2020-08-25 Tue
地蔵盆「身代わり地蔵尊祭礼」
本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員の実の法要で執り行います。
三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、の残る「身代り地蔵尊」堂です。
地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。
大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。
古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。
「身代わり地蔵尊」天澤寺山内 信ずる者に助けあり
天沢寺(三春町字清水)に「山椒大夫物語」で知られる安寿と厨子王にまつわる身代わり地蔵尊が安置されている。(岩城実記によれば万寿姫と医王丸、以下これによる)
身代わり地蔵の話は、仏教の教えを説く説経が原型といわれ、安寿姫と厨子王の悲しい物語は、中世以来たびたび小説や演劇の題材とされ、人々に親しまれてきた。
謀略により筑紫に流された父、陸奥太守を訪ねる旅の途上だった安寿姫、厨子王とその母は、人買いの山岡太夫により母は佐渡に、姉弟は由良の山椒太夫に売られる。
由良で二人は山椒太夫に使われ、安寿姫は浜に潮くみに、厨子王は山にしば刈りに出る日々が続く。
そんな中、二人は逃亡を図り失敗、罰として焼き印を押されたはずが、厨子王が持っていた地蔵が身代わりになる。
天澤寺山内にある身代わり地蔵堂にはに木造地蔵菩薩座像は、安寿と厨子王姉弟の代わりに焼き印を受けた地蔵と伝えられ「身代わり地蔵」とも呼ばれている。
これにあやかり、古より三春城下では「身代わり信仰」として、災厄やお産など、ことあるごとに身代わり地蔵に参拝する習わしがあったとされています。
晩年は本国奥州に帰り、死後岩手山大明神として崇められている。
また、万寿姫の霊魂は岩城山大権現の神号をもって陸奥岩木山(津軽富士)に祀られている。
天沢寺身代り地蔵菩薩はこの医王丸の守本尊で、岩城を経て三春伝えられたといわれる。
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。
今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2020-07-28 Tue
亀井 光岩寺 松下長綱公御母堂様の墓
三春城下北町末、亀井に亀井清水井戸があります。
その井戸を蔽う竹林の坂道を上ると、今は荒廃してしまいましたが光岩寺の堂宇址があります。
堂宇西側の山内に苔むした三春城主松下長綱公の御母堂の墓があり「月照院殿円宝宗弧大姉」と戒名が刻まれています。
松下長綱公は、江戸時代初期の三春城主で、その御母堂様は、当時の会津藩主加藤嘉明の息女で、父である重綱の正室でした。
加藤氏は、古い家柄で、鎮守府将軍利仁の末裔とされています。
はじめ甲斐の武田氏に仕え、後に三河に移って徳川譜代の臣となりますが、永禄七年、祖父教明の時に一向宗の乱があり、三河を去って尾張に赴き、当時の羽柴秀吉に仕えることになります。
教明の子嘉明は、秀吉子飼いの武将と称される“賤ヶ岳七本槍”の一人で、伊予松山城四十三万石から、秀吉の命で北の要である会津四十五万石に移されたのは、寛永四年二月のことでした。
これと共に、三春領は三万石として、嘉明の二男明利が入城します。
それが、翌寛文五年には二本松へ移され明利の後任として、二本松より嘉明の息女月照院殿を母に持つ松下長綱が三春城主となり御母堂を伴って入城します。
松下氏は源氏、名高い佐々木高綱の子孫で、碧海郡松下(現愛知県)に住み、松下と称します。
松下嘉兵衛之綱の孫が重綱で、寛文四年に下野国烏山藩(栃木)から二本松五万石(当時)に移されて死去、同年長綱が家禄を継ぎますが、短慮で暴政を敷いたとして二本松領民に幕府に訴えられ、減俸され三万石にとして三春へ転封されたと伝わっています。
三春城主として長綱は、三春城の石垣を築き、明治維新まで残る城下町整備などを施策しますが、正保元年に狂人となったという理由により、城地召し上げの上改易となります。
長綱は、舅である土佐の松下忠義に預けられますが、松下家の菩提寺州伝寺ですが、御母堂様の供養寺光岩寺に墓はそのまま残りました。

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2020-05-30 Sat
【7daysブックカバーチャレンジ】 7Day 最終日
「最後の説法」大地玄亀老師 三春州伝寺前住職 故石龍正孝木堂編集
この本は、三春藩主松下家菩提寺州伝寺第三十二世住持、即妙大地玄亀和尚の浅草曹源寺での接心、最後の説法を玄亀和尚の弟子である州伝寺第三十三世故石龍木堂和尚がまとめられた貴重な本です。
前住職石龍木堂和尚がご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。
タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものです。
この本を拝読していますと、心の仏教・禅を追う求める姿、そして、人に広める姿に、心の仏教者の真の姿を見るようです。
http://otarimanjyu.com/blog/index.php?e=122
天翁山州傳寺歴住大和尚
三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。
山号・寺号
祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士
父 州傳寺殿永厳長譽大居士
歴住大和尚
開山 勝岩長全大和尚
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂
二世 雲州元龍大和尚
三世 海岸道吞大和尚
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂
四世 斧山龍大和尚
末寺船引照光寺を開山
五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世
六世 釼室雲利大和尚
七世 大祐元慶大和尚
八世 綴山寛補大和尚
九世 中興 一輪通禅大和尚
元禄十五年(一七〇二)寺院再建
十世 悦山易禅大和尚
十一世 享天始元大和尚
十二世 中興 寶厳興隆大和尚
元禄四年越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂
十三世 天随口音大和尚
十四世 蜜岩単隆大和尚
十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂
十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山
十七世 洞雲全岩大和尚
十八世 東州智海大和尚
十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭
二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山
二十一世 佛智大康大和尚
二十二世 大応玉仙大和尚
二十三世 梥屋慶音大和尚
二十四世 玉掌珍了大和尚
二十五世 桐宗恵文大和尚
二十六世 天外田龍大和尚
二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)
二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)
二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)
三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂
三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂
三十二世 即如玄亀大和尚
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)
三十三世 現住 木童正孝衲
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修
三十四世 現住
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2018-08-23 Thu
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり
子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。
わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。
やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。
一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。
私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。
その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。
そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。
後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。
その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。
地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。
お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。
「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2017-01-09 Mon

天沢寺炎上
三春城下清水にある天沢寺は、江戸初期の三春城主松下石見守長綱の時代には恵下谷(現三春城下南町の会下谷)にありました。
或る時、松下家の行く末を案じた忠臣が、殿様の常軌を逸脱した日頃の言動を諫めようとして進言します。
しかし、松下石見守は、家来の無礼を憤り、之れを手打にしようとして刀を抜きはらいます。
其臣は、周囲の者に引き立てられ、慌てて逃れ、菩提寺である天沢寺に匿れ、時の和尚は、これを庇護します。
和尚に、引き渡しを下命しますが、これを拒否し、石見守の態度を戒め、政務を批判します。
石見守、益々怒って手勢を率いて天澤寺の伽藍を焼払ってしまいます。
この暴挙に対し、曹洞宗本山総持寺や永平寺ともつながりの強い和尙は、“城主狂乱”と公儀幕府に訴えでます。
早速公儀取り調べがあり、その他暴政も含めて乱心の廉で松下家の御家継断絶となります。

現在の天沢寺は、慶安年間に三春城下清水の創建されます。
かつてこの天澤寺があった場所の南の高台に、葛尾村住宅「恵下越団地」が整備されています。国道288号バイパスにも看板が立っていますが、恵下越?と三春の方でも初めて目にする地名ではないかと思います。
この恵下越の地名は、上記の天澤寺に由来します。
”恵下(えげ)”とは高名なお坊さんに教えを乞うために会(参禅)するという意味。
訂正
影山常次著「田村小史」参照としていましたが誤りでした。
記憶違いの中ですが、口伝もあります。
しかし、その出典は相馬家の文書か土佐山内家の文書を引用して江戸期に書かれた「大名廃絶録」類の書物からと思われます。
現在その書物(書類)を探索中です。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2016-12-20 Tue
三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「天翁山州傳寺」
三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップが始まりました。
12月25日(日)まで
曹洞宗天翁山州傳寺は、江戸初期悲劇の三春城主松下石見守長綱が三春入府の際、二本松より移した寺で、重綱公、長綱公、豊綱公と松下家三代の位牌所です。
松下石見守長綱公は三春在籍十七年の間に、最後の戦国大名として三春城や城下町を整備して、現在の城下町三春の基礎を築いたと言われます。
長綱公は豊臣秀吉が日吉丸と名乗る十六の頃、最初に使えた松下加兵衛之綱の孫で、初期徳川幕府にとっては、他の豊臣恩顧の大名と同じく目障りな存在であり、理不尽な理由を徳川幕府より押し付けられ、改易の憂き目に合いました。
その後、江戸時代秋田家藩政下では先の領主菩提寺として厚遇され、全国的に有名な名僧高僧が在籍し、歴代住職への曹洞宗永平寺・総持寺両本山並びに関三箇寺から要職の下命等があり、管内の由緒ある寺院として「録所」を勤めました、また歴代住職の下へ、徳を慕いその教えを乞いに全国から雲水が参禅し、片法憧(格地)、東北の禅修業道場として名を馳せました。
近年に於いても、先の住職大地玄亀老師や、その弟子現住職石龍木童和尚が在籍し、この三春で禅宗の要として人々を導いておられます。
また丈六仏と呼ばれる御本尊の木像阿弥陀如来坐像は、坂上田村麻呂東夷追討に由来し、鎌倉期作とみられます、その昔郡山赤沼に安置され、戦国期田村氏三春入府に伴い、三春町丈六、廃寺万徳寺へ移り、その後丈六堂へ移り、明治期に州伝寺に移された仏像で、その長い歴史の中で、火災や様々な災難に遭遇しながらも、現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。
州傳寺の玄関に「照顧脚下」の墨跡を見つけました、「脚下を照顧せよ」自分の足元を見よ、つまり自分自身をよく見つめなさいと言う教えです。
山内には一時地蔵があり、子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親達の信仰を集め、八月二十四日には“みたま祭り“が開かれます。
「拝む手から 一家円満の ひかりかがやく」 州伝寺立て札より
三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚
「最後の説法」大地玄亀 前州伝寺住職故石龍正孝老師著(非売品)
この本は、即妙玄亀大和尚の接心での最後の説法を故石龍木堂老師がまとめられた貴重な本です。
前住職石龍和尚ご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。
「最期の説法」は老師が東京都台東区浅草松葉町曹源寺内曹玄窟で遷化される直前に門弟のために病重症の所をおして行った提唱です。
それは、側に綿に水を浸して唇をうるおし、時に、声がかれ、とぎれ、欺息して休み且つ続けるという提唱であった。
大地玄亀和尚は東北の地に「禅」を根つかせた位という想いから、三春でも檀用の少い州伝寺を選ばれて掛錫された太地老師。
タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものです.
玄亀老師発願の書(原文は血書)からはじまり
・ 総参の話(この接心会の直後に胃癌の診断を受ける)
・ 臨終の時の法話(門弟一同への経誨)
・ 最後の説法(浅草曹源寺での遷化直前の接心 綿に水を浸し唇を潤しながらの提唱)
・ 無門関提唱
・ 玄亀和尚示衆
・ 出家の本懐
・ 菩提心と無常観
・ 托鉢印施
・ 策励句集と続きます。
「総参の話」は昭和二十七年八月二日より一週間福島県田村郡三春町州伝寺において催された大接心会の時の総参の話である。
会衆七十余名、過半は在家の方で、特に初心者の方のために語られたものである。
尚、老師はこの接心会の直後、胃癌という診断を受けられたのである。
合掌
尚、お参りの代は足元に気を付けて参拝ください。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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