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 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩 上 「春陽思ひ附阿津免草」参照  




 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩  「春陽思ひ附阿津免草」参照  

 「春陽思ひ附阿津免草」は、三春城下検断職(現在の町長職) 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治14年まで日記風に書き留めておいた橋元文書を参照して執筆したものです。
 また、「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されており、貴重な資料となっています。

 さらには、江戸末期から明治への激動の転換期を体験した三春城下の商人の商機の見極めと同時に生の息遣いが感じられます。

 嘉永6年の黒船来航以来、幕末の動乱期を迎え三春藩に於いても武器・武具の製作・調達や参勤作法改正に伴って、文久3年には、在方の庄屋を対象に金1500両の献金を命じ、さらに元治元年には、世情の不穂な動きに対して日光警衛を命ぜられた為に、金3500両(現貨幣価値3.5億円位)という莫大な資金を町方および在方より調達し藩財政はひっ迫しています。

 一方、幕府勢力追討の勅命をとりつけた薩摩、長州、土佐を中心とする西軍は、江戸城無血入城を果たした後に、佐幕派の筆頭会津藩、そして、庄内藩討伐へと軍を進めてきます。

東北の諸藩はその対応として、”官軍”を称する薩長などの西軍に対して恭願の意を示しますが、奥羽諸藩を動員して会津藩(元京都守護職・新選組雇用)と庄内藩(元江戸市中取締役”新徴組”頭取)を討てとの命令が出されるに及んで、その真意を疑います。

これは、私的な薩摩・長州の会津藩への憎しみと解して、西軍の理不尽に対抗する動きに変わってきます。

 会津藩や庄内藩からの朝廷への度重なる謝罪や恭順を認めず、しかも奥羽諸藩を先鋒として本気で会津·庄内両藩を攻めなければ「奥州みな敵」という西軍の官軍権力をかさにきたやり方に対しては、諸藩も屈することはできないという態度になってきます。

そのため、 4月20日に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲の呼びかけに応じて、会津、庄内両藩を除く奥羽の25藩すべての代表が白石城に参集し奥羽列藩同盟が結成されるに至ります。




 

この奥羽列藩同盟(後に越後長岡藩牧野家も加わり奥羽越列藩)の趣旨は、朝廷を頂く、官軍に反旗をひるがえすのでなく、あくまで朝廷を介して、私暴の挙に出ている薩摩や長州の非を追及する」という名目でしたが、目前に迫った西軍を迎え撃つ作戦計画も企てられた軍事同盟でそこでは西軍への協力を拒否することと、改めて会津、庄内の両藩を救済するということが決議されました。

 三春藩は、すでに1月15日に家臣の湊宗左衛門 (江戸詰御近習目付)を京都の新政府に出頭させ、当局より「奧羽征討援軍」(会津攻めに協力)についての沙汰書(指示命令書)を受けており、幼少の藩主秋田季映(当時11歳)を秋田主税が後見して西軍に味方すべきか東軍の義に尽すべきか藩論は容易に定まらなかった。

 「会津には同情するが、西軍は錦の御旗を奉じているので朝敵にはなりたくない。しかし、いかにしたら御家安泰が可能か?」という方向で議論が進み藩論が統一されていきます。

 このようなことを背景にして小藩の生き残りりをかけて”東西いずれの陣営にも味方”であると思わせなければならない綱渡り的な行動が開始されます。



 新政府軍が来る前に、三春藩の真意がばれれば、裏切り者として列藩同盟側の攻撃を受け、小さな三春藩はつぶされてしまいます。

 三春藩は、手薄になっている棚倉城を守るため、家老秋田太郎左衛門が藩兵を率いて石川郡岩法寺村(現玉川村)に出陣して他の同盟諸藩とともに新政府軍と戦います。

 この時(22日)新政府より先の沙汰書のことを知り、三春藩は兵を引いています。

24日には棚倉は落城しますが、沙汰書を発令した新政府軍側から、この棚倉出陣を問われ、京都にいる三春藩家老秋田広記らは、約定に反したということで疑われ禁足を命じられることになりますが、もともとの出陣している三春藩兵は藩内の細かな事情までわかるはずはないし、会津藩や列同盟諸藩の手前もあり本気で戦います。
 

この「棚倉出陣」後の状況(事情が日々変化している)から、7月16日の「浅川の戦い」では戦機が過ぎたころ臨場して形式的な戦いに終始しています。

 今度は、列藩同盟側より反同盟の疑いをかけられる始末。列藩同盟に署名した大浦帯刀が秋田伝内と改名したことや、同盟との連絡係が、藩重役から外事掛(新設)に交替したことも疑惑の目で見られていたのである。    

 次号へ続く


   蒼龍謹白  コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝








三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


続き▽
| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |