を達成する為には、なんとしてもマッカーサー元帥の厚木進駐を成し遂げなくてはならない。

厚木基地には、当時は隣接する第一相模野飛行場や第二相模野飛行場もあり、現在の厚木基地の広さは後楽園球場約108個分とされていますが、当時の規模はもっと大きく、その広大な飛行場の滑走路や格納庫など基地の内部には破壊された零戦や雷電、彗星、彩雲、月光、銀河などの戦闘機や爆撃機など破壊された300機以上の機体の残骸が散乱し、人力での排除はさぞ困難であったろうと思います。

しかも広大な敷地の中に、徹底抗戦派の一部の兵士が潜んでいるかも知れず、護衛の戦闘部隊もなく、いつ攻撃されるか分からない緊迫した状況でしたが、佐藤大佐は、「これからの日本を支える者同士だ!日本人同士が撃ち合ってどうする!」「話せば解る!」と言って民間人である大安組の社員には武器の携帯を許しませんでした。

この様な状況の中で、命の危険を冒して滑走路の整備を請け負った大安組の社員は、貨物自動車やトラクター等約20両を使用して、250名程人員で戦闘機や爆撃機の残骸を厚木空格納庫の裏手にあった谷に投棄して埋め立てして飛行場を回復する作業を文字通り三日三晩不眠不休で通し続けました。

そして連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥率いる先遣隊到着の前日、8月27日午前8時、全ての飛行機が片づけられ、滑走路は使用可能となって到着時間ぎりぎりで受け入れ準備が完了して日本の危機は回避されました。

尚、この埋設した戦闘機の残骸は、一年後くらいに神奈川県庁からの命令で佐藤大佐(除隊後)が一時的に設立した会社「佐藤組」によって撤去されます。








4.連合国軍総司令部(GHQ)総司令官マッカーサー元帥厚木到着

厚木航空隊基地にマッカーサー元帥の乗るダグラスC-54B元帥専用機「バターン号」及び米軍の先遣部隊の十五機が飛来、先に着陸した先遣隊12~3機に乗務していた護衛の米軍海兵隊員は直ちに飛行場周辺に展開し日本軍の「ダマシ」打ちを警戒して、銃を身構えマッカーサー元帥の乗るバターン号の着陸を援護・護衛していました。

また、沖縄及び日本近海に米空母を中心とする攻撃部隊を待機させ護衛の空母艦載機数十機を攻撃態勢にて上空援護させて有事に備えていたようです。








私(佐藤大佐)は、之を望遠鏡で見て驚き、終戦連絡委員会の有末陸軍中将委員長に申し上げ、米軍の護衛隊指揮官を抑えるため交渉役を引き受けました。

「マッカーサー元師が来ていると思われたので、誰も通訳がいなかったが、文部省代表田中館秀三東北大教授(後東京大学教授)が引き受けてくれました。

私は白旗を自動車の窓から出して、田中館秀三東北大教授を伴って飛行場を横切り十五機の中央に向って突進しました。

そのときの気持は何とも云いません。

それを思うと「屈辱」「無念」「緊張」今でも悔しくて眠られなくなります。


と当時の心境が認められていました。






 
5.安藤組・大安クラブ代表 安藤明氏

安藤明氏は、この時の請負賃を元手に築地に「大安クラブ」を作り、会社の莫大な金を投資し、GHQの高級将校を連日のように接待し、天皇制護持を訴え、日本6分割案に反対していたと伝わっています。

 その後、大安組は最盛期には日本全国に十数か所の支店,従業員16万人をかかえる大会社となりますが、安藤明氏は後にGHQの高官を懐柔したとして逮捕され、住む家を追われます。

厚木基地の飛行場原状回復・破損戦闘機残骸廃棄物処理から大安クラブをもってGHQの将校を接待して「天皇制護持」「天皇戦犯論撤回」そして「日本列島分割(日本6分割案)回避」を働きかけ、ついには実現にこぎつけましたが、終戦直後の混乱期から戦後へと移行する昭和46年6月贈賄容疑でGHQに逮捕されました。

昭和35年8月15日の終戦記念日の日に、不遇な晩年を過ごし赤貧の中で60歳の生涯を閉じます。

これを哀れんだ佐藤氏は、昭和38年、青山斎場で行われた安藤明氏の葬儀で弔辞を拝読して初めて戦後期における安藤氏の人知れぬ功績を披瀝しました。








豊橋航空隊司令時代




近年、情報公開及び当該関係者の死去等により戦前から終戦という昭和の混乱期の解明が進み先にも厚木事件を取り上げたNHKの特別番組がありましたが、安藤氏は、正に時代に翻弄された人生だったのではないかと思います。

今日の日本は、戦後のドイツのように東西に分割されず、天皇陛下の元で一つの国として生きることが出来ました。

これも、佐藤六郎氏と安藤明氏のお陰であると日本人として忘れてはならない事柄だと思います。









6.海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐

一方、小園大佐は、1937年、支那事変(日中戦争)から、1941年(昭和16年)10月台湾の台南基地に新設された台南航空隊の副長兼飛行長に着任。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦後、台南空は戦線の南下に伴ってフィリピン、インドネシアを経てラバウルへ進出後、東部ニューギニア及びソロモン諸島に展開する米豪軍と戦った歴戦の司令官です。


 小園氏が司令長官を務めた海軍三〇二航空厚木航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る小園司令官の下に、総員5500名、稼働機170機、予備機300機、2年分の食料弾薬を備蓄しており、東日本最大最強の帝都上空防衛航空部隊です。


「厚木事件」は、玉音放送前夜に陸軍将校によるクーデター未遂となった「宮城事件」と共に、天皇の戦争責任追及回避、そして「天皇制護持」が確約されていないポツダム宣言受諾に反対して抗議のための決起で、天皇の命が脅かされる危険がある無条件降伏は、到底受け入れられることはできなかったのでしょう。


佐藤大佐はじめ、厚木鎮圧後に「抗命罪」で逮捕された小園大佐の「天皇制護持」の思いに基づく徹底抗戦の行動には、海軍や陸軍の内部にも共感される関係者はあったであろうと想像がつきます。


1946年11月大赦令により無期禁錮から禁錮二十年に減刑され、1950年9月特別上申により禁錮十年に減刑、12月熊本刑務所を仮釈放され、拘束から7年後の1952年、平和条約の発効のとき大赦令によって赦免されます。

釈放後は、故郷の鹿児島に帰り農業を営みながら余生を過ごされていましたが、1960年晩秋の頃に脳溢血で死去されました。享年58歳。







皇紀二千六百年特別観観式(昭和15年) 




7.佐藤六郎さんの記された「私の体験秘録」の一部をご紹介させていただきます。

海軍軍人として奉職25年。その内の20年間は海軍航空部隊で勤務しました。
その中で、特に私は選ばれたと思った事が度々あった。

一、先ず飛行艇で内南洋諸島をかけ巡り海軍の首脳を案内する事、之は私ならやれると自信があった。

二、私は、一度も教官になった事がないのに、最も重大なときにその教育の大改革の断行者に選ばれた。

三、鹿屋(後に豊橋) 部隊の中攻隊を率いて大苦戦のサイパン行きとなるぞと勇んでいた処、やった事もない生産関係に転任し然も大増産をやれと云うのであった。

四、そこで遂に終戦、此の度は愈々最後の転任即ち復員だったが、私は戦後処理なら何でもやりますと、残留を希望していた処何と、「厚木を片つけてマ元帥を迎えよ」と云う、誰でも厭う事を命ぜられた。
然し、「之は小薗を知る、俺が片つける」と自信を持って出発した。

尚本文中、敬称を略し当時の関係上官や部下だった方々の彻名前を無断拝借してありますが御寛容御願致します。

「マスコミ」には転載等を一切御断り致します。







今回の資料を拝読するに、佐藤六郎氏は戦前から終戦までプロの帝国海軍軍人として活躍された司令官であり、その人生を捧げ日本防衛の要として、さらには大戦末期の混乱期の中で最大の危機「厚木事件」を収束された近代日本の幕開けご尽力されたことに対して敬意と感謝を捧げたいと思います。

               
             拝






旧三春士族湊季松宅にて 親戚一同と記念写真



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:31 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋 |
祝令和元年 笠石八幡宮参詣 春商戦御礼




瀧桜も散り、観光のお客様、そして花見だんごも一段落した先日、時間を見て三春昭進堂の創業者でもある、おたりさんの生家旧根本村にある「笠石八幡宮」。

ひと月にわたる春の花見商戦大盛況御礼と端午の節句商戦における商売繁盛、そしてシーズン中の家内安全、身体無事を祈願に詣でました。







散り始めとはいえ満開の桜に中で参拝しました。

八幡様に感謝ですね。









参道に広がる古墳のような小山に植えられた桜たちも、若葉が生い茂りお天道様の日差しに、生命の有難さを満喫しているようにも見えます。

いつ行っても、心身を洗い流すような、爽やかな風が通り抜け、とても居心地の良い気持ちのいい場所です。

きっと、頑張って商いをしている私たちを”おたりさん”が褒めてくれているんでしょう。









おたりばあさんの亭主で、当三春昭進堂の創始者は髙橋民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。






子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。





髙橋タリの名前も見えます。




その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。







皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。








笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。







昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。








今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。





その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。





文久年間に別当東光寺住によって奉納された灯篭











当三春昭進堂は、お客様に新鮮で美味しいものを味わっていただくため、大量生産はせずに、ひとつひとつ心を込めて作っております。



当店の御菓子を召し上がっていただき、ホッと幸せなひとときを感じていただければと思っております。

そして、“御菓子もお店もスタッフも” 全てをお客様に受け入れていただけて、「また来店したい」と思っていただけるよう心掛けております。







湯殿山








下記の日程にて、花見~端午の節句商戦の代休として休業とさせていただきます。


5月7日(火)・8日(水)

5月13日(月)・14日(火)・15日(水



三春城下開花期間中、そして、ゴールデンウィーク期間中の定休日の代休となります。


お客様にはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願い致します。










春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
遠くの親戚はこころ強い親しい親戚! ご縁に感謝! 令和元年皐月




遠くの親戚もまた親戚!

花見のころに続いて埼玉の親戚にご来店いただきました。

大叔母である故萩元ギンちゃんの孫娘という間柄になります。


旦那さんと息子さんと共に福島までの日帰りドライブでのご来店です。


遠いところをありがとうございました!







先にこの娘さんとおたりさんの奇遇というか不思議な御縁がありました。

おたりばあさんの実家である根本近内家の長男が大学進学のために埼玉に住んでいました。

この長男のアルバイト先で「福島の饅頭だから」と差し入れがあり、よく見ると“おたりまんじゅう”です。

もちろん差し入れたのはこの孫娘さんです。

「三春昭進堂の~」と言うと、「なんでしているんだ」ということになったそうです。

この時は当人同士も話がつながらなかったみたいですが、後日両方の親からの聞き取りによって事態が呑み込めたみたいです。

福島出身者が多いとされる遠い埼玉のアルバイト先で、おたりさんの実家の息子さんと、おたりさんの娘の孫娘が、偶然にも会っていたというのはご縁としか言いようがありませんね。


この長男君はこの春卒業し家を継ぐために福島で就職し三春根本に帰ってきたそうです。






しかし、不思議なご縁があるもんですね!

そういうわけで、実はこの孫娘さんとは初対面なんですが、とても身近に感じる親せきです~


やはり、「遠くにいても親戚は親せき」ですね。


お母様の博美さんには時折おたりまんじゅうのご注文をいただいています。

「うちの三春のおばあちゃんの名前の付いたまんじゅうだよ~」と知人に配っていただいています。


ありがとうございます。








令和元年もいい年になりそうです。


またのご来店をお待ちしています!









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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”遠くにいても親戚は ありがたい親戚” ~ ご縁に感謝 平成30年・春爛漫





三春から離れた東京町田で暮らす祖父の従兄弟髙橋正吾(古人)の伴侶である髙橋シロちゃんとご家族様御一行様にご来店いただきました。

シロちゃんも三春城下北町の大久保家出身です。

今年92歳になるとお聞きしましたが、以前と変わらず温和で朗らかな笑顔で元気なお姿を見れてうれしく思います。








“遠くの親戚より、近くの〜〜“と世間では言うそうですが、当三春昭進堂をルーツとするご親戚の方々にお会いするのは実家を継ぐものとすればうれしいものです。


日ごろより、何かと気にかけていただいてるる大伯母さまです。

「龍ちゃんは、母ちゃんの園子さんに似て商売上手で、頑張っているなぁ~!」「郡山の哲夫(故人)おじちゃんも褒めていたよ。ありがとうね~」とのお褒めの言葉をいただきました。
こうして心配してるれる大伯母さまが居てくれる。
三春で頑張って商いをしていてよかったなあと、そして、涙が出るほどうれしく思います。








今回の三春訪問は、先に次女さんが息子さんと一緒にご来店され、その話を聞いたお母様が「私も三春に滝桜を見に行きたい~」ということで長女さんその息子さん、そして次女さんとご一緒に三春に帰省され滝桜を見ながら当三春昭進堂へご来店いただいたという次第です。


シロちゃんとは義理の甥っ子となる当家先代の父民夫も交えて少しの時間でしたが、兄弟である正吾さん(故人)の話など昔話に花が咲き楽しい時間を過ごさせていただきました。

花見の時期ですので商売が忙しいだろうとご配慮いただきありがとうございました。

また、お土産を頂き心より御礼申し上げます。


三春昭進堂四代目として益々頑張ります!









またのご来店を待ちしています。






追伸

後日、シロちゃんからお礼のお手紙が届きました。


ありがとうございました。








おたりまんじゅうの生みの親”タリ”さんの生家がある旧根本村の「笠石八幡宮」

シロちゃんのご主人である大叔父の正吾さんが出征の折に、母タリが武運長久・無事に帰還できることを祈念して石段整備に寄付したこを記した石板があります。






髙橋タリの名前も見えます。

偶然にも隣のご尊名は「三本木」様 


御縁でしょうか、シロちゃんの長女さんが三本木家に嫁いでいます。




当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。







子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。






その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。






皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。








笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。







昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。

今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。






その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。




春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍

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「私はおたりまんじゅうです」 三春昭進堂




昭和初期戦前の三春昭進堂


おたりさんの息子 髙橋正吾さんの出征の記念写真です。

民四郎さん、おたりさんの間に正吾さんが座っています。


柳作の髙橋家御本家や、従兄弟の方々も写真に納まっています。


橋長魚店の初代橋長」さんのお顔も見えます。


尚、最後列右から4番目のメガネの方は、私からは大叔父にあたる髙橋哲夫さんです。



昭和20年代



小さな城下町三春で「三春昭進堂」の四代目として和菓子屋を営んでいます。



昭和30年代


当店は、三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。



昭和50年代 

画面左の真照寺参道側に、左折れの松の古木があるのが見えますか?

店内の一部を真照寺参道を拝借していたものですから、この松の木が店内から生えているように見えていました。



この下り松は江戸時代から生えている老木で苔が生えています。
幹の太さは根元で1メートルは超えていました。

子供の頃は、よく幹に乗って遊んでいましたが、今思うとネバーエンディングストーリーにあった龍に乗って空を駆け巡っていたかに見えたのかもしれません。

敬慕する河井継之助にあやかり、今雅号としている「三春蒼龍」を彷彿つさせてくれます。

これも何かのご縁なのでしょうね〜〜。



昭和56年

新築した現店舗です。


商売の始まりは、明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に、売ろうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、おたり婆さんが造る三春名物「おたりまんじゅう」として三春内外の方々に親しまれています。



そして、現在の店舗です。
  



 私は おたりまんじゅうです
 
砂糖や甘いものがまだ貴重品であった頃 三春に産声を上げました

私を造ってくれた おたりばあさん に似たのでしょう 

色黒で、ちょっと不細工の私ですが 私に出会った人たちが笑顔になってくれます

いくつもの時代を超えても その笑顔が忘れられなくて 

元気な笑顔のお客様にお会いしたくて

そして 愛され続ける存在でありたい・・・

そう願い続けて 毎日蒸気の中で生まれています

お客様から 愛する方々へ 

幸せを届けて行きたいと願っています。

そう思いながら、今日もそして明日も元気に産声を上げつづけます


 創業明治中期 三春名物「おたりまんじゅう」本舗 
















冒頭にある写真、おたりさんの息子正吾さんの出征記念の写真とご紹介しましたが、御縁なのでしょうか?

先日、その正吾さんの娘さんとその息子さんにご来店いただきました。







このブログを4月初頭に掲載しようと予約投稿していた矢先でした。

私は初めてお会いしますが、なんとも不思議なご縁です。


やはり、遠い親戚ですが身内のお会いできるのはうれしいものですね!





春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:44 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
春の笠石八幡参詣 2018

(2018.4.12撮影)


瀧桜も散り、観光のお客様への花見だんごも一段落した先日、時間を見て三春昭進堂の創業者でもある、おたりさんの生家旧根本村にある「笠石八幡宮」。

ひと月にわたる春の花見商戦大盛況御礼と端午の節句商戦における商売繁盛、そしてシーズン中の無事を祈願に詣でました。







散り始めとはいえ初めて満開の桜に中で参拝しました。

八幡様に感謝ですね。


参道に広がる古墳のような小山に植えられた桜たちも、若葉が生い茂りお天道様の日差しに、生命の有難さを満喫しているようにも見えます。

いつ行っても、心身を洗い流すような、爽やかな風が通り抜け、とても居心地の良い気持ちのいい場所です。

きっと、頑張って商いをしている私たちを”おたりさん”が褒めてくれているんでしょう。






当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。






子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。





髙橋タリの名前も見えます。




その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。




皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。








笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。







昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。

今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。






その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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孫は可愛い!


“民さん”“民さん”と呼ばれる、私の父は今年の夏で満85歳を迎えます。

若いころより、自分は体が弱く長生きはしないと云いながら85です。

膝が痛い、腰が痛いとは言いながらも、いたって元気です。
たぶん「今が人生で一番楽しいんじゃないの?」と思えるくらいです。

高齢者免許更新手続きの葉書が届きました。
民さんは、葉書を見るたびに年寄り扱いしやがって!と息巻いていますが、85です。
75歳以上の予備検査必要なんです。

毎日、三春駅まで、大学生と高校生の孫たちの送迎、それも登校時間が違うために毎日二往復や、繁忙期での店の配達などの車運転をこなしています。


数年前に、カローラバンを軽自動車に替えたとき、軽自動車をバカにしていましたが、小回りが利くと気に入っていまるようすです。





自動車運転免許証は、昭和26,7年ごろの取得で、三春でも数十人しか保持者がいない頃の取得ですので、自慢の種です。

若い頃などは、療養を兼ねて東京荻窪のおばさんの家に居候をしながら、運送屋で三輪オートトラックの運転手をしていたり、三春へ帰郷後は、当時三春出身の代議士湊哲朗さんの運転手もしていたこともあり選挙の時の遊説や国会議事堂への送迎などしていたようです。


また、祖父との確執から一時郡山に所帯を持ち、タクシーの運転手をしていたこともあり運転には今でも自信があるみたいです。

普段の生活でも、束縛されるのが嫌いなのでしょう、隠居にて自分の身の回りのことなどは、すべて自分でこなし、悠々自適な暮らしを送っています。

しかし、孫は可愛いんでしょうね?

常に食卓の上には電車の時刻表があり、孫の送迎を頭に入れて生活のパターンを組み立てているようです。
とにかくこの孫たちが自慢で仕方がないらしく、友達にはありとあらゆる孫自慢をエンドレスで話しているみたいで、どれだけ孫が可愛いのか・・・・・。

最も、上の孫が幼稚園の頃ですから12年くらい前でしょうか、心筋梗塞をおこして隠居で苦しんでいたところをその孫に発見してもらい、九死に一生を得たということがありました。

以来、孫たちには命の恩人と云わんばかりに、孫中心の暮らしになっています。

しかし、末っ子の孫も、大学進学で現在は新潟です。

失業したなぁ~と言っていましたが、今度は・・・・






出産・子育て・育児休暇を終えた、スタッフの子供を一昨年の秋より約一年半の間、出勤時間は面倒を見てもらいました。

お客様や近所の方々からは本当の曾孫のように可愛がっている様子が微笑ましく映っていたみたいです。






毎日毎日一緒に過ごしてくれました。


この曾孫も、昨年晩秋より保育園に行くようになり、「またまた失業した~」と笑っていました。


御菓子 三春昭進堂 髙橋龍一




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