2019-04-15 Mon
三春から離れた東京町田で暮らす祖父の従兄弟髙橋正吾(古人)の伴侶である髙橋シロちゃんとご家族様御一行様にご来店いただきました。
シロちゃんも三春城下北町の大久保家出身です。
今年92歳になるとお聞きしましたが、以前と変わらず温和で朗らかな笑顔で元気なお姿を見れてうれしく思います。
“遠くの親戚より、近くの〜〜“と世間では言うそうですが、当三春昭進堂をルーツとするご親戚の方々にお会いするのは実家を継ぐものとすればうれしいものです。
日ごろより、何かと気にかけていただいてるる大伯母さまです。
「龍ちゃんは、母ちゃんの園子さんに似て商売上手で、頑張っているなぁ~!」「郡山の哲夫(故人)おじちゃんも褒めていたよ。ありがとうね~」とのお褒めの言葉をいただきました。
こうして心配してるれる大伯母さまが居てくれる。
三春で頑張って商いをしていてよかったなあと、そして、涙が出るほどうれしく思います。
今回の三春訪問は、先に次女さんが息子さんと一緒にご来店され、その話を聞いたお母様が「私も三春に滝桜を見に行きたい~」ということで長女さんその息子さん、そして次女さんとご一緒に三春に帰省され滝桜を見ながら当三春昭進堂へご来店いただいたという次第です。
シロちゃんとは義理の甥っ子となる当家先代の父民夫も交えて少しの時間でしたが、兄弟である正吾さん(故人)の話など昔話に花が咲き楽しい時間を過ごさせていただきました。
花見の時期ですので商売が忙しいだろうとご配慮いただきありがとうございました。
また、お土産を頂き心より御礼申し上げます。
三春昭進堂四代目として益々頑張ります!
またのご来店を待ちしています。
追伸
後日、シロちゃんからお礼のお手紙が届きました。
ありがとうございました。
おたりまんじゅうの生みの親”タリ”さんの生家がある旧根本村の「笠石八幡宮」
シロちゃんのご主人である大叔父の正吾さんが出征の折に、母タリが武運長久・無事に帰還できることを祈念して石段整備に寄付したこを記した石板があります。
髙橋タリの名前も見えます。
偶然にも隣のご尊名は「三本木」様
御縁でしょうか、シロちゃんの長女さんが三本木家に嫁いでいます。
当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。
込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。
子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。
また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。
その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。
お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。
皇紀二千六百年記念石板には息子の髙橋伝蔵の名前も刻まれています。
笠石八幡宮
柳橋海道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。
道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。
小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。
笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。
その巨石には
「はしかとて 折ればかろし 笠石の蹄の址や 八幡の家」と刻まれている。
春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
TOP PAGE △