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三春物語692番「身代わり地蔵盆」三春城下万年山天澤寺




城下「曹洞宗万年山天澤寺」身代わり地蔵盆

故人を送る期間であるが、16日から24日までであり、お迎え同様に墓参などをして勤めます。


佛教では普通お盆は1日から24日を指します。


これは、地獄の王は閻魔王であるが、その王と対になるのが地蔵菩薩であり、24日の地蔵菩薩の縁日までがお盆です。

地蔵菩薩は中近世以降子供の守り神として信仰されるようになります。


広く知られた伝説によれば、地蔵菩薩が、親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うといわれています。


このことから地蔵祭においては特に子供が地蔵様の前に参り、その加護を祈る習わしになったとつたわっています。




三春城下天澤寺では、安寿と厨子王の物語に由来する「身代わり地蔵尊」の縁日があります。

檀信徒や、近在の方々がお参りされ「地蔵嘆偈」というお経を読み、地蔵様に感謝の誠を捧げます。








お地蔵さまはやがて六道のそれぞれの世界に対応する為、「六地蔵」としても祀られるようになります。

この六道界はご存知のとおり仏典の『六道輪廻』によるものですが、現在の地名においても「六道」や「六道の辻」と名付けられている場所があると思います。

つまり昔の人にとって「現世」と「来世」はそれほどかけ離れたものではなかったんですね。ですからお地蔵さまは巡礼者たちに限らず、一般の旅人にとっても安全を願い、ともに旅をする良き引率者だったのです。


ちなみにお地蔵さまが山野を巡錫するときにもっている錫杖は、その振り鳴らす音によって小さな虫や蛇などに危険を知らせるために携えられているのだそうです。








相馬市小高にある、曹洞宗小高山同慶寺は、旧相馬藩相馬氏菩提寺相馬家霊堂(県指定重要文化財)があります。



 創建は明応5 年(1496)13 代相馬盛胤が先祖や家臣の供養のため、三春城下の曹洞宗天沢寺の和尚を招いた事から始まったと伝えられています。

墓所には、第16 代相馬義胤ほか歴代の中村藩主が葬られ、28 基の大きな五輪塔が並んでいます。


| ryuichi | 06:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城主 松下氏 |
三春物語43番 「戦国武将三春城主松下氏」


戦国武将三春城主松下氏

松下氏は宇多源氏佐々木氏庶流とされ、当初は今川家の家臣飯尾氏に従属して遠江国にあった頭陀寺城を負かされていました。

之綱の代になると今川家が滅び、徳川家、豊臣家と主君を変え次第に禄も加増され遠江久野1万6千石の大名となりました。

重綱の代では関ヶ原の戦い、大坂の陣と東軍に組したため、石高も常陸小張1万6千石から下野烏山2万石、二本松5万石と加増されていきました。

特に重綱の正室が加藤嘉明の娘だった事で加藤家の与力大名として地位を確立していきます。

重綱が死去した後は長綱が二本松藩を継ぎましたが寛永5年に若輩であるという理由で三春藩3万石に減封され、三春城の改築や城下町の建設など積極的に行いますが、寛永21年には乱心、もしくはキリシタンを理由に改易となっています。

実際は先代から加藤家の与力大名化していた為、加藤家が会津藩40万石から水口藩2万石へ減封、一族が改易となっている中連座的な意味合いが強いと言われています。


特に加藤家先代の嘉明は賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる豊臣恩顧の大名として幕府から敵視され、松下家も豊臣家縁の大名として見られていたようです。


改易になった長綱は土佐藩に預けられ、二男長光が寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。









三春城主松下家菩提寺 天翁山州伝寺


 江戸時代初期の三春城主松下長綱(在城寛永5年~21年)が、父重綱を開基として建立した松下家の菩提寺です。


山号は少年期の豊臣秀吉を養った祖父加兵衛之綱の法号天翁長珊(てんのうちょうさん)に、寺号は重綱の法号州伝寺殿にちなみます。








本堂の左上には重綱・長綱・豊綱三代の墓があり、町の史跡に指定しています。本堂の阿弥陀如来坐像は、高さ2.3の所謂丈六仏で、町重要文化財に指定しています。

境内の一時地蔵尊は子育て地蔵として信仰をあつめ、8月24日の一時地蔵祭が縁日です。 









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三春物語179 番「元寇と亀井浄土宗正覚山光岩寺」
   元寇と亀井浄土宗正覚山光岩寺
文永八年、世界帝国を築き上げた、元のフビライが、三万数千の兵と、九百余の艦船をもって九州北部に来襲した。いわゆる元寇文永の役である。時の鎌倉幕府執権、北条時宗は、大宰府の小弐景資を総司令官とし、西国の御家人を迎撃にあたらせました。
一時は上陸を許したが迎撃に向かった御家人の奮戦と、九州地方特有の台風により、元・高麗連合軍を何とか撃退しました。
 当時、鎌倉幕府、いや日本にとって元寇はまさに国難「国家存亡の秋」でした、この文永の役の後、元が幕府に降伏を勧める使者を送ったが、その使者を時宗は鎌倉竜の口で切り捨てます。時宗は、再度の来襲は避けられない、又、戦うなら早い方が沿岸警備の労力や費用が削減できると考えると共に騎馬民族である元が渡海作戦で日本を従服できるはずは無いと見ていたが、元の使者を斬る事により、浮き足立つ御家人に、戦意を固めさせこの国難をのりきろうとした、まさに「背水の陣」であります。
  二度目来襲、弘安の役は、軍備・戦意共に整い、鎌倉武士団が奮戦し、上陸を許さず、又、台風発生により、元・高麗連合軍の大半が上陸前に海の藻屑と消え、世界征服を企む元に鎌倉武士団が、勇敢にその侵略に立ち向かい、日本を守り抜きました。
現代に生きる私たちも、この快挙を胸に刻み、外国へ、へつらうのではなく、自信を持って国際社会に乗り出したいものです。
亀井・正覚山光岩寺は、三春城主松下長綱が生母の菩提を弔う為に建立した浄土宗の寺ですが、江戸期に二度の大火に遭い、御本尊の阿弥陀如来立像は、その時の損傷で継ぎ目が分離して胎内から多くの銘文が発見されました。
この御本尊の阿弥陀如来立像は、弘安三年(1280年)に肥後の国(現熊本県)宇土の豪族得万太郎が、京都で造らせ郷里宇土の寺に収めた仏像で、胎内に「敵国調伏」「鎮護国家」の文字が見られます、どのような経緯でこの阿弥陀如来坐像が遠く離れた、奥州の三春光岩寺に着たかは定かではありません。
これは町史によれば、元寇・文永の役の後、再襲来必至とみた幕府は、防備を固めると共に、全国の寺社で鎮護国家・敵国調伏の修法が行われ、盛んに造仏が行われた時の一体とみられます。

          合掌




| ryuichi | 22:15 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城主 松下氏 |