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塵壺320号 平成30年3月発行 三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎



はじめに、本塵壺に掲載しています法蔵寺涅槃会の日時について誤った記載がりました。

涅槃会開催は、平成30年3月17日の土曜日午後2時からです。
曜日を日曜と誤記載してしまいました。
訂正させていただきます。





三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎

平成30年は、戦国武将三春城主田村清顕と正室“於北(おきた・相馬顕胤娘)”夫妻の一人娘で、伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」(田村御前、出家院号は陽徳院)の生誕から450年にあたります。

今回は、その愛姫からすると高祖父の弟となる平姓三春田村氏三代(義顕、隆顕、清顕)その初代義顕の弟“田村宮内少輔顕頼入道月斎”のお話です。

顕頼(あきより)入道月斎(にゅうどうげっさい)が、三春城下にて居を構えたとされるのは現郡山広域消防三春分署、光岩寺の北側一帯の丘陵で「月斎舘(げっさいたて)」、そして「椿舘(つばきたて)」とも呼ばれていました。

当時、舘の周辺には椿が繁り、春には丘陵全体が紅く彩られたといわれ、“椿舘”と呼ばれる所以ともなっていました。

義顕の三春入城は、永正元年(1504年)で、応仁の乱から戦国時代へと移行する室町幕府末期の11代将軍足利義澄の頃となります。

月斎が生きた時代は正に“戦国乱世”の真っただ中で三春周辺でも相馬氏、芦名氏、二階堂氏、伊達氏そして佐竹氏などの戦国武将が割拠し田村領は“四面楚歌”的状況でした。

戦国武将である三春田村氏は、三春本城と共に領内の防備体制を構築するために、後に“田村四十八舘”と呼ばれる出城群も領内一円に築き、田村家に近侍する直属の旗本不断衆千騎の屋敷も三春城下本城近くに集中していました。
その中でも、本城防御の要、鬼門とされる乾(戌亥)の方角(東北)にこの舘を築き、戦上手と評判の高かった顕頼月斎を舘主として置き、防備を固めました。
伊達政宗も三春を訪れたとき、この月斎舘で饗応を受けたと古文書は伝えています。

また、田村領内四十八舘の内、上移、丹伊田、木目沢、阿久津等の街道筋の要となる舘には、月斎の息子たちなど配下の者を配していました。

月斎は、当時としては異例の100歳を超すご長寿でしたので、愛姫の父清顕弟の“田村氏顕”と被っているのではないか?とする説もありますが、二人の性格の違いからして、月斎は顕頼一人とみるのが正しいんだろうと思っています。

月斎は、小野城主田村右馬頭顕基入道梅雪斎(二代隆顕の弟)とともに田村家では重きをなし、兄義顕亡き後、甥である隆顕を立てて田村家中をまとめ上げ、その子清顕(愛姫の父)に仕えます。

当時、戦国時代の風潮として“下剋上”がまかり通る世の中にあっても、月斎は主家を立て内紛による田村家分裂を嫌って、晩年までの補佐役として生涯を懸けて田村本家を守り抜きます。


また、合戦においては田村勢の軍師を務め、仙道(現福島の中央部)に謀略に優れた戦国武将として三春田村氏の武名を轟かせ、周辺諸氏からは「陣場に月斎、田にひる藻、畑に地縛り、嫌いもの」と囃子詩に謳われる程“攻めの月斎“として近隣の武将たちには恐れられていました。

清顕死後の家中騒動では伊達方に与し、内紛に乗じて相馬義胤が三春入城を図りますが、月斎は息子の橋本刑部顕徳などと共にこれを撃退しています。
当時、石川、岩瀬、塩松(小浜)などを掌握し、田村領である田村庄・小野保に敵を一歩も入れなかったと記録されています。

一方、現いわき市平窪にある浄勝院所蔵の古文書の中に、月斎の子である田村宮内大輔に送ったとされる遺書が残っています。

雅号“月斎”という名前があらわす通り、その文筆を見ると文才の高さがうかがえ、戦国の世に在って和歌を詠む優雅さと禅宗に帰依し法名も“月斎聖休”とするなど参禅する道心とを兼ね備えた文武両道の武将でもありました。



拝 さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   合掌







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |