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ものまねタレント「ノブ&フッキー」Xmasディナーショー! inベルヴィ郡山館



ものまねタレント「ノブ&フッキー」Xmasディナーショー!
inベルヴィ郡山館

じゃーん!図景にあるベルヴィ郡山館「ノブ&フッキー」のものまねXmasディナーショーにいってきました。

当店の女将が、ものまねが大好きなもので、夫婦で観てきました。




何せ、新婚旅行でハワイに行った時も“モノマネパブ”に行ってプレスリーやマリリンモンロー、そしてマドンナのモノマネを最前列で観た位ですので・・・・

おまけに、プレスリーのそっくりさんからロングスカーフを貰ったのが一番の思い出になったくらいですから。


ディナーショーなので、スパークリング・ワインを頂きながら、ベルヴィ郡山自慢のシェフが作るスペシャルディナー料理に舌鼓!
満たされた時間です。


偶然にも同席頂いた、二本松の三浦手延べうどん店様、そして会津藩別格家老の海老名氏の子孫である奥様、貴重なお話ありがとうございました。

お陰様で、このディナーが2倍3倍にも楽しく有意義な時間となりました。

本当に、楽しい時間をありがとうございました。





尚、会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。


白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた同盟軍を埋葬した墓と、会津藩軍事奉行であった「海老名衛門季久慰霊碑」があります。
海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。

嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。

海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。

最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
 
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものである
現地案内板参照


長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。

後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。

戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。


会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。

後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。






季昌の妻は、会津藩士日向新介の娘海老名リンです。
リンは会津地方の女子教育及び幼児教育の功労者で、会津女学校、若松幼稚園を設立します。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::エンターテイメント |