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BABYMETALの神バンド(バックバンド)の超人気ドラマー青山英樹さんにご来店いただきました。




先日、当店HPを見て先祖探しをされているおじいさまが白岩町のご出身とする東京在住の青山氏ご家族にご来店いただきました。

ミュージシャンの青山英樹さんです。


英樹さんは、世界的なドラマー故青山純氏の長男さんです。

純氏は、山下達郎さんや竹内まりやさんをはじめ、MISIAのツアーのバンドマスター的な存在になっていたミュージックシーンには欠かせない日本を代表するドラマーです。


そして、ご自身も世界的に活躍するBABYMETALの神バンド(バックバンド)のメンバーとして活動している超人気ドラマーです!


青山英樹






https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E6%A8%B9

青山純
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B4%94









郡山市白岩町出身の祖父のルーツを探るために当店ホームページからのご来店でした。

ご来店ありがとうございます。

青山さんは、戸籍などから旧三春藩領で現郡山市白岩町舘という住所にて江戸後期まで遡られて自筆の家系図を作っておられました

また、その筆頭者である初代が三春町斎藤の影山氏から養子に入っているみたいで、そのお墓参りもしたいとのことでした。

白岩町出身の青山という高校の同級生(偶然にも住所が同じで直径の親戚!)がいたり、同じ白岩出身で舞木に在住のお客様で青山さん(体調を崩されていたのでこの日午前中に半年ぶりにご来店)がいました。

また、江戸末期の戸籍上に縁戚のある斎藤の影山さんも当店の長年のお客様です。


さらに、田村四十八舘を調べている中でも白岩舘や関本舘関連に青山氏があったので知りうる限りでお話をさせていただきました。

偶然が重なりすぎるような、不思議なご縁を感じます。

三春青山氏は、戦国期には常葉の山根にあった関本舘主で青山氏
旧山根村(田村市常葉町山根)大字関本上野にありました。


三春城主田村氏の臣 青山忠興が居舘していました。

天正年間、岩城城主 岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。

・青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森館の戦い」で、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷。

後、青山氏は、田村四十八舘白岩館新舘に居舘します。

豊臣秀吉による田村仕置によって田村家が伊達に去ってから青山氏は帰農して白岩村の名主として明治維新を迎えます。


豊臣秀吉による奥羽仕置によって田村家が改易され、若干の旧臣は伊達に仕官しますが、青山氏は帰農して時代が下がり秋田氏統治にあっても「在郷給人」として苗字帯刀御目見得を許された割頭(大庄屋)・名主を代々務めてと明治維新を迎えます。

尚、青山家のように大多数の旧臣は帰農しますが、合戦の敗北による主家断絶ではなかったため敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、家門を称して「御屋形様」呼ばれていました。


三春青山氏の嫡男は代々名前に「忠」の文字が使われていることから徳川譜代や郡上八幡城主青山氏と祖先を同じくする上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身の家系ではないかと考えられます。







旧白岩舘は「風神館」ともいわれる。

田村氏四十八館のひとつで、白岩主膳、後に久賀肥前守の居城。

この三春地方でも戦国乱世といわれたこの時代、三春城主田村氏を取り囲む環境は、群雄割拠、会津芦名、須賀川二階堂、相馬氏、伊達氏、佐竹氏等々周囲に強大な敵があり、正に四面楚歌の状況でした。

白岩風神舘は、三春城主田村義顕が築いた領内防備の後に云う「田村四十八舘」の一角で、須賀川二階堂氏への備えとして三春本城南西の重要な防御の要で、田村家中でも信頼できる城主として駐留させていました。

須賀川勢を率いる二階堂氏は常陸佐竹氏を最前線になったのが、三春城の南西にある斉藤舘と白岩風神舘です。
 二階堂氏の須賀川勢、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。

 しかし、久我肥前は、さすが三春田村氏の中で一、二を争うほどの戦巧者と言われた名将です。それぞれ与力衆を率いて神出鬼没の戦術を使い必死の防衛戦を展開し二階堂勢を苦しめます。さらには、野戦においても勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて突撃し死闘を繰り広げ、須賀川・岩瀬の二階堂勢は、次第に劣勢となり多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。

この戦は三春田村氏の存亡にかかわる未曽有の危機から救った輝かしい武功だったと伝えられています。

 なぜ、白岩舘が「風神舘」と呼ばれているかといえば、舘北西一帯の安山岩が露出した断崖にある風穴から風が吹き出す音が、風神の風の音の様に聞こえるところから付いたとされています。





    
後に白岩舘新舘を築城し青山氏が居舘しますが、青山氏は旧白岩舘をよく保護して戦没者を慰霊しています。

 現在、白岩舘の址には、白岩神明宮、御嶽神社が祀られます。

青山庄右門が、慶応二年奉納した灯籠を見ることができます。



「舞木のお稲荷様」、古くは「舞木の“いなっしゃま”」と称され親しまれてきた「高屋敷稲荷神社」

江戸時代飢饉の際に、御仁徳の厚かった時の天皇(東山天皇か中御門天皇、もしくは前年の元禄期よりの領主、守山藩主か?)から3年間年貢を免除してもらったことに感謝した農民達が、庄屋・鈴木権兵衛を中心に、五穀の神として名高い伏見稲荷大社の御分霊を頂いて祀ったのが、高屋敷稲荷神社の始まりとされています。

以来、享保・明和・天保の大飢饉を経て信者が増えました。


後に、嘉永年間(1848〜1854)に、白岩庄屋の青山久助により、高屋敷稲荷神社の社殿(昭和9年以前の社殿)が建て替えられています。



先輩から聞かされた昔、年寄りから聞かされていた話として、

一族のルーツ、長男・青山氏--白岩庄屋、二男・神山氏---沼沢庄屋、三男・影山氏---斎藤庄屋

これを調べてみたいと思います。









美濃郡上八幡青山氏や篠山青山氏(宗家)と祖を同じくする名門です。

東京青山の地名の由来にもなっています。

江戸の古地図をみると、青山の各地に青山家が点在し、現在の青山中学校や青山霊園、乃木坂などの地に青山家の屋敷がありました。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「商売繁盛祈願」 舞木の稲荷さま~ 高屋敷稲荷神社 |