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塵壺371号「目明かし金十郎の生涯」江戸時代庶民生活の実像 阿部善雄著 令和4年6月吉日発行



「目明かし金十郎の生涯」江戸時代庶民生活の実像 阿部善雄著

「目明かし金十郎の生涯」という本を「塵壺」の参考にしては?と先輩から紹介していただきました。

著者は旧三春藩とは隣接する旧磐城守山藩松平家2万石の守山陣屋(現郡山市田村町守山)日記である「奥州守山藩御用留帳」という貴重な史料を発見された研究者で、「目明し金十郎の生涯」は、この「御用留帳」に基づいて書かれています。





主人公である“目明かし金十郎”こと吉田金十郎は実在した人物で、本藩の陣屋がある守山村山中に居住していました。金十郎は、若い頃から博打や遊興の世界にどっぷり漬かり、もっぱら裏の世界で生きてきたいわゆる“やくざ者”で、いつしか顔役になっており、それを請われて目明しになったという経歴の持ち主です。

享保9年(1724年)~元文3年(1766年)までの42年間、徳川幕府でいうと徳川吉宗・家重・家治の時代に約46年もの間“目明かし”を勤めていました。





目明かしというと、私たちは「伝七捕り物帖」や「銭形平次」など“岡っ引きの親分”、そして“十手”を思い浮かべますが、守山藩(江戸以外の諸藩領の目明しも同様)では“十手”を持ちませんでした。
その代わり藩士・名主と変わらない黒紋付の羽織和装の身なりや、刀剣の二本差しである“帯刀”が認められていましたから、時代劇で云う所の同心・与力という姿だったと記されています。

磐城守山藩領は、現在の郡山市田村町の守山から蒲倉・舞木・山田・西田町三丁目など阿武隈川の東岸31ケ村と大洗町松川陣屋管轄の常陸国松川領34ケ村(現在の茨城県大洗町付近)がありました。

目明しである金十郎の管轄は守山藩領だけではなく、隣接する旧三春藩領、天領柳橋など広範囲にわたり、資料の中でも江戸時代の地方の治安や村の様子が短編ながら詳細に描かれています。






博打を摘発されて菩提寺に駆け入りして図々しくも赦免を懇願する農民や、怒濤のように押し寄せる百姓一揆の怒号。また、湯殿山をめざして道中を連れ立った老夫婦の仲睦まじい旅姿、困窮の果てに出奔した親子三人を金十郎が自費で探しに行くも結局行方知らずだったり、“出稼ぎ”と称して三春藩家中でちゃっかり陪臣足軽をやっている農民を摘発したり、阿久津村などの村の顔役に芝居興行を許可することが金十郎の収入なっていた等々、その時を生きた庶民の不安や喜びなど生の声が聞こえて来るようです。


金十郎が活躍した時代、立て続けに起こった大飢饉(だいききん)や大地震、そして長雨など天変地異が庶民の生活にも重大な影響を及ぼし、そうした世情の不安定な中を芝居、湯治、博打などにわずかな楽しみを求めて懸命に生き抜いた人々の姿を余すことなく記されています。

磐城守山藩は、松平氏で徳川御三家である水戸藩徳川家の分家で、水戸家初代徳川頼房の子、光圀の異母弟松平頼元を藩祖(常陸額田藩)としますが、元禄13年(1700)に、その子頼定の時に額田を返上し、新たに田村郡磐城守山をはじめ常陸行方郡、鹿島郡、茂城郡に封を受けました。

当初は鹿島郡松川村に陣屋がおかれましたが、その後宝暦6年(1756)に磐城国守山の地に陣屋が移され守山藩となりました。





当然幕府内での家格が高く、江戸城では仙台伊達氏や長州毛利氏、薩摩島津氏と同じ大広間詰でした。
また、水戸藩は、江戸幕府徳川家特例で江戸に常在し参勤交代がありませんでした。

本家水戸藩同様、分家である守山藩もいわゆる江戸常府で参勤交代が免除されていました。

このような事情から守山藩歴代藩主松平氏は江戸小石川の藩邸に定住し、藩士も代官役の藩士(3人)以外は一度も守山を訪れたことはないのではないかと考えられます。






幕府御家直参旗本家の所領管理もほとんどが同様で、領地を代官や村役人に任せて年貢の徴収だけでしたので、治安を守る現在の警察業務を預かる“目明し”の役割が大変重要になっていました。

尚、最後の守山藩主松平頼之(まつだいらよりゆき)公は、徳川最後となる15代将軍・徳川慶喜公の弟です。


蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 04:00 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |