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越後長岡「河井継之助記念館」


先日、所用があり新潟県長岡市まで出張がありました。
長岡と云えば、幕末の長岡藩軍事総督河井継之助の故郷であり、活躍した場所です。

近年その生家跡に記念館が出来たと聞き及んでいましたが、なかなか行く機会に恵まれずにいました。



長岡へは、その生家跡や菩提寺、さらにはその足跡にゆかりのある場所などへは数回訪れたことはありましたが、この記念館は初めてです。



以前、長岡商工会議所の方々と会食した折に、”吉の川”を呑みながら、「河井継之助は、山本五十六と共にこの長岡の世界に誇れる宝です!」
「記念館の建設を行政とともに進めるべきだ!」「長岡の商人は何をしているんだ!」と随分と意気込んで話をしたことが懐かしく思い出されます。



長岡も、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。
さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。
後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。
大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。



河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。



尚、小泉純一郎の総理就任演説で「米百表」が取り上げられ急遽この記念館が出来たというくだりがあります。



河井継之助との出会いは、NHK大河ドラマ「花神」の中で、髙橋秀樹扮する長岡軍事総督河井継之助が、会津藩と薩長藩の間に入って調停を試みるというくだりがありました。
当時中学生だった私でも、田舎大名の家老風情が何を言っているのか?と疑問を持ってしまいました。



また、その世界情勢を見極めての発言や行動には感動したことを覚えていました。
さらには、その責任の取り方に「男」を見たような気がして以来です。
そして、平成元年に当三春昭進堂に就職して今後の方向性を模索していた時に、カネサン書店で司馬遼太郎著「峠」の上下巻との出会いが全ての始まりだったような気がします。




当店発行の「塵壺」は、河井継之助の遊学旅日記からとっています。


私の菓子職人や文筆名「蒼龍」も、河井継之助の雅号「蒼龍窟」からです。



三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 蒼龍窟 河井継之助 |
河井継之助記念館

只見にある河井継之助記念館がリニューアルした記事が昨日紙面を飾りました。
河井継之助とは?
当 「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」越後長岡藩家老 河井継之助
 「陽明学」の祖、王陽明の言葉に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」と言う言葉がある。心中の賊とは、自分の心に巣食っている弱気な、誘惑に流されやすいもう一人の自分のことである。
 この陽明の言葉を現代風に言えば、自分を律すること、つまり自己管理の必要性ということであろう。私たちは誘惑に乗りやすく、困難から目を背け、目先の快楽に逃れようとする弱い自分と同居している、当に真の敵は自分の心の中にいると言えます。
 この王陽明に傾倒し「朱子学」全盛の江戸末期、危険視されている「陽明学」によって己を律した人物に、越後長岡藩軍事総裁 河井継之助がいます。
 河井はひら藩士の身分から、家老職に大抜擢されると、行政改革に乗り出します。当時長岡藩は多額の借財に苦しんでいました。
 河井はそれまで、松山山田方谷や江戸昌平講など日本諸国を遊学し、蓄積した経済理論を実践して、短期間の間に長岡藩の財政を立て直したばかりではなく、当時の欧米に引けを取らない藩軍事力を保有するまでになりました。
 この改革の途中、多くの困難に直面しましたが、河井は先の王陽明の「心中の賊・・・」
を胸に、信念を持って改革を成し遂げました。
 河井の改革の師匠とも言うべき松山の山田方谷は、急速な改革を断行する河井にたいして、一つの忠告を与えたと言います。
「改革は、山の伐採と同じで、伐採が急速に進むと後の木は中々生えては来ないように、町や人心も、その改革の速度については来れない。急ぎすぎてはことを仕損じる。」

      合掌
 戊辰戦争に入り、河井率いる長岡藩は「武装中立」を唱え、薩長軍と会津藩の仲裁を画しますが、勢いに乗る薩長西軍は、それを聞かず戊辰戦争中の激戦北越戦争に突入にました。
 
sarani塵壺平成十八年11月号を参照下さい。
もう25年前ですが今の様な立派な記念館ではなく民間に付け足したような継之助終焉の間があった頃の思い出ですが、当時管理をしていた矢沢さん(継之助を見取った医者の末裔)に無理を行って天井を見ていたいと寝転んでいたら本当に夕方まで寝てしまったことを思い出します。
すぐ裏には、医王寺があり継之助の墓があります。
三春から、磐越道坂下インター経由で約2時間30分です。

| ryuichi | 21:13 | comments (0) | trackback (x) | 蒼龍窟 河井継之助 |