2021-11-18 Thu
垢潜(あかしろ)集落の(桓武平氏流平将門一門・佐久間氏)由来
鎌倉時代の末期で戦国時代、武士達の争いが続いた時代である。
その武将として関東に勢力を持っていた「平将門の乱」に敗戦、落人となり追われる身となる。
其の時、太平洋岸を今の浜通りを一族(佐久間氏)が奥州地えと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り隠れる一族で、小野町辺りに一時舘を造り住んでいた様な話もあるが解らない。豊後舘の地名があるとか定かではない。(調査不足ママ)
それでも不安で山間の奥地を転々と流れ々現在の地(垢潜地区)に住み着いた佐久間伊勢守、豊後守と四郎兵衛兄弟十数の同志家来の一族共々「火雷神」を守護神にこの地に来たと伝わっている。
垢潜(あかしろ)の地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将としての今迄の懺悔を一切の垢を洗い落とすことでこの地に潜めた安住の地として垢潜と名付けた。守護神は今の在所に祠を造り安置した。
神様も墓地も開闢(かいびゃく)以来五百有余年の間移動していない。
でも、戦国の代であれば一族を守るため舘を造り一族を守りながら長寝舘(富澤舘とも云う)と名付けて畑道を造り生活しながら東西南北に開発したのである。
田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになりて田村領北の守りに仕えた。
年代は不明だが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として館を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に杉沢村との境に青石の里青石村となる。
垢潜の里豊吾が長寝の舘より三春に通じる道路を切り開き富澤の里に通じる小道を開き生活セリ。
道は山の峯を虫送りの山なみを堂作の澤を下りて主幹道にした。
富澤村の中央と定め五本木集落に長寿山と名付け寶傳寺を建立、船引町昔の片曽根村の東光寺を本家寺として住職を迎えていたのである。
当時、協力せる郷族武田家、面川家なども協力した様子。
富澤村も和尚などの指導もあ加わり栄えたものと思われる。
垢潜集落は平地がなく山間の谷を開発し湧き水を利用して水田と成し田頭には至る処に池を造り米を作り畑は山なみの中腹を開墾し雑穀稗粟などにより生活した。
産業は江戸時代の初めより養蚕などをはじめ着物などを造り自活した。
時代は平和になり商いなども商人が出入りするようになり取引商売を出来て蚕を飼育繭を取り糸も自家で引えて絹織物も町に売り火雷神社を中心に一族の結束は固く互いに助け合ながら農
地を拡大し徳川時代は平和となりて、皆百姓にて身を立てた様子。当時屋敷戸数十五、六戸位。
世の進展に従い昭和の世には二十九戸となる。明治時代になって火雷神社の秋祭りには九反の大旗を立て垢潜部落雷神様の旗の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りある。
垢潜集落の沿革 参照
佐久間氏は、桓武平氏流とする平将門(高望王良将系)一門の子孫としています。
佐久間氏の祖となる三浦氏は高望王良文流です。
佐久間氏は房総半島、安房国の佐久間郷に由来します。
三浦氏は、坂東八平氏の一氏で、三浦党とも呼ばれ、鎌倉時代に三浦氏の一族が佐久間郷の地を拝領して土地名の佐久間氏を名乗った事がはじまりとされています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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