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三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。



三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。①

下記の内容です。

三春昭進堂で月ごとに発行している情報誌の名は「塵壺」である。
幕末の越後長岡藩家老河井継之助の遊学旅日記「塵壺」から名つけたとのこと。
素晴らしい命名と感動しました。

お願い①

この命名(経緯、思い等)について、もう少し教えてください。







 三春昭進堂「塵壺」 越後長岡藩非門閥家老河井継之助

三春昭進堂で毎月、発行している新聞折込チラシに「塵壷」というものがあります。三春・船引・中田・西田等15000部の折込です。

私が家業を継いで平成3年から発行しているチラシで341号を迎えます。

このチラシは単にお菓子の宣伝に限らず、四季折々の「三春の行事」紹介や三春の寺社仏閣・三春藩時代の歴史の紹介そして仏教のお話など、「如是我聞」と題して、コラムを掲載する手作りのチラシです。

この「塵壷」という名前の由来は、幕末の長岡藩士河井継之助が、安政六年に越後長岡藩の富国強兵、そして財政建て直しを学ぶべく、備中松名付けていますが、「如是我聞」の取材を通じて人生の諸先輩方やお客様から様々な事柄を学ぼうという気持ちから名付けました。






私と継之助との出会いは昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」でした。

司馬遼太郎原作の「花神」の中で、髙橋秀樹扮する長岡軍事総督河井継之助が、会津藩と薩長藩の間に入って調停を試みるというくだりがありました。
当時小学生だった私でも、田舎大名の家老風情が何を言っているのか?と疑問を持ってしまいました。





また、その世界情勢を見極めての発言や行動には感動したことを覚えていました。
さらには、その責任の取り方に「男」を見たような気がして以来です。






そして、平成元年に当三春昭進堂に就職して今後の方向性を模索していた時に、カネサン書店で司馬遼太郎著「峠」の上下巻との出会いが全ての始まりだったような気がします。

幕末の戊辰戦争で最大の激戦を繰り広げた北越戦争。田舎の小さな大名長岡藩牧野家、しかも一代限りの家老継之助が「永世中立」を唱え“会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す”という壮大な計画を企みます。

その交渉の場である「小千谷談判」が決裂し平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦う姿に“カッコイイ大人”と思った
のが始まりです。





長岡は、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。

さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。

後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。

大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。





昭和14年に山本五十六が母校の長岡高等学校で講演したときの言葉を紹介いたします。

私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し
将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願い申し上げます。 山本五十六

河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。






奥会津の只見町には立派な河井継之助記念館があります。

 北越戦争で薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど約三カ月に亘り激戦を繰り返す中、継之助が足に銃弾を受け重傷を負ってしまいます。
軍事総督が倒れた長岡藩は、抵抗むなしく敗走となり長岡から”八十里峠”を越えて会津若松城下を目指す途中、この只見・塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。






塩沢についた継之助は、追撃する西軍が迫る中、自身の死を悟り、下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を見つめながら息を引き取ったと小説「峠」では締めくくられています。

30年位前に私が初めて訪れた時には、まだ矢沢医師の子孫である強面のおじいさんが、只見ダム建設に伴う川増幅移転の際に「河井継之助終焉の間」を自宅横に移築して細々と個人記念館として開館していました。

遺品や説明のパネルが並ぶその「終焉の間」は、小説「峠」に在る河井の終焉の場面で、“矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~”という下りを真似して、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が思い出されます。






冬です。
毎年のことですが、雪の片づけをしていると司馬遼太郎の小説「峠」の一節を思い出します。

幕末の越後長岡藩牧野家の家老河井継之助を描いたその「峠」の中に,「雪が来る」そして「北国は損だ」という言葉が出てきます。

私も、北国に住む者として、司馬作品の中でも最高の文章表現だと思っている箇所の一つです。
さらに続きます。
・・・・北国では町中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。
が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。
・・・・(北国の人々は)鈍重で、折れ釘や石ころを呑めといわれればのんでしまう連中だ。のむ前はさすがにつらい。
つい大酒をくらう。大酒で勢いをつけ、唄でもうたって騒ぎ、いざのみこんでしまっては、ぼろぼろ涙をながしている。

これは、長岡だけではなく、北国の城下町に住む方々の独特な感覚でしょう。
正に的を得た表現だと思っています。







「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助
 幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩(現新潟県長岡市)軍事総督・非門別家老河井継之助を題材にした司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が「峠・最後のサムライ」のタイトルで映画化されます。監督は小泉堯史氏、2020年に全国公開。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役には松たか子、その他田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演します。

「峠 最後のサムライ」物語の舞台は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。
越後の譜代大名長岡藩牧野家は、継之助の指揮のもと藩行財政改革を断行して借財の返済、そして藩費貯蓄の増加を計ります。






また、当時世界で3門しかなかった最新鋭の「ガットリング砲(機関砲)」そして、元込式標準器付きの螺旋銃 「エンフィールド銃」等、世界でも類を見ない武器と調練によって最強の精鋭部隊を組織していました。

その武力を背景に内戦の無意味さを訴え永久武装中立を主張、そして戦争回避のために薩長土肥を中心とする西軍と会津藩を中心とする東軍の停戦調停の仲立ちを企てます。

しかし、東西両軍からの各種妨害工作によって結果的には東軍に加盟し西軍と対抗する道を選んだ継之助の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。

 この幕末明治初頭の混乱期、内戦の無益さと欧米列強の内政干渉による危機感、そして、国益損失を政治的に考えられたのは勝海舟と継之助だけだといわれています。

継之助は、独自の近代的な発想とその先見性をもって戊辰・明治の混乱が終わるまでは長岡藩七万四千石を、欧州におけるスイス国のように一つの中立国家として独立することを目指していました。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
司馬遼太郎著小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化発表‼




司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化することが発表されました。

監督は、小泉堯史氏監督。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役に松たか子はじめ、田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演しています。

1966~68年に毎日新聞で連載された司馬遼太郎原作の「峠」は、幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩家老・河井継之助を題材にした作品です。







私と河井継之助との出会いは約40年くらい前のNHK大河ドラマ「花神」の中に登場した髙橋秀樹さんの演じる河井が最初でした。

子供ながらに、田舎の小さな大名、それも一代限りの家老が、永世中立を称え「会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す」という壮大な夢に感銘を受け、さらに平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦うと・・・これがが始まりです。

それから、10年後カネサン書店で司馬遼太郎の「峠」上下巻に出会って衝撃を受けたことを覚えています。







「峠 最後のサムライ」

物語の舞台は、徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。幕末の動乱期を生き、最後には武士として、新政府軍と会津を中心とする奥羽列藩同盟の戦いの中。

長岡藩は、河井の指揮のもと行政改革を断行し借財の返済貯蓄の充実を図って、当時世界でも類を見ない最新式の武器と調練によって鍛えた兵士によって最強の軍隊を組織していました。

その武力を背景に永久武装中立を主張し、新政府軍と佐幕会津藩の仲立ちを買って出ます。

しかし、両軍からの妨害各種工作によって奥羽列藩同盟に加盟し新政府軍と対抗する道を選んだ河井の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。








田中と香川が継之助の両親である河井代右衛門、お貞、佐々木が継之助の盟友・小山良運、仲代が長岡藩先代藩主・牧野忠恭(雪堂)として登場する。

そのほか、坂東龍汰が良運の息子・小山正太郎、永山絢斗が継之助の従者・松蔵、芳根京子が旅籠屋の娘・むつを演じ、榎木孝明と渡辺大が、長岡藩士の川島億次郎&花輪求馬として出演します。







大名・松平定敬役の矢島健一、百姓の老人役の山本學、月泉和尚役の井川比佐志、徳川慶喜役の東出昌大、土佐藩士・岩村精一郎役の吉岡秀隆といった、そうそうたるメンバーが顔をそろえている。







「峠 最後のサムライ」は、9月中旬から約3カ月間、継之助の故郷・長岡市をはじめ、新潟を中心に茨城や京都での撮影を予定。
最も壮烈な「北越戦争」を描くため、約5000人規模のエキストラを募集する。

2020年に全国公開。








只見町にある「河井継之助記念館」です。

幕末、越後長岡(現新潟県長岡市)の非門別家老で”戊辰戦争”に際して、長岡藩軍事総督として長岡藩を率いて戦いました。
画像は、当時世界で3基しかなかった「ガットリング砲」と河井の銅像です。

何故只見町に長岡藩の家老の記念館?と不思議に思うかもしれませんが、薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど、戊辰戦争電の最大の激闘を繰り返し、約半年間にわたり善戦しましたが、自身も銃弾の倒れ大けがを負い、長岡藩の敗走となり、長岡から栃尾経由で”八十里峠越”を超えて会津若松を目指す途中、この只見の塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。







追撃する西軍が迫る中、死を悟り、河井は下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を観ながら息を引き取ったと司馬遼太郎の著書「峠」では締めくくられています。








火葬された河井の遺骨は、大きな部分は松蔵が会津へ運び埋葬され、後に長岡の河井家の菩提寺栄涼寺に改葬されます。

拾い残した遺骨は、村人が現記念館の東手にある医王寺に埋葬され、毎年命日の8月16日には慰霊の墓前祭が開催されています。







この只見の記念館とは、こんな立派な記念館が出来る30年位前にバイクで初めてお邪魔したのが最初でした。

その時は、まだ矢沢さんの子孫である強面のおじいさんが、河井終焉の間だけを只見ダム建設に伴うだ只見川増幅移転の際に移築して自宅兼用で細々と個人記念館として開館していました。

看板もお手製と思われるような粗末なものでしたが、河井継之助館主である矢沢さんの熱い想いには感服したことが思い出されます。








当時、遺品や説明のパネルが並ぶその終焉の間d、小説「峠」の中に在る河井の終焉の場面で、矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~という下りを思い出し、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が懐かしく思い出されます。








以来、時折お邪魔していますが、平成3年にこの記念館がオープン、そして平成20年にリニューアルして現在に至るです。

当店のチラシ「塵壺」も、「菓匠蒼龍」も、さらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助からというのは言うまでもありません。







以前、長岡市内に河井継之助の記念館がなかったころの話ですが、長岡の商人の方々と会食した折に”吉の川”を呑みながら、「河井継之助は、山本五十六と共にこの長岡の世界に誇れる宝です!」
「記念館の建設を行政とともに進めるべきだ!」「長岡の商人は何をしているんだ!」と随分と意気込んで話をしたことが懐かしく思い出されます。






長岡河井旧宅付近にある河井継之助記念館



長岡も、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。












さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。






後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。



大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。




山本五十六は、当時の欧米事情にも詳しく、戦略的に見て日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していました。

私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした。
あの精神をもって使命に従う。
軍縮は、世界平和、そして日本の安全のため、必ず成立させねばならぬらぬ。




世界海軍軍縮会議予備交渉に出席する際に、郷土長岡の先人河井継之助の小千谷談判を持ち出し友人に語った言葉








河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。







三島にある早戸温泉鶴の湯です。


只見で河井が没した後、若松を目指した長岡藩士が傷をいやしたといわれる温泉です。






悠久の流れが平和の象徴に思えてなりません。







”義をもって戦に臨んだ”と河井継之助を表する方がいますが、私はさにあらず司馬史観でいうところの河井継之助の学派陽明学の教えに則って”自分の為すべきことを為しただけ”だったんだろうともいます。


当時、内戦の国益としての損失を考えられたのは、勝海舟と河井継之助だけだといわれています。


義を義とするならば、その儀は武士として殿様や領民に尽くす忠義であって、佐幕や勤皇といった輩に対するものでは断じてないと思っています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
司馬遼太郎著小説「峠」 幕末越後長岡藩牧野家 家老河井継之助



このところの大雪と寒波の。
寒いのなんのって・・

その分、春を迎えた時の”ワクワク感”は格別なもので、桜の花がより綺麗に見えますよね。







毎年のことですが、雪の片づけをしていると司馬遼太郎の小説「峠」の一節を思い出します。

幕末の越後長岡藩牧野家の家老河井継之助を描いたその「峠」の中に,

「雪が来る」そして「北国は損だ」という言葉が出てきます。

私も、北国に住む者として、司馬作品の中でも最高の文章表現だと思っている箇所の一つです。

さらに続きます。
・・・・北国では町中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。
が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。

・・・・(北国の人々は)鈍重で、折れ釘や石ころを呑めといわれればのんでしまう連中だ。のむ前はさすがにつらい。
つい大酒をくらう。大酒で勢いをつけ、唄でもうたって騒ぎ、いざのみこんでしまっては、ぼろぼろ涙をながしている。








これは、長岡だけではなく、北国の城下町に住む方々の独特な感覚でしょう。
正に的を得た表現だと思っています。






兎にも角にも、“雪”とのお付き合いは、北国に住む者の宿命です。
あまり気張らず、気長に付き合いたいと思います。

それにしても、雪の片付けでは、その家固有の性格が出てきますよね・・・

道路に出すのだけはやめてくださいね。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
奥会津只見「河井継之助記念館」


”世界で最も美しい村”に認定された只見町にある「河井継之助記念館」です。

幕末、越後長岡(現新潟県長岡市)の非門別家老で”戊辰戦争”に際して、長岡藩軍事総督として長岡藩を率いて戦いました。
画像は、当時世界で3基しかなかった「ガットリング砲」と河井の銅像です。



何故只見町に長岡藩の家老の記念館?と不思議に思うかもしれませんが、薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど、戊辰戦争電の最大の激闘を繰り返し、約半年間にわたり善戦しましたが、自身も銃弾の倒れ大けがを負い、長岡藩の敗走となり、長岡から栃尾経由で”八十里峠越”を超えて会津若松を目指す途中、この只見の塩沢の医師,矢沢宗益宅で亡くなりました。



追撃する西軍が迫る中、死を悟り、河井は下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を観ながら息を引き取ったと司馬遼太郎の著書「峠」では締めくくられています。



火葬された河井の遺骨は、大きな部分は松蔵が会津へ運び埋葬され、後に長岡の河井家の菩提寺栄涼寺に改葬されます。
拾い残した遺骨は、村人が現記念館の東手にある医王寺に埋葬され、毎年命日の8月16日には慰霊の墓前祭が開催されています。



私と河井継之助との出会いは約40年くらい前のNHK大河ドラマ「花神」の中に登場した髙橋秀樹さんの演じる河井が最初でした。
子供ながらに、田舎の小さな大名、それも一代限りの家老が、永世中立を称え「会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す」という壮大な夢に感銘を受け、さらに平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦うと・・・これがが始まりです。

それから、10年後カネサン書店で司馬遼太郎の「峠」上下巻に出会って衝撃を受けたことを覚えています。



この只見の記念館とは、こんな立派な記念館が出来る、30年位前にバイクで初めてお邪魔したのが最初でした。

その時は、まだ矢沢さんの子孫である強面のおじいさんが細々と個人記念館として開館していました。
看板もお手製と思われるような粗末なものでしたが、河井継之助館主である矢沢さんの熱い想いには感服したことが思い出されます。



当時、遺品や説明のパネルが並ぶその終焉の間d、小説「峠」の中に在る河井の終焉の場面で、矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~という下りを思い出し、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が懐かしく思い出されます。




以来、時折お邪魔していますが、平成3年にこの記念館がオープン、そして平成20年にリニューアルして現在に至るです。

当店のチラシ「塵壺」も、「菓匠蒼龍」も、さらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助からというのは言うまでもありません。



記念館内にある司馬遼太郎ブースです。



三春昭進堂 髙橋龍一



| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
越後長岡「河井継之助記念館」


先日、所用があり新潟県長岡市まで出張がありました。
長岡と云えば、幕末の長岡藩軍事総督河井継之助の故郷であり、活躍した場所です。

近年その生家跡に記念館が出来たと聞き及んでいましたが、なかなか行く機会に恵まれずにいました。



長岡へは、その生家跡や菩提寺、さらにはその足跡にゆかりのある場所などへは数回訪れたことはありましたが、この記念館は初めてです。



以前、長岡商工会議所の方々と会食した折に、”吉の川”を呑みながら、「河井継之助は、山本五十六と共にこの長岡の世界に誇れる宝です!」
「記念館の建設を行政とともに進めるべきだ!」「長岡の商人は何をしているんだ!」と随分と意気込んで話をしたことが懐かしく思い出されます。



長岡も、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。
さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。
後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。
大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。



河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。



尚、小泉純一郎の総理就任演説で「米百表」が取り上げられ急遽この記念館が出来たというくだりがあります。



河井継之助との出会いは、NHK大河ドラマ「花神」の中で、髙橋秀樹扮する長岡軍事総督河井継之助が、会津藩と薩長藩の間に入って調停を試みるというくだりがありました。
当時中学生だった私でも、田舎大名の家老風情が何を言っているのか?と疑問を持ってしまいました。



また、その世界情勢を見極めての発言や行動には感動したことを覚えていました。
さらには、その責任の取り方に「男」を見たような気がして以来です。
そして、平成元年に当三春昭進堂に就職して今後の方向性を模索していた時に、カネサン書店で司馬遼太郎著「峠」の上下巻との出会いが全ての始まりだったような気がします。




当店発行の「塵壺」は、河井継之助の遊学旅日記からとっています。


私の菓子職人や文筆名「蒼龍」も、河井継之助の雅号「蒼龍窟」からです。



三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
河井継之助記念館

只見にある河井継之助記念館がリニューアルした記事が昨日紙面を飾りました。
河井継之助とは?
当 「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」越後長岡藩家老 河井継之助
 「陽明学」の祖、王陽明の言葉に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」と言う言葉がある。心中の賊とは、自分の心に巣食っている弱気な、誘惑に流されやすいもう一人の自分のことである。
 この陽明の言葉を現代風に言えば、自分を律すること、つまり自己管理の必要性ということであろう。私たちは誘惑に乗りやすく、困難から目を背け、目先の快楽に逃れようとする弱い自分と同居している、当に真の敵は自分の心の中にいると言えます。
 この王陽明に傾倒し「朱子学」全盛の江戸末期、危険視されている「陽明学」によって己を律した人物に、越後長岡藩軍事総裁 河井継之助がいます。
 河井はひら藩士の身分から、家老職に大抜擢されると、行政改革に乗り出します。当時長岡藩は多額の借財に苦しんでいました。
 河井はそれまで、松山山田方谷や江戸昌平講など日本諸国を遊学し、蓄積した経済理論を実践して、短期間の間に長岡藩の財政を立て直したばかりではなく、当時の欧米に引けを取らない藩軍事力を保有するまでになりました。
 この改革の途中、多くの困難に直面しましたが、河井は先の王陽明の「心中の賊・・・」
を胸に、信念を持って改革を成し遂げました。
 河井の改革の師匠とも言うべき松山の山田方谷は、急速な改革を断行する河井にたいして、一つの忠告を与えたと言います。
「改革は、山の伐採と同じで、伐採が急速に進むと後の木は中々生えては来ないように、町や人心も、その改革の速度については来れない。急ぎすぎてはことを仕損じる。」

      合掌
 戊辰戦争に入り、河井率いる長岡藩は「武装中立」を唱え、薩長軍と会津藩の仲裁を画しますが、勢いに乗る薩長西軍は、それを聞かず戊辰戦争中の激戦北越戦争に突入にました。
 
sarani塵壺平成十八年11月号を参照下さい。
もう25年前ですが今の様な立派な記念館ではなく民間に付け足したような継之助終焉の間があった頃の思い出ですが、当時管理をしていた矢沢さん(継之助を見取った医者の末裔)に無理を行って天井を見ていたいと寝転んでいたら本当に夕方まで寝てしまったことを思い出します。
すぐ裏には、医王寺があり継之助の墓があります。
三春から、磐越道坂下インター経由で約2時間30分です。

| ryuichi | 21:13 | comments (0) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |