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中郷さくらの会 歴史講演会 於三春の里 令和元年12月10日(火) 三春昭進堂 髙橋龍一




当三春昭進堂4代に亘ってお世話になっている中郷さくらの会さまより、「城下新町の家屋についている屋号について話してもらいたい」との依頼を受けまして三春城下の成り立ちと共にお話してまいりました。


私の親の世代の方々です。

もちろん、子供のころ顔見知りの方々ですので、緊張し中がらも温かく見守ってもらいながら話を聞いていただきました。



中郷さくらの会 歴史講演会   於三春の里 令和元年12月10日(火)
                      
三春昭進堂 髙橋龍一

1.三春城下の成り立ち
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り、築城したのが始まりと言われます。田村氏は義顕、隆顕、清顕の三代が三春城主としてこの城に拠った。
お城を中心に、北=北町 南=南町 新町=荒町 中町=蒲生2 大町(下大町)=蒲生
新南町(松下)=新町(秋田)

天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成「奥州仕置き」を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。
会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。
家光の代寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、これとは別に嘉明の次男、明利に三春三万石が与えられます。
その間にも城の改修や、町割りそして寺社の建設が進みました。

翌年には明利は二本松に移封され、松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年ほど幕領であったが翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部した。

町割りと修験堂寺院

三春城下の修験には大元帥明王別当学頭坊(山中・明王町)を筆頭に

1、華正院(荒町)馬頭観音堂
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町・王子権現)
5、般若寺(北町・天満宮別当)愛染堂
6、陽照寺(北町切通し)御本尊「阿弥陀如来坐像」は真照寺へ
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井・三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中・大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)西国三十三観音石仏 天澤寺へ
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)百杯宴石碑
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)後秋葉神社 水天宮 智法院屋敷
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、満徳院(丈六)
21、西福寺(中町)愛宕神社別当
22、大光寺(中町)愛宕神社別当 八幡山大光寺
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています
修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。

2.新町の成り立ち
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町(明王町・田村~蒲生)と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形だった。

大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。

真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水は入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。

3.セリ市場付近の屋号





資料参照

4.荒町(新町) 蒲生時代
明治になり、郭境門が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、昔から商工業が盛んなところでした。工業といっても、製糸工場、羽二重工場ですが、旧藩時代から明治大正にかけて盛んでした。
前の三春中学校敷地にあった三盛社は、当時女工150名を使って操業していて、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

街本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、馬頭観音等が立ち並び、寺町でした。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで参っていました。

この場合、町屋のものはその行列に遠慮して通り過ぎるのを待って墓参に行く有様でした。
お盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為です。

小浜海道口の方は、今の渋池の中ほどから、上り二折れしていた道を、先の三春中学校西側に沿うように道路を作り、交通の利便性を図って往来がスムーズになり繁昌していました。

馬頭観音は、古い由緒を持っています。戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。
小野の東堂山、堂坂(現小泉)と共に三観音(馬頭観音)と呼ばれ、庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

5.北町
三分坂 戦国期の三春城主田村公の直参旗本「不断衆」屋敷跡。
後の秋田公代には、藩主及び御城の近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」が屋敷を構えた。
宿直番衆は、昼夜問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せ支給されていたので三分坂と呼ばれたと伝えられている。
旧三春城登城口「天神橋口」
かつては、ここに防火用水と城防御のための、堀があり、この場所に橋がかかっていました。天神橋とは、昔北野天満宮(現北野神社)が、城内にありこの橋を通って領民がお参りに行ったところから名付けられました。
「亀井清水」 かつて、少し上に、郭境相馬海道口黒門があり、その行き帰りにのどを潤したといわれます。

6.八幡町
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。

飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。
八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

7.中町 蒲生
三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。
三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。

御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。
御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。
この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
江戸期秋田氏の時は旗本5千石代官屋敷

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。
大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。

旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。

このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。

新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

8.大町
伊賀屋山三渡辺商店 
第九十三国立銀行 初代頭取 渡邊甚十郎
本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見れます。

呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。
後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。
橋元柳平 明治末芹ヶ沢の田村競輪競馬場 清水馬場
三春狐~ 自由民権運動家弾圧とこの頃の三春藩営やっかみ! 二本松藩

 神田 春山 船田

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。
御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。
舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありましたが、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。
山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。

明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?
また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |