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塵壺309号 「馬場の天女碑」平成版古蹟漫歩 平成29年4月発行



平成版古蹟漫歩「馬場の天女碑」

春、春陽郷と称される三春城下の隅々を歩く。路地をぬけ、桜川や裏道の小さな公園にあるベンチで寛ぐという春を満喫したくなる季節の到来です。
また、郊外では田園風景や道端の地蔵さんや石碑で心が和む、そして地元の人々とのふれあうなかにも三春の魅力を発見します。 

そんな三春城下の魅力の一つ。
馬場尼ケ谷の“馬場の湯”の少し下ったところに「正徳馬場口のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。

そのお堂の入り口に「天女碑」と刻まれた石碑が建立されています。
台石ともに150センチほどの大きさで、正面に天女碑、向かって右に文化12年(1815年)、左に乙亥暮秋と刻まれてあります。

室町期以降の武家は、嗜みの一つとして謡曲を謡いお能を舞っていました。

江戸徳川幕府、そして三春藩でもこれを奨励し、現三春小学校にあった三春城「御殿」には能舞台もあったと記されています。
三代藩主秋田信濃守輝季公は、元禄十年江戸城で猿楽が催された際、将軍の御前で能楽「鶴亀」を演じています。

また、太元帥明王(田村大元神社)山内にある熊野宮、八幡宮の彫刻には、「海人」「鯉仙人」など謡曲に題材を求めたものが刻まれています。
天女碑のある馬場・尼ケ谷には、大木、坂本、池田などの武家屋敷があり、その人たちも能や謡に励んでいました。

江戸時代末期の天保初年、三春10代藩主秋田肥季(あきたひろすえ)の正室於儕(おせい)の方は、因州(鳥取)鳥取城主池田斎訓の養女でした。
於儕の方御輿入りの際に清涼院という老女が守役として付いてきましたが、後に清涼院に池田姓を名乗らせ、当時の大木家の二男新一を池田家へ養子に迎えさせます。

池田氏と名乗ることになった清涼院は、この新一氏を謡の大家の一つ江戸宝生流家元の内弟子に入れて、10年間研学させます。帰郷後は、藩の謡の指南役として仕えました。

この池田家が尼ケ谷に屋敷を構えたのも大木家との縁故関係です。

その縁も、「能、謡」につながるものでした。

さて、天女碑ですが、能、謡に熱意を込めた大木、坂本などの藩士をはじめ、芸能ごとの上達を願う人々によって記念碑として建てられたものです。
天女は謡曲「羽衣」からの着想であることは言うまでもありません。

江戸期には、路傍に建てられていましたが、三春藩馬術教練場である馬場であった同地内の道路改修の際に、廃仏毀釈・神仏分離の観点からか、仏教関連と勘違いした人達によって、坂本氏宅の池にお地蔵さんと一緒に放棄されていました。

しかし、見かねた鴫原留吉氏、石橋政蔵氏ら当時の馬場尼ケ谷の有志の方々が私財を出し合って、地蔵堂を新築してお地蔵さんを納め、天女の石碑はそのお堂前に据えました。

現在の地蔵堂は、「馬場尼ケ谷界隈で子供の事故がないのはこの地蔵様のお陰」として、永年この御堂を無償修復していた馬場の影山組・やわらぎの湯社長の影山勝男氏により平成17年10月に全面新築され、同地蔵堂講中様へ寄贈したものです。

江戸末期幕末の動乱を経て、お地蔵さんと共に天女の石碑も時代の流れを見てきました。
古い三春広報コラム古蹟漫歩「馬場の天女碑」参照

「武士はお謡(能謡曲)、町人は浄瑠璃(文楽の歌)で日本語の教範としていた」

この国のかたち 司馬遼太郎の言葉より

蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |