2009-06-28 Sun
「上国家」 安倍安東ノ秋田湊家墓所「安日山高乾院」安東氏「上国家」 湊家
安東氏(あんどうし)は、日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国、津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した豪族でした。
津軽安藤氏ともに、本姓は安倍を名乗ります。
鎌倉期には御内人として「蝦夷沙汰代官職」となり、室町時代には「京都御扶持衆」に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。
経緯の詳細は不明であるが、室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られている。
上国家は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称した。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、いったん蝦夷島に逃れたが、室町幕府の調停で復帰、後に再度蝦夷地に撤退、更に出羽に移り檜山(現能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領した。
下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で「蝦夷探題・管領」の役割を果たしていたとも考えられる。
この頃から「安藤」の表記を「安東」とする。
更に、室町幕府の奥羽大名施策において、両安東氏を「屋形号を称する家柄」として秩序立てていた。
近世以降は三春秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となります。
上国家の成立について、従来の説は鹿季が出羽湊に入ったとの系図記載記事を踏襲したものであったが、近年、南北朝時代成立の史料により男鹿半島の領主として確認される安藤孫五郎、安東太の両者や、「市川湊文書」に含まれている寺社修造棟札写に残る寂蔵、安倍忠季、安倍浄宗等が鹿季の南遷と伝えられている時代以前に遡れること、湊家以前の男鹿半島の領主を女川家と伝える伝承があること等から、湊家の成立と伝えられる以前に安東一族が秋田郡に土着していた可能性を指摘する見かたや、鎌倉末期に蝦夷大乱において惣領から退けられた季長を上国家の祖と見なす見方などが出されている。
また、鹿季を宗季の子とする系図を支持する見方もあります。
上国家は、一般的に湊家と称し、遅くとも天文年間には「京都扶持衆」となっていること、代々「左衛門佐」を名乗り本願寺や細川氏とも誼を通じるなど中央との交流があったこと等が史料から確認されている。
三春藩主菩提寺 高乾院にある秋田家墓所

荒木高保奉納の弁財天水鉢

2009-06-28 Sun

高柴だるま屋敷(デコ屋敷)
「三春張子」「三春だるま」「三春駒」の生まれた土地、磐城國三春高柴村は、三春城下より西へ5キロの場所にあります。
なだらかな阿武隈山脈のほぼ西端に位置する雑木林に囲まれた小さな村落です。
「デコ屋敷」は「だるま屋敷」とよばれ旧高柴村の舘野と福内の二つの部落にまたがっています。村内には平家落人伝説が残りますが、戦国大名田村氏の重臣橋本刑部顕徳の末裔と称しています。

ここは、小さい山村のわりにお堂や祠が多く存在しています。
天神様、観音様、地神様、オハヤさま、蚕飼様、子育木馬神社、大黒様、地蔵様、弁天様、千手観音様、庚申様、秋葉様、アオソ様、そして不動明王様が祀られています。
高柴は、この小さな地域が一つの完結した社会として成立していて、三春城下の中でも、周囲にある他の村落から隔絶した集落を形成しているように感じられ、三春郷の特殊技術集団が暮らす、「隠し工人集落」だったのではないかと考えられます。
言い伝えによると、三春藩から高柴人形師は、三人扶持を給され三春城下寺社鳥居内の店張りを許可されていたといわれます。
城下には、店は持たず城下から四里余の高柴より、祭礼や市日などに自ら荷を背負い出店を張っていたようです。
「太元帥明王祭礼絵図」に、「三春張子」を売る高柴衆が描かれています。
村内には「香具師記録」が残っているところからみて「土着の香具師」というのが高柴衆の身分だったのでしょう。



TOP PAGE △



