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「私はおたりまんじゅうです」 三春昭進堂




昭和初期戦前の三春昭進堂


おたりさんの息子 髙橋正吾さんの出征の記念写真です。

民四郎さん、おたりさんの間に正吾さんが座っています。


柳作の髙橋家御本家や、従兄弟の方々も写真に納まっています。


橋長魚店の初代橋長」さんのお顔も見えます。


尚、最後列右から4番目のメガネの方は、私からは大叔父にあたる髙橋哲夫さんです。



昭和20年代



小さな城下町三春で「三春昭進堂」の四代目として和菓子屋を営んでいます。



昭和30年代


当店は、三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。



昭和50年代 

画面左の真照寺参道側に、左折れの松の古木があるのが見えますか?

店内の一部を真照寺参道を拝借していたものですから、この松の木が店内から生えているように見えていました。



この下り松は江戸時代から生えている老木で苔が生えています。
幹の太さは根元で1メートルは超えていました。

子供の頃は、よく幹に乗って遊んでいましたが、今思うとネバーエンディングストーリーにあった龍に乗って空を駆け巡っていたかに見えたのかもしれません。

敬慕する河井継之助にあやかり、今雅号としている「三春蒼龍」を彷彿つさせてくれます。

これも何かのご縁なのでしょうね〜〜。



昭和56年

新築した現店舗です。


商売の始まりは、明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に、売ろうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、おたり婆さんが造る三春名物「おたりまんじゅう」として三春内外の方々に親しまれています。



そして、現在の店舗です。
  



 私は おたりまんじゅうです
 
砂糖や甘いものがまだ貴重品であった頃 三春に産声を上げました

私を造ってくれた おたりばあさん に似たのでしょう 

色黒で、ちょっと不細工の私ですが 私に出会った人たちが笑顔になってくれます

いくつもの時代を超えても その笑顔が忘れられなくて 

元気な笑顔のお客様にお会いしたくて

そして 愛され続ける存在でありたい・・・

そう願い続けて 毎日蒸気の中で生まれています

お客様から 愛する方々へ 

幸せを届けて行きたいと願っています。

そう思いながら、今日もそして明日も元気に産声を上げつづけます


 創業明治中期 三春名物「おたりまんじゅう」本舗 
















冒頭にある写真、おたりさんの息子正吾さんの出征記念の写真とご紹介しましたが、御縁なのでしょうか?

先日、その正吾さんの娘さんとその息子さんにご来店いただきました。







このブログを4月初頭に掲載しようと予約投稿していた矢先でした。

私は初めてお会いしますが、なんとも不思議なご縁です。


やはり、遠い親戚ですが身内のお会いできるのはうれしいものですね!



「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきの中に、当家に関する初めて知る記述がありました。

当新町髙橋家の初代民四郎氏は込木柳作から芹ケ沢の土地を譲り受け、その後現在の場所に移って、商いを始めたとは聞いていました。その商いも様々な商売をしていたと・・・

その中に羽二重(絹織物)工場を経営していたとは昭和8年生まれの父も知りませんでした。

さらに、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)後の世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということも記されていました。

その後、おタリは持ち前の木の強さで果敢に商売を模索して饅頭屋に落ち着いたという下りに繋がります。

そして、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか遊郭や畜産組合での書記や会計、さらには祭礼での露天商・・・友人たちと昼から酒を呑んでは時事を語り合っていたそうです。




以下は、上記のあとがきよりの文面です。
私の子供の時の古い記憶といえば、いつも最初に浮ぶのが、何か悪いことをして析艦されるときに、きまって裏の家(主家と離れた廃工場)に投げ込まれた思い出である。その工場には幾つかの機織台が、興妹の巣やほこりにまみれて置かれてあった。
昼でもうす暗いその部屋には、どこかのふし穴から、さっと日光が何本か斜に走っていた。その光をじっと眺めていると、無数の微芥がうごめいていたりしているのを、泣きじ。くった顔で、ぼんやり眠めていたものである。
「裏の家に入れるぞ」これが兄弟たらにとって、一番恐ろしい宣告であったのである。これは、おそらく、私が五、六才の頃のことであるから、大正11年前後であったものと思われる。
すこしものごころついてからわかったのであるが、大正7年第一次欧州大戦の終了によって到来した大恐慌のあおりをうけて、父の経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒壊し、それからずっと工場は閉鎖され、子供達の折艦の場と変貌していったのである。 この工場がいつ頃とりこわされたのかは覚えていない。






春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |