2022-05-13 Fri
令和4年「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅
江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」
三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。
伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。
私も春商戦の三連休となりますので、コロナ禍の中ではありますが感染対策を十分とって伊勢参りと安倍實季公の墓参にでかけました。
「世界平和・疫病退散祈願・家内安全・商売繁盛」を祈願したく、外宮、そして内宮さんに於いて御祈祷を受け参拝してまいりました
祭神の豊受大御神は約1,500年前、天照大御神の食事を司るために招かれた食と産業の神様です。
御祈祷の祝詞の中で代表の方々お一人お一人の住所と名前が呼ばれます。
自分の番になり福島県田村郡三春町新町にて三春昭進堂を営む髙橋龍一〜 と呼ばれますと畏敬の念に駆られます。
やはり日本人でよかったなぁと思う瞬間です。
宿泊は外宮さん近くの定宿「紅葉軒」
名物女将さんと記念写真!
お土産までいただきまして、ありがとうございます。
内宮参詣
俗界と聖界との懸け橋といわれる宇治橋を渡り、五十鈴川で手を洗い清めます。
そして、御正殿、風日祈宮さま、荒祭宮さまへ!
日本人の総氏神である天照大御神がお祀りされています。
御神楽御祈祷を受けて身が引き締まりました。
丁度この日は、裏千家献茶式が大神楽殿で行われていたので、御神楽殿での御祈祷となりました。
直会です。
清々しい気持ちで一献!
伊勢神宮内宮参道 門前町“おはらい町”
宇治橋から五十鈴川に沿って続くおよそ800mの美しい石畳の通りには、お伊勢さん特有の切妻・入母屋・妻入り様式の町並みが軒を連ねます。
この通りには、伊勢名物赤福餅で有名な赤福さんの本店、榊原物産店さんはじめ、たくさんの土産物店や飲食店などの商家が建ち並び、参拝後の町歩きがたのしめます。
江戸時代には、伊勢参宮を「お蔭参り」と呼んでいました。
語源を辿りますと、江戸時代伊勢神宮に参拝する間、ことに20年に一度の遷宮のとき、人は身分制度に縛られないという考えがあり、奉公人が主人に無断で伊勢参りをしても咎められることはなかったとされています。
しかし、雇い主に無断で出るわけですから、満足な旅費などあるはずもありません。
それでも、伊勢へ通じる街道筋の裕福な人たちがお金や食物を提供してくれる「お蔭」で、困ることはなかったとされています。
“おかげでお伊勢さんに参詣することが出来た” そこから「お蔭詣り」という語源が出来たとされています。
榊原物産店は伊勢神宮内宮への宇治橋に近い場所にあります。
ご存知の方も多いと思いますが、以前、女将さんにその話を伺ったことがあります。
「伊勢参りには、来るだけでお金がかかります。これは今も昔も変わりません。私たちお伊勢さんの門前で参拝の方々に商いをさせてもらっています。ここで利益を多く載せて商売をしていては罰が当たります。お伊勢さんに支えられている商人は昔からみなそうして商売を続けてまいりました。」
”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。
心の芯から浄化されるような気がいたします。
お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。
かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ誰も居ない内宮さんで共有することができます。
この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。
そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。
一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。
これがお伊勢さんの神威なんでしょう。
ありがとうございます。
三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、来て良かった!
丁度この日は、11日。御神馬の参勤の日です。
出発前に高屋敷稲荷神社の鈴木宮司様より、1の付く日には御神馬様の参勤が朝あるので拝見して御利益を頂いたら・・とのレクチャーを居受けていました。
午前8時、早朝内宮さん参道に御神馬のお出ましです。
約五十人の方々のその光景を一目拝見し御利益を頂こうと参集していました。
私も臨場することが出来ました。
秋田実季公墓所 伊勢朝熊永松寺へ墓参。
秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所
永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。
山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。
戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。
寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。
享年85
実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。
片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。
お千世方は、実季公の第二子であると思われます。
千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。
しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。
そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。
永松寺住職様には、墓所まで足をお運びいただきありがとうございます。
また、本堂にご案内いただき、實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌に手を合わせることが出来ました。
重ねて御礼を申し上げます。
秋田教方萬金丹
伊勢神宮参拝のお土産として名高い「秋田教方萬金丹」
萬金丹は、江戸時代、旅の道中に常備する万能薬とされていましたが、主に胃腸の不調を改善するもので、その効能は、食欲不振、消化不良、胃弱、飲みすぎ、食べすぎ、胸やけ、胃もたれ、はきけ(胃のむかつき、二日酔い、悪酔、悪心)などとなっており、又、配合されている生薬には、下痢、腹痛にも効果があり、その用途は幅広いものでした。
この処方の起こりは奥州三春城主の祖、生駒安倍・安東ノ姓秋田城之介・秋田実季によると伝えられている。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
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