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貝山観音堂本尊 「十一面観音木像」





昔、貝山村庄屋屋敷内にある観音堂前を通る通称「庄屋道路」を馬に乗った侍が通る度に突然馬が暴れだし落馬したと云う。

(※白山本宮の古記録に観音様の霊験新たかの記事が残っている)







これは、観音堂の本尊が十一面観音木像の霊験新たかな現象があり、頻繁に起きて困るために三春城下の福聚寺(貝山地区の菩提寺)にある十一観音木像と取換えられたと伝われている。






又、貝山白山比咩神社の旧本地仏は、加賀の白山本宮と同じ十一面観音であり、今から400年前に高林家の祖である正徳院が加賀の白山本宮から持ち逃げして来た御神体(仏像)も観音様でなかったかと思われ、最験新たかの秘仏である事は確かであると古い資料に記載されている。。



貝山口伝話史参照




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::貝山・春田・春沢 |
「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎



「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎

官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。

時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。


三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。


従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。


慶応四辰年 軍用記覚付帳  八月二十日~九月九日

1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ

仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。

次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。

官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。

次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。

明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。

大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。

人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。







廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。

〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし

明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。

廿七日は、格別の戦いもなし。

廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。

一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、

官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。

会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人

以上







この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。


尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。


別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。


戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく禅無事に帰還したと記されています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::貝山・春田・春沢 |
貝山鎮守白山神社“白山さま”の胎内くぐり





貝山鎮守白山神社“白山さま”の胎内くぐり


古老に曰く、この機は胎内くぐりの銘木として高さ5尺の石を欅との間を通りくぐり抜けられたが悪事を働いた人は、くぐり抜ける事が出来ないと伝えられて居た。

今では、欅はその石を巻き込んで遠い昔を語るようであり、樹齢300余年を数えます。






また、貝山で萩の箸(はし)で食事をするとかならず歯が痛むと言うがこれは白山神社本殿の柱が萩を使用しているからと伝わっています。

昭和4年の落雷による焼失後、翌5年の再建の際、萩の材料を新潟方面から運んで来たと伝う。(日庄屋屋敷跡辺りの地名が裁人保と五う)







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::貝山・春田・春沢 |
根本笠石八幡宮 2023




先の店休日、おたりばあさんの出身地根本にある笠石八幡宮様に「日頃の感謝と春商戦の無事」そして「商売繁盛」祈願として恒例の境内掃除に行ってきました。





この日は、ちょうど三春滝桜の開花宣言が出された日です。


ポカポカ陽気の良き日。


髙橋タリの名前も見えます。




その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。







皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。




笠石八幡宮

柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。



昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。








今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。





その巨石には

「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。





文久年間に別当東光寺住によって奉納された灯篭











当三春昭進堂は、お客様に新鮮で美味しいものを味わっていただくため、大量生産はせずに、ひとつひとつ心を込めて作っております。



当店の御菓子を召し上がっていただき、ホッと幸せなひとときを感じていただければと思っております。

そして、“御菓子もお店もスタッフも” 全てをお客様に受け入れていただけて、「また来店したい」と思っていただけるよう心掛けております。







湯殿山



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::柴原・滝・根本 |
「貝山伊藤家口伝話史」 貝山鎮守「白山比咩神社」の勧請




先の「中郷さくら学級歴史講話」の際に会員として臨場された貝山の伊藤様から「貝山伊藤家口伝話史」の上下巻という拝見させていただきました。

御先祖様が残した「貝山伊藤家と白山比咩神社に関する資料」をご親戚の方が近年になってまとめられた書物です。

塵壺の参考になればということで借用させて頂きました。








内容は、平安時代から続く伊藤家の歴史、伊勢国から三春貝山までの変遷、そして、貝山鎮守「白山比咩神社」の勧請、さらには戊辰戦争会津攻めに於ける三春藩領人足にかかわってご先祖の資料等々、大変興味深い書物・資料となっています。

大変貴重な資料ありがとうございます。











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| ryuichi | 03:33 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::貝山・春田・春沢 |
三春郊外込木の八方谷地内に向日葵畑が出現!2021




三春郊外込木の八方谷地内に向日葵畑が出現!





ご覧いただけますでしょうか?

ひまわり畑です。


多目的込木集落の「景観作物」 ひまわり畑2021!







午後は逆光です♪






三春昭進堂から車で3分!







磐越道の高速道路からだとバッチリの角度です。



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| ryuichi | 04:33 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::楽内・込木・芹ケ沢 |
「半夏生(はんげしょうず)」 込木見渡神社「辻切り」の御札




田植えを終える目安とされる「半夏生(はんげしょうず)」の頃、三春城下在の各地の集落入口付近で、細竹の先に「御札」を括り付けて村境付近に建てられているのを目にします。





磐越自動車道と飯野三春石川線の辻



 これは「五穀豊穣」と「村内の安全」を祈願して「夏越の祓(なごしのみそぎ)」として神主さんに「辻切り」の御祈祷を受けた「御札」を、村の入口の「辻」と呼ばれる道の交差するところ、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)の方角に立てて村外からの疫病などの災厄(さいやく)が、村内に侵入するのを防いでいるものです。





 この御札には「込木見渡神社」等の鎮守名と「御祈祷 御璽(ごきとうぎょじ)」と共に「村内安全」ではなく「洞内安全」と記載されています。

込木洞…この洞(うつろ・ほら)とは、室町期以降の東国の武士、地侍の一族郎党が所領する集落を指しています。






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| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::楽内・込木・芹ケ沢 |