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仙道軍記・岩磐軍記集




仙道軍記・岩磐軍記集

解題

「仙道軍記」は、 藤原氏を祖とする奥州二階堂氏及びその末葉である須加川氏の興亡
を記しているので、一名『藤葉栄衰記』ともいう。

著者も成立年代も不明であるが、国史叢書の編者黒川真道は「本書作者詳ならず、但奥書に〈正徳五乙未八月念八鳥試既毫於奥州山東長沼郷〉と見えたれば、正徳五年の作なることは知られたり。按ずるに本書は、二階堂の創業より筆を起し、同家滅亡に至る迄場の事蹟を恐く記したれば、恐らくは同家の遺臣などの筆に成れるもの歟。姑く記して後考を竢つ」とある。

内容は岩瀬郡須賀川の地に居城を構えた二階堂氏の始末を記したものである。初め二階堂氏は先祖の藤原為綱のとき遠江を受領し、承久の乱に鎌倉に来て評定衆となり、子孫は相ついで鎌倉に居住した。

その後裔式部大輔某は足利持氏に仕え、奥州岩瀬郡を与えられたので、一族の治部大輔某を領国に派遣し、同郡須賀川の地に城郭を構え、これを守らせた。
式部大輔 は嘉吉三年に逝去し、子の遠江守為氏が家を継いだ。
この時、治郎大輔は為氏が幼少なるを侮り、勝手な振舞があったので、為氏はついに須加川に出向いて一族の戦争となった。
治部大輔 は敗れて自害したので、為氏は須賀川に留った。

その後裔盛義は天正九年に逝去したが、跡継がきまらず、盛義の妻が宰領した。

この虚に乗して伊達政宗は奥州南部に侵入し、ついに二階堂氏を滅し、この地を領有したが、天正十九年豊臣秀吉は奥羽を鎮圧して蒲生氏郷を会津に封じ、須賀川を領有きせた。最後は秀吉の死をもって筆を置いている。

戦国期のこの地域の情勢を知る貴重資料である。






「政宗公軍記」は、伊達政宗が奥州に於ける軍事を記したものである。

内容は天正十二年政宗が十八歳で家督を継いで以来、岩代·磐城に進出して、遂に仙道七郡を制覇した次第を記し、最後は、もと二階堂氏の居城であった岩瀬郡須賀川城の石川弾正昭光が政宗に叛いて誅されることで終っている。

「仙道記』は著者も成立年代も不詳である。

内容は天正十年より始まり慶長六年に蒲生秀行が会津に入国まで、仙道(中通り)の各城主のことを中心に、この地方の戦乱を略記し、最後に奥州·会津·相馬三春の各海道及び古城の覚を記している





『蘆名家記』 は著者も成立年代もはきりしないが、慶長の初めに書かれたものと思われる。内容は天正八年、会津の守護芦名氏十六代の盛氏の死去に筆を起し、同十七年に伊達政宗に攻められて減亡、翌十八年の豊臣秀吉による会津没収に及んでいる。
この間、蘆名家の跡継ぎをめぐる家臣団の対立と伊達氏への内応の事情、それをめぐる数々の合戦を記し、戦国期の南奥羽の事情を知る数少い重要な資料である。






『伊達日記』は作者の名をとって「伊達成実記』「伊達成実日記』ともいう。

作は片倉小十郎景綱とならぶ伊達政宗の老臣伊達成実である。

彼は政宗に従って実戦に参加し、自らの見聞と体験とで書いたもので、史料的価値は非常に高く、戦国期の東北地方の情勢を知る根本史料である。
成立は関ヶ原の役のとき徳川家康と結んだ伊達政宗が、石田三成と通じた会津の上杉景勝と休戦して磐城国白石に帰った慶長五年十月で終っているから、これからほど遠くない頃だとみられる。

内容は天正十二年、政宗の襲嫡から始まり、父輝宗の死、相馬.二本松.田村の諸豪族との関係、会津の青名氏の攻略と滅亡、会津の新領主蒲生氏郷との対立、関ヶ原の役のとき会津の上杉氏との抗争など、仙道に於ける争覇が中心となっているが、芦名氏との関係記事は当事者の筆録だけに詳細である。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏 |