2019-07-09 Tue
三春城下八幡町にある朝日屋さんは、創業大正14年、三春城下名物の「三春あげ」の製造販売店です。
大豆や水という原材料にこだわり、毎朝風味豊かな味を求めておいしい豆腐や油揚げ造りに精魂を傾けている頑固な豆腐屋です。
中でも、出来立てのがんもどきは逸品で、ちょこっと醤油を垂らせばビールのあてに最高です!
その朝日屋豆腐店を営んでいる小林さんから、江戸後期の三春城下の豆腐店を記した一覧表を頂戴いたしました。
享保十四年(1729年)の示された「商売諸職書上」をアレンジされたものです。
三春城下六町には、108軒の豆腐屋を記録されています。
三春城下には臨在宗、曹洞宗の寺院が多く、その禅宗では、修行の一環として菜食を中心とする精進料をいただきます。そのためどうしても不足しがちなたんぱく質を補うために、豆腐が重宝されていました。
新町に豆腐屋が多いのは、地内に曹洞宗寺院の天澤寺、州傳寺、に多くの雲水が修行出頭していた事や、三春藩領内総鎮守大元帥明王社にの別当職である真照寺やそれに付随する修験寺(現在は廃寺)が多く存在したことや、半農を許された下級武士が多く居を構えていたことにより凍み豆腐を下僕名義で造っていたことに由来されるものと考えられています。
江戸時代中期以降の秋田藩政下になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は一般にも広まり始めます。
それ以前は、「ハレの日」の食べ物で、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理を食することができたと伝えられ、赤飯・白ふかし、餅のように、改まった日に食する食べ物とされていました。
特に農民にとっては非常に贅沢品とされていた食材で、江戸幕府三代将軍・家光時代に出された御触書「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。
豆腐が身分の分け隔てなく食されるとその旨さが評判を読んだのでしょう、天明2年(1782年)には、『豆腐百珍』豆腐の料理本が出版されています。
朝日屋の豆腐や一覧には、天保7年(1837年)の頃の豆腐の大きさも記載されています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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