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平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行





平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行

三春城下新町にある旧三春藩主祈願所真照寺の山内にある「古四王堂」。

東日本大震災により被災し御堂の建屋が損傷していましたが、お寺さんや檀家さん、そして関係各位の皆様のお力で復興再建工事が完了しました。







もうすぐ水芭蕉が芽を出し始める時節です。
三春城下に春を告げる水芭蕉を愛でながら往年の姿がよみがえった古四王堂をご覧いただければ幸いです

その真照寺の檀家さんが多い旧御木沢村は、明治22年町村制実施の時、合併した御祭村、七草木村、平沢村から一文字づつ採って「御木沢」とつけた村名です。
三春城下の北西隣する旧御祭村には、戦国期には田村四十八舘の一つ「小山舘」があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

小山舘は、天正年間に三春城主田村清顕時代に築いた“田村四十八舘”の一つで、田村家の家臣、550石の小山左馬之助が居て、北西の守を固めていました。
古文書で見ると、三春札所から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったと思われます。

御祭の由来として、江戸中期の三春藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に、獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納します。
以後、明王と牛頭天王の祭礼には、御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より、「御祭」の村名を拝領したと伝えられています。
 田村四十八舘「七草木舘」は、七草木を小浜街道が北へと向う要衝に所在し「三春城古城絵図」では2か所の郭の存在を示し七草木新助を舘主名に挙げています。







七草木氏の由来は、寛平の頃、宇多天皇が宮中に於いて七種粥の節句を行った際に、竹良某という人が七種および擂り粉木(すりこぎ)を献上して賞されて「七種木」の称を賜ります。

後にその子孫の七種木新介という武将がこの地の築館山に舘を築いて移り住んで戦国大名田村候に仕えます。田村家出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたと伝えられています。

また、御祭、七草木には「舘下」「突き舘」、「突きうち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という武将に因んだ地名が残ります。

 三春城下から小浜へ向かう、七草木奥にある「七草木休み石」は、徳川幕府二代将軍秀忠公が、この地に検地のために来たときに、この石に腰(こし)を下ろして休息(きゅうそく)したといわれています。







 三春、松沢街道の御祭・七草木境に文字も薄れた古い石碑が残っています。

あれは橋本惣五郎の報徳碑です。

惣五郎は、七草木の人で、万延の頃に水戸藩の常陸久慈郡良子村の後藤泉蔵という人を訪ねて水戸国府業たばこの耕作法を学び、帰村して村人に伝授して「御祭国府」と称される葉たばこ生産に成功し、明治30年の専売法実施後も幹于たばこを続けていた人で、その教えを受けた人達が、明治22年に建てたものです。

平沢村出身の人物といえば、明治初頭に活躍した医学博士三浦守治(みうら もりはる)先生がいます。

安政四年(1857)、三春藩士・村田七郎平の長男として生まれます。苦学して明治14年東京大学医学部を首席で卒業。同級に森鴎外がいます。
明治15~20年にかけてドイツへ留学し、病理学病理解剖学を学ぶ。

帰国して間もない明治20年3月17日、帝国大学医科大学教授に就任し、病理学病理解剖学を担当することになり、この日が病理学教室創立の日とされています。

また、歌人佐々木信綱の門下として和歌に優れ、本郷にある東京大学医学部2号館本館の東入口には「世の中の風あらく吹きしきるとも 心の海に波なたてそね」の歌碑が掲げられています。


    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝










春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |