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塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行




塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行


 幕末・戊辰の役と三春藩 その2 「思ひ附阿津免草」参照

明治元年(慶応4年)、白河城、棚倉城落城の次は、三春城攻略へと主力を移動させてくる薩長土肥を中心とする西軍の動きに対して、会津藩を中心とする東軍(奥羽列藩同盟)は、白河城(当時城主・藩不在)の城代掛二本松藩の前線として三春城を守るべく三春藩領へ続々集結していました。

尚、参照する「思ひ附阿津免草」内で「西軍」から「官軍」、「新政府軍」と表記が変わるところに三春藩内の心情が読み取れます。


7月23日朝には、平城を攻略した西軍の一隊(主力部隊は相馬攻略のため北上)が、磐城街道より仁井町(小野)方面に侵入の情報が入り、三春藩主力と応援の会津藩約70人、仙台藩約50人、福島藩約60人の藩兵が仁井町へ向かいます。

三春藩国境の広瀬村では、三春藩家老秋田勘解由(かげゆ)率いる三春藩兵が 守備を固めていましたが、小競り合いを演じた程度で旧式の武器を捨て撤退しています。

仁井町から三春へ向けて西軍の道案内は、仁井町と堀越村の神官二名が務め、8月3日には田村郡の神官を中心に西軍(官軍)の護衛隊を結成し、先導、連絡、渉外、慰霊の任に当たっています。






二本松藩約50人は、26日早朝、三春藩兵を道案内として守山方面に向け出 発させ赤沼村に待機。この機会を待っていたように、中通り各地に駐留していた西軍が三春城下めがけて進軍を開始。
 同日午前10時より“新政府軍(西軍から新政府軍へ表記変更)来たる”の緊急事態を告げる早鐘・早太鼓“三つ重打ち”が三春の城下に鳴り響きます。


三春藩は、もともと恭順する事前工作が出来ており、藩主後見役秋田主税をはじめとする家老たち藩重役が、柴原村や貝山村、鷹巣村へ出向いて正式に三春藩の恭順を願い出ます。
棚倉戦以来、意の通じている西軍中隊長の土佐断金隊長美正貫一郎(土佐藩士)の計らいなどもあり正式に無血開城と成ります。

 しかし、この“三つ重打ち”の音で城下は大騒ぎになり、数日前から家財を運搬、妻子を在方に預けた者もありましたが、ここに来て城下の町人の中には逃げて行く者も大勢居たと記されています。






 26日の昼ごろから西軍・新政府軍が城下へ入りはじめますが、最初の軍勢は中津川村を経由した先遣隊2000人で、西洋式に太鼓や笛を鳴らして隊列を整えながら柴原道より弾薬や荷駄隊を沢山従えて三春入城を果たします。
 さらに、貝山や鷹巣道、そして、守山筋からもといった具合で、新政府軍の総軍勢5~6000人、ほかに人足1000人ほど。
 翌27日には磐城口の軍勢6000人、28日に3000人というように、続々と新政府軍及び関係者が三春城下へ到着・駐留し、三春町の人口は一挙に3倍半に膨れ上がる始末となりました。

 城下駐留施設も、本陣、藩役所、寺社、御家中屋敷、町家を問わず分宿しており、まるで“市”が立ったように賑やかだったと記されています。

 また、戦火を免れた三春町民は互いの無事を喜び合い、夜中も休まず働き「官軍」新政府軍を接待しています。


 三春藩は、無事「開城・恭順」となりましたが、新たに新政府軍の奥羽列藩同盟軍征討への全面協力という仕事が待ちかまえていました。

 27日、西軍参謀局軍監局より後見役秋田主税、家老荒木国之助、家老小野寺舎人が呼び出され「御居城・御領地・兵器・人民・共に追って沙汰あるまで預かりおく」、「諸事是までの通り」
はよいとしても、「役は勿論、万端さしつかえないように心得よ」と申し渡されます。

 主な賦役には、「新政府軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「政府軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ御殿、後に政府軍総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(城下龍穩院に病院を設置)などです。






 会津攻撃に際しては「中山峠口へ三春藩兵50人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬手配」を命ぜられ、人足達は武器弾薬運搬といいながらも弾丸飛び交う最前線で弾薬を背負い新政府兵員に付き添って戦場を駆けめぐります。

 三春城下近辺はもとより領内全域各村から集められた人足達は文字通り丸腰で荷物を運び続け“命がけ”でその使命を果たしました。
 実際の戦死者も10数名に及んでいます。

 白河、棚倉、二本松、若松など主な城下町は戦場となって荒廃しますが、三春城下は、相馬中村城下などとともに無傷で残り、廃藩置県後の明治の新しい世を迎えても政治経済そして文化の面で県内有数の都市として発展・賑わいを見せ、大正昭和と激動の時代を乗り越えながらも、三春県、磐前県、を経て近代福島県の基礎をつくっていきます。 

 完









蒼龍謹白 コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
五舘跡 片曾根村 田村四十八舘





五舘跡 片曾根村 田村四十八舘


片曾根村大字今泉に五の舘跡があります。


日梅舘は、新屋敷に在り

松舘は、字戸澤に在り

平舘は、字堀之内に在り、

甲舘は、字古舘に在り

乙舘は、平澤前に在り


上記の五舘は、三春城主田村氏の臣が居住していましたが、その詳細は不明です。

近隣諸国との戦いに応じて、移動があったものとも想像されます。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍








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