CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2024 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




三春物語518番「樋渡宝泉寺千手観音堂」
 






田村百観音札所の一つ、樋渡宝泉寺千手観音堂です。






三春城下から、南東に一里余り滝桜の奥に位置する樋渡村にあります。

村の鎮守である樋渡神社の裾にあり、地蔵さまや観音様等が集められています。







千手観音は千臂千眼観世音、千臂観音、千光観音、千眼千首千舌千足千臂観自在ともいい、正しくは千手千眼観世音菩薩と呼びます。

ちなみに千とは無量円満を意味する。全ての生き物と人々を救う事を象徴し「大悲観音」とよばれる。曼陀羅で蓮華部の中で最高の威徳を有する事から「蓮華王」とも呼ばれる。






















大きな地図で見る

| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語517番「鎮守樋渡熊野神社」





三春城下の南東、一里余に旧樋渡村があります。







この集落の鎮守、樋渡神社です。






立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。






熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。

11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。


また、境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。










熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指します。

有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみました。










こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いたとされています。


この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立したと考えられています。






大きな地図で見る



| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語460番「樋渡阿弥陀堂」


樋渡の阿弥陀如来堂

三春城下の南四里余、滝桜の先の集落「樋渡」地区にある阿弥陀堂です。
阿弥陀如来とは、息災・延命を誓願とし、極楽浄土に人々を導く。光明無量大慈を以て苦しみから救うとされています。

胸の高さで右手で親指と人指し指で輪を作り、左手を下に垂らす姿は、信心するものの臨終に際して、西方極楽浄土より迎えに来た姿を表しています。



阿弥陀如来は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の教主です。







| ryuichi | 06:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語449番「狐田村少林山桂昌寺」
無住の寺は静かで風や鳥のさえずりが時折聞こえ、傍を流れる渓流の音を聞いていると、神聖な場所に居るんだなあと感じることがあります。踏み込んでは行けない場所に入り込んだという恐れにも似た感覚と、心が安らぐという感覚のバランスの中で、美しい自然の中に全てが導かれ、古より人々が集うこの場所に来て、そんな詮索は意味のないことに気づかされます。
三春は、何もかもが見えない八百万の神々によって始まり、仏も曼陀羅もそして渡来人も、美しい風土に恵まれ、その源にまったりととけ込んで居るのでしょう。



旧狐田村少林山桂昌寺
三春城下の南西四里余、旧狐田村にひっそりと佇んでいます。



開創は、過去帳によると万治年間とされています。



現在は、城下福聚寺の客檀家となっています。



由来文


石仏や石碑が集められています。


六地蔵




子安観音


三界萬霊塔

| ryuichi | 06:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語341番「蛇石鎮守王子権現」

蛇石の蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。
前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。



祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿でで略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。
さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。



尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。





現在は、三春ダム完成後、村人はバラバラになり、世帯数の減少で祭礼も神事のみとなり簡略されています。



| ryuichi | 06:15 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語121番 「蛇石二十四日講」


蛇石二十四日講
かつての蛇石の二十四日講は、男衆が各組ごとに廻り宿に米一升と、銭を持ち寄る。
まず、キビリといって火打ち石で発火して男たちが炊事をする。
垢離、塩祓いの後お籠もりをするが、戒律は厳しい。例えば、食事は飯を盛りきりにして、各人は決して食べ残してはならない。もし、残れば炊事係が責任をとって残り物を全部食べ、食器や鍋を洗った汁まで飲み干さなければならない。
これを「別火」といっているが、十分意味のある慎ましい行事である。
二十四日は、地蔵即ち愛宕の日で、火伏せをご祈祷する潔齋の日である。



| ryuichi | 05:35 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |
三春物語132番 「過足(よぎあし)村」
過足(よぎあし)村



三春の最南端に過足という集落があります。
過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。




菅布禰明神です。

過足にある「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。

また、村の入り口にある「にんにく石」は、悪疫が流行っても、決してこの石より村に入らない魔除けの不思議な石だという。



  三春には、歴史の変遷と共にその時代を生き、その土地に生活した人々によって伝承・口承されてきた信仰にまつわる話や昔はなしの民話、そして怪談が数多く口伝として残されている。
これは、先人が当時(昭和40年代)テープレコーダーを持って、各地区の長老を訪ね聞き、語りを録音し編纂したものが三春町史や三春の民話などに記録されている。
  三春の民話の特徴は、主として歴史的な実話が語り継がれてきたことにある。
それは、三春藩領がその昔から相馬藩と磐城藩、二本松藩そして須賀川の境に位置に接するため、仙道と呼ばれた中通りに位置している関係から、国守りのため重要な土地だったためと推測される。また、田村麻呂東征伝説があり、その折々に立ち寄った村の成り立ちにまつわる話が多い。
三春の伝承にある、一つ一つの民話の根底には社寺仏閣、遺跡のいわれが語り継がれているものであり、それはその土地に生活する人々の日常と深くかかわり、信仰されてきたものである。
  そして、昔の生活や風習から口承されてきた昔話は、その土地や家に語り継がれてきたものである。



| ryuichi | 06:01 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::過足・上石・狐田・蛇石・樋渡 |