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”遠くにいても親戚は ありがたい親戚” ~ ご縁に感謝





三春から離れた東京町田で暮らす祖父の従兄弟髙橋正吾(古人)の伴侶である髙橋シロちゃんとご家族様御一行様にご来店いただきました。

シロちゃんも三春城下北町の大久保家出身です。

今年92歳になるとお聞きしましたが、以前と変わらず温和で朗らかな笑顔で元気なお姿を見れてうれしく思います。








“遠くの親戚より、近くの〜〜“と世間では言うそうですが、当三春昭進堂をルーツとするご親戚の方々にお会いするのは実家を継ぐものとすればうれしいものです。


日ごろより、何かと気にかけていただいてるる大伯母さまです。

「龍ちゃんは、母ちゃんの園子さんに似て商売上手で、頑張っているなぁ~!」「郡山の哲夫(故人)おじちゃんも褒めていたよ。ありがとうね~」とのお褒めの言葉をいただきました。
こうして心配してるれる大伯母さまが居てくれる。
三春で頑張って商いをしていてよかったなあと、そして、涙が出るほどうれしく思います。








今回の三春訪問は、先に次女さんが息子さんと一緒にご来店され、その話を聞いたお母様が「私も三春に滝桜を見に行きたい~」ということで長女さんその息子さん、そして次女さんとご一緒に三春に帰省され滝桜を見ながら当三春昭進堂へご来店いただいたという次第です。


シロちゃんとは義理の甥っ子となる当家先代の父民夫も交えて少しの時間でしたが、兄弟である正吾さん(故人)の話など昔話に花が咲き楽しい時間を過ごさせていただきました。

花見の時期ですので商売が忙しいだろうとご配慮いただきありがとうございました。

また、お土産を頂き心より御礼申し上げます。


三春昭進堂四代目として益々頑張ります!









またのご来店を待ちしています。






追伸

後日、シロちゃんからお礼のお手紙が届きました。


ありがとうございました。








おたりまんじゅうの生みの親”タリ”さんの生家がある旧根本村の「笠石八幡宮」

シロちゃんのご主人である大叔父の正吾さんが出征の折に、母タリが武運長久・無事に帰還できることを祈念して石段整備に寄付したこを記した石板があります。






髙橋タリの名前も見えます。

偶然にも隣のご尊名は「三本木」様 


御縁でしょうか、シロちゃんの長女さんが三本木家に嫁いでいます。




当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。







子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。






その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。






皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。








笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。







昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。

今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。






その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。




春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
「私はおたりまんじゅうです」 三春昭進堂




昭和初期戦前の三春昭進堂


おたりさんの息子 髙橋正吾さんの出征の記念写真です。

民四郎さん、おたりさんの間に正吾さんが座っています。


柳作の髙橋家御本家や、従兄弟の方々も写真に納まっています。


橋長魚店の初代橋長」さんのお顔も見えます。


尚、最後列右から4番目のメガネの方は、私からは大叔父にあたる髙橋哲夫さんです。



昭和20年代



小さな城下町三春で「三春昭進堂」の四代目として和菓子屋を営んでいます。



昭和30年代


当店は、三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。



昭和50年代 

画面左の真照寺参道側に、左折れの松の古木があるのが見えますか?

店内の一部を真照寺参道を拝借していたものですから、この松の木が店内から生えているように見えていました。



この下り松は江戸時代から生えている老木で苔が生えています。
幹の太さは根元で1メートルは超えていました。

子供の頃は、よく幹に乗って遊んでいましたが、今思うとネバーエンディングストーリーにあった龍に乗って空を駆け巡っていたかに見えたのかもしれません。

敬慕する河井継之助にあやかり、今雅号としている「三春蒼龍」を彷彿つさせてくれます。

これも何かのご縁なのでしょうね〜〜。



昭和56年

新築した現店舗です。


商売の始まりは、明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に、売ろうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、おたり婆さんが造る三春名物「おたりまんじゅう」として三春内外の方々に親しまれています。



そして、現在の店舗です。
  



 私は おたりまんじゅうです
 
砂糖や甘いものがまだ貴重品であった頃 三春に産声を上げました

私を造ってくれた おたりばあさん に似たのでしょう 

色黒で、ちょっと不細工の私ですが 私に出会った人たちが笑顔になってくれます

いくつもの時代を超えても その笑顔が忘れられなくて 

元気な笑顔のお客様にお会いしたくて

そして 愛され続ける存在でありたい・・・

そう願い続けて 毎日蒸気の中で生まれています

お客様から 愛する方々へ 

幸せを届けて行きたいと願っています。

そう思いながら、今日もそして明日も元気に産声を上げつづけます


 創業明治中期 三春名物「おたりまんじゅう」本舗 
















冒頭にある写真、おたりさんの息子正吾さんの出征記念の写真とご紹介しましたが、御縁なのでしょうか?

先日、その正吾さんの娘さんとその息子さんにご来店いただきました。







このブログを4月初頭に掲載しようと予約投稿していた矢先でした。

私は初めてお会いしますが、なんとも不思議なご縁です。


やはり、遠い親戚ですが身内のお会いできるのはうれしいものですね!





春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:44 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
春の笠石八幡参詣 2018

(2018.4.12撮影)


瀧桜も散り、観光のお客様への花見だんごも一段落した先日、時間を見て三春昭進堂の創業者でもある、おたりさんの生家旧根本村にある「笠石八幡宮」。

ひと月にわたる春の花見商戦大盛況御礼と端午の節句商戦における商売繁盛、そしてシーズン中の無事を祈願に詣でました。







散り始めとはいえ初めて満開の桜に中で参拝しました。

八幡様に感謝ですね。


参道に広がる古墳のような小山に植えられた桜たちも、若葉が生い茂りお天道様の日差しに、生命の有難さを満喫しているようにも見えます。

いつ行っても、心身を洗い流すような、爽やかな風が通り抜け、とても居心地の良い気持ちのいい場所です。

きっと、頑張って商いをしている私たちを”おたりさん”が褒めてくれているんでしょう。






当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。






子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。





髙橋タリの名前も見えます。




その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。




皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。








笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。







昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。

今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。






その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
三春物語642番「三春昭進堂」


昭和初期戦前の三春昭進堂

尚、最後列右から4番目のメガネの方は、私からは大叔父にあたる髙橋哲夫さんです。



昭和20年代



小さな城下町三春で「三春昭進堂」の四代目として和菓子屋を営んでいます。



昭和30年代


当店は、三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。



昭和50年代 

画面左の真照寺参道側に、左折れの松の古木があるのが見えますか?

店内の一部を真照寺参道を拝借していたものですから、この松の木が店内から生えているように見えていました。

この下り松は江戸時代から生えている老木で苔が生えています。
幹の太さは根元で1メートルは超えていました。

子供の頃は、よく幹に乗って遊んでいましたが、今思うとネバーエンディングストーリーにあった龍に乗って空を駆け巡っていたかに見えたのかもしれません。
敬慕する河井継之助にあやかり、今雅号としている「三春蒼龍」を彷彿つさせてくれます。
これも何かのご縁なのでしょうね〜〜。



昭和56年

新築した現店舗です。


商売の始まりは、明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に、売ろうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、おたり婆さんが造る三春名物「おたりまんじゅう」として三春内外の方々に親しまれています。



そして、現在の店舗です。
  
 私は おたりまんじゅうです
 
砂糖や甘いものがまだ貴重品であった頃 三春に産声を上げました

私を造ってくれた おたりばあさん に似たのでしょう 

色黒で、ちょっと不細工の私ですが 私に出会った人たちが笑顔になってくれます

いくつもの時代を超えても その笑顔が忘れられなくて 

元気な笑顔のお客様にお会いしたくて

そして 愛され続ける存在でありたい・・・

そう願い続けて 毎日蒸気の中で生まれています

お客様から 愛する方々へ 

幸せを届けて行きたいと願っています。

そう思いながら、今日もそして明日も元気に産声を上げつづけます


 創業明治中期 三春名物「おたりまんじゅう」本舗 




三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |
おたりさん家系図



当店の創業者“おたりさん”こと髙橋タリさんの実家である三春在根本の近内家当主近内一郎さんより、家系図のコピーをいただきました。

これは今から約28年前の三春ダム建設の際に、近内さんも含んだ数軒の共有地がありその権利放棄の為に当時の国土交通省が作成したものだそうです。





おたりさんの祖父である文政6年うまれの近内三内さん、キン(文政4年生まれ)夫妻から始まります。

その娘、近内ウノ(安政2年生まれ)とその婿三作夫妻、そして慶応元年生まれの近内三太郎と続いています。

この近内家は分家で、現当主からすれば7代続いているそうですが、本家は二十数代続くみたいです。


これは大変貴重です。




また、この本家近内さんの孫が現在首都圏の大学に通っていますが、そのバイト先のパートの方との話の中で、

出身地は?
福島の三春です。
え?私のおばあさんも三春なの!
といった、やり取りから偶然にも、当髙橋家から出た親戚筋同士ということが分かり、両人は勿論その親同士もびっくりしたという話をされていました。





これをご縁というんでしょうね?

驚きました。




根本笠石八幡宮


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




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三春物語824番「松明(たいまつ)あかし」田村臣柳作髙橋氏と二階堂臣髙橋氏



須賀川市翠ヶ丘公園の五老山で、11月9日(土)に行われた、日本三大火祭りの一つ、須賀川の「松明(たいまつ)あかし」

由来を辿れば、三春田村家や伊達政宗が浮かび上がってきます。
 天正17年(1589年)6月、伊達政宗率いる伊達勢は、会津黒川城(若松)城主芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城の攻略を企てます。
当時の須賀川城主は、気丈な女城主と近隣に知れ渡っていた二階堂盛義の後室“大乗院”で、政宗の伯母と云う関係でもありました。

また、伊達勢が攻撃した会津黒川城主芦名氏は、この大乗院の嫡子である盛隆が城主をしていたこともあって伊達に降伏することを由とはしませんでした。

これにより、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側にある陣場山に本陣を構え、二階堂氏のいる釈迦堂川を挟んで合戦が始まります。



 しかし、伊達勢対二階堂勢での形成は、多勢に無勢で絶対不利な状況。
その上、伊達に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守の裏切りにより、須賀川城はあえなく落城。


「松明あかし」は、この戦いで戦死した多くの人々の霊を弔うために行われるようになった行事です。

 尚、この五老山は、この戦いの7年前におこなわれた、二階堂氏対田村氏による合戦の和睦に由来します。
資料によると、天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が和睦の交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったところです。

尚、、確たる証拠は無く、想像の域を脱っしありませんが、三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏.
この時期に二階堂家家臣の髙橋氏(髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が見えます)が記録されていますが、当時、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の家臣である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、下級武士として合算・与力したのではないかと考えています。

戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の江戸幕府(徳川八代吉宗の頃か?)による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。



三春昭進堂 髙橋龍一


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三春物語724番「根本笠石八幡宮とオタリばあさん」


おたりまんじゅうを造った「おたりさん」は、滝桜の先にある根本集落の出身です。



この根本には、「根本八王子神社」や「笠石八幡宮」、そして田村三十三観音霊場の札所「光谷東光寺」があり、信仰の厚い郷です。


東光寺観音堂

春には、至る所で枝垂桜、八重桜、染井吉野、山桜が咲き乱れます。




 笠石八幡宮
柳橋海道から黒木に行く途中の集落の裏山にあります。
集落の庭先を抜けて山腹を登ったところに石の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。



社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出しています。
 岩には横に亀裂が入っているものがあり、それが結果的に「積み重ねた」ように見えます。

これを、笠をかぶせた様子に形容したのでしょう。
 



その参道に昭和十四年改築記念の寄付芳名石版があり、高橋タリの名前が読み取れました。



おたりさんが、五番目の息子の出征に無地を祈願して生まれ育った根本にある笠石八幡宮に寄付したものでしょう。
また皇紀二千六百年大慶記念の石碑には、母親の信仰を受け継いだのでしょう、おたりばあさんの長男で当店の先々代高橋伝造の名前も見えます。
 


根本の笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。



今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。
その巨石には
「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。
 



三春昭進堂 髙橋龍一


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