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天明、天保の飢饉 三春藩



天明、天保の飢饉 三春藩

三春藩に限らず、全国諸藩特に東国では江戸時代を通じてたびたび飢饉に襲われたが、宝暦・天明・天保期のそれは、三大飢饉と呼ばれ幕藩体制にも大きな影響を及ぼしている。
天明二~三年(1782~3年) を中心とする 「天明の飢饉」は全国的なものであったが、特に東北地方はひどい打撃を受けた。

夏の土用になっても雨降り続き、六月以来時々綿入れを着るほどの冷気であったから、救物は実らず不足し、数年続きの凶作のために米倉は底をつさ食糧不足は限界に違した。

家中への扶持も半分に、酒、糀(味噌糀を除く)、飴、おこしなど穀物を原科とする商売を停止などしたが焼石に水の有様。

他国は「穀留(こくどめ)」といって他領内への穀類の持出し禁止の制をしき(三春藩でも四年には新館 に相馬への出米を防ぐ穀留番所を設けている)、他藩に流れるのを防いでいる。そのために藩の重役方が、会津·仙台·越後·関東へ足を運んで米の確保に努めたが思うようにはいかなかった。

天保三年、記録によれば領內各村の米の出来高は皆無の所も多く、葛尾、古道、中山、岩井澤などは稲刈りもせずに捨て置き、その他の村でも稲刈りしても種もみも確保出来ない有様でした。わずかに中郷地区·中妻地区のー部やその他数村から年貢米の上納があっただけと記されています。

農民は年貫の「金納願」を出しているが許されず、あるだけの米を納めなければならなかった(上大越村)。

武家·町人をとわず農民までも食物が欠乏し、山野にあってロにはいるものや、今まで食したことのないものまで採取しては少しでも種にしようど藁餅(わらもち)の作り方まで研究された。

天明四年の正月から五月までの117日間、新町 と北町 において、1人親椀(おわん) ニ杯宛の粥がほどこされ、領内一円より来場して延人数4万0161人が恩恵を受けました。

常葉、葛尾、南成田、北成田でも同様なことがあったが、2月になると村々で餓死する者が続出し、ついに領内で1500名に余る餓死による犠牲者を出しました。

全国諸藩を合わせると百十万人の餓死者を出した空前の「天明凶作」は、直接的には天候不順による冷害や洪水などの災害を契機として起こったのであるが、東北地方の低生産カと、領主による租税の収奪の苛酷さからくる江戸幕藩体制による社会経済そのものの矛盾に負うところも大きく、各藩が独自の経済圏を形成し、自給自足的な体制をとっていたこの時代には他藩に飢饉が起こっても積極的な相互扶助・接助ありませんでした。

「天明の凶作」の50年後に、「天保の凶作」が宿命のようにやって来ます。

天保4年(1833年)がとくに酷く、江戸在勤の藩主()は、幕府より暇をもらい、急遽三春へ帰城して、直ちに領内の水稲作柄を巡視している。
そして飢をまぬかれるために、菜、大根をたくさん作り腹を満たすよう奨励している。

しかし、農業そのものの進歩はあまりみられず、その年の天候回復、五穀豊作成就を祈念して領内総鎮守「大元師明王」、城下総社「神明」宮の両社において御祈祷をするのが通例であった。

たび重なる凶作は、農業の生産力、生活力の低い三春藩の財政を困窮させ、藩政そのものをゆるがしたことはもちろんである。

元文元(1736)年の東郷(当時は領内を大きく3つに分けているが2郷、4郷の時もある) 百姓強訴、寛延二(1749)年の全藩規模の強訴、天保七 (1836) 年の鹿又原騒動なども起きている。

また、藩政改革やら家臣による藩政批判もあり、すべて生活の困窮から出てきている。



江戸時代の凶作のうち、享保17年(1732)、天明二年(1782)~七年(1787)、天保四年(1733)~十年(1739)の凶作は江戸期三大凶作とよばれ、飢饉を伴って、餓死者多数を出したことで知られる。

享保の凶作は西国地方を中心とし、奥羽地方の被害は少なかったが、天明・天保の凶作では奥羽地方全域で被害を出した。

天明三年(1783)は、二月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、六月より十月まで霖雨止まず冷涼で、袷を着て焚き火を囲んでいた。

六月の大洪水、七月の浅間山爆発と寒気、八月の北風と大霜と災害が続き、畑作物・田作物が皆無となった。

 領内では、天明三年の凶作において秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽き、三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に非難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から五月まで施粥が実施された。

三春北部の成田村ではでも一ヶ月間施粥が実施された記録が残っていますが、領内の各村で餓死者を多く出しました。

天保七年の凶作では、施粥実施には至りませんでしたが、飢餓に瀕した笹山村などの百姓たちは、当村顔役辰五郎を頭取として鹿又原(現船引)に集まり一揆騒動が起こりますが、大規模な一揆に至る前に鎮圧されました。

また、三春城下での一揆騒動は、元文元年の東郷百姓一揆、寛保二年の五千石百姓一揆、寛延二年の領内惣百姓一揆などは起こり、強訴・諸負担の軽減や減免要求・譜代百姓の待遇改善などを求め城下に迫りました。


三春藩領は阿武隈山系の西側の波浪のように入り組んだ山間に村々が点在する土地で、山間高冷地の農業生産性の低い地域である。

平素より重税が当然化しており、衣食住の倹約が平年でも強いられてきた土地柄であった。

米産地の二本松領に比して米産地でない三春領の被害はより大きく、継続的不作の中で天明凶荒の襲来を受けた。

三春領内の餓死者は1,500人余に上った。

村々の三界萬霊の石塔は、天明飢饉と、後の享保、、天保飢饉における死者への供養塔です。

天明三年(1783)の凶作、四年の飢饉、五年二月の三春城下の大火と災害が続き、天明六年も寒冷が春よりゆるまず、七月の長雨と洪水、八月には暴風雨となって諸作不作。

天明七年には2月・4月に大暴風雨が領内を吹き荒れ、打撃を与えた。



三界万霊石碑は、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔です。

萬霊とは、欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさし、全ての生物の生々流転(せいせいるてん)してやむことのない世界のことをあらわします。

 その全ての世界の精霊を集め、それらを供養するのが、この三界萬霊石碑なのです。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |