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「田村四十八舘東方与力」 御春輩(みはるのともがら) 田村武士団その3



御春輩(みはるのともがら)「田村四十八舘」田村武士団その3


室町幕府・足利政所の衰退からの戦国時代、織田信長による“いつでも”戦いをすることができる“銭で雇った兵”の創設を原資とする「農兵分離」政策によって軍事戦略が劇的に変革して、四季を通じて一年中戦が出来るようになります。

それまでの農民=武士(兵士)では、春秋の農繁期になると田植えや稲刈り等農作業で忙しく戦どころではありません。信長以前には戦国最強と云われた武田や上杉などの軍勢も既存の農民兵が主体なので、軍事行動は春と秋の農繁期を避けて行っていました。


地方の国人衆は、「兵農分離」そして太閤秀吉による「刀狩」等の政策を導入するという段になって、先祖伝来の所領(土地)がある「在家惣領家」は、その生活(収入)基盤である所領を手放してまで武士(兵士)として生きるという選択肢はあり得なかったと考えられます。







「上石過足舘」中山太郎右衛門尉

「牛縊舘(うしくびりたて)・城」 牛縊壱岐五郎エ門 三百五十石 三春札場迄一里半
出舘として「白石館」、「八幡館」がありました。


「樋渡舘」樋渡藤八郎

「駒枝舘」永井五郎


「黒木舘」黒木信濃守 田村旗本近習 与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録)黒木大膳 

「海老根舘」三本木十郎右エ門


「赤沼舘」赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里








「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」

木目沢式部内蔵之助 田村家御一門中御家門方

内蔵之助の一男善次郎。孫大槻内蔵之助。(田母神氏旧記)

出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継(田村月斎の7男)の居館

そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。






 木目沢鎮守三渡神社では木目沢三匹獅子舞が伝承。口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。









「下枝上舘(したえだかみたて)」 旧御舘村下枝 

三春城主田村氏の一門、田村四天王と呼ばれた重臣橋本刑部少輔顕徳(あきのり)の居舘。

田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。

田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も田村月斎顕頼二男との記載が在り.

弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春城主・田村家三代清顕の死後、田村家中が相馬方(清顕夫人実家)と伊達方(伊達政宗夫人・愛姫嫁先)に二分する御家騒動の際には伊達方につき、家中を伊達方へ導きます。

仙台藩片倉家文書の中には、田村宿老「橋本伊豫守」及び橋本又十郎の名がありますが刑部は別と考えられます。

天正17年には、清顕亡き後の田村家混乱に乗じた岩城城主岩城常隆勢が、田村家中の反伊達派の加勢を受けて田村領に侵入し伊達派の拠点となる鹿股舘、門澤館と次々に攻め落とし、次に伊達派の統帥橋本刑部が護る下枝舘に狙いを定め攻撃を仕掛けますが、逆に迎撃した田村勢によって撃退され大敗を喫しています。


その際、田村を離反し岩城勢に組した元船引城主田村清康、飯豊舘主郡司某(敏良?)など多数の田村家旧臣が討ち取られています。









「下枝脇舘」旧御舘村下枝 三春田村氏没落後に廃城。

三春城主田村氏の重臣、横田盛尊・平内左衛門の居舘

横田盛尊は、会津城主芦名盛實の二男綱實で、安積郡横田城に在って横田氏を名乗ります。

その五世の孫にあたる盛兼の代に、須賀川城主二階堂遠江守に攻められ横田城は陥落、平姓田村満顕に属します。

以来、代々田村氏に仕え金屋平舘に居住します。

盛兼の孫、盛尊になって下枝脇舘に移居し、後の綱晴の代、天正十八年に三春田村氏の没落により帰農し、柳橋村字篠坂(現中田町柳橋字篠坂)居住します。

以来、その子孫が継承して十四代(明治期)当代の朝右衛門まで横田氏伝来の寶を伝承していると伝わっています。
   





 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
「田村四十八舘東方与力」 御春輩(みはるのともがら) 田村武士団その3



御春輩(みはるのともがら)「田村四十八舘」田村武士団その3


室町幕府・足利政所の衰退からの戦国時代、織田信長による“いつでも”戦いをすることができる“銭で雇った兵”の創設を原資とする「農兵分離」政策によって軍事戦略が劇的に変革して、四季を通じて一年中戦が出来るようになります。

それまでの農民=武士(兵士)では、春秋の農繁期になると田植えや稲刈り等農作業で忙しく戦どころではありません。信長以前には戦国最強と云われた武田や上杉などの軍勢も既存の農民兵が主体なので、軍事行動は春と秋の農繁期を避けて行っていました。


地方の国人衆は、「兵農分離」そして太閤秀吉による「刀狩」等の政策を導入するという段になって、先祖伝来の所領(土地)がある「在家惣領家」は、その生活(収入)基盤である所領を手放してまで武士(兵士)として生きるという選択肢はあり得なかったと考えられます。


「上石過足舘」 中山太郎右衛門尉







「牛縊舘(うしくびりたて)・城」

 牛縊壱岐五郎エ門 三百五十石 三春札場迄一里半 出舘として「白石館」、「八幡館」がありました。


「樋渡舘」樋渡藤八郎

「駒枝舘」永井五郎


「黒木舘」黒木信濃守 田村旗本近習 与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳 

「海老根舘」三本木十郎右エ門


「赤沼舘」赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里







「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」

木目沢式部内蔵之助 田村家御一門中御家門方

内蔵之助の一男善次郎。 田村家宿老田村月斎末裔

孫大槻内蔵之助。(田母神氏旧記)

出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継(田村月斎の7男)の居館

そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。


 木目沢鎮守三渡神社では木目沢三匹獅子舞が伝承。

口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。








「下枝上舘(したえだかみたて)」 旧御舘村下枝 

三春城主田村氏の一門、田村四天王と呼ばれた重臣橋本刑部少輔顕徳(あきのり)の居舘。

田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。

田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も田村月斎顕頼二男との記載が在り.

弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春城主・田村家三代清顕の死後、田村家中が相馬方(清顕夫人実家)と伊達方(伊達政宗夫人・愛姫嫁先)に二分する御家騒動の際には伊達方につき、家中を伊達方へ導きます。

仙台藩片倉家文書の中には、田村宿老「橋本伊豫守」及び橋本又十郎の名がありますが刑部は別と考えられます。

天正17年には、清顕亡き後の田村家混乱に乗じた岩城城主岩城常隆勢が、田村家中の反伊達派の加勢を受けて田村領に侵入し伊達派の拠点となる鹿股舘、門澤館と次々に攻め落とし、次に伊達派の統帥橋本刑部が護る下枝舘に狙いを定め攻撃を仕掛けますが、逆に迎撃した田村勢によって撃退され大敗を喫しています。


その際、田村を離反し岩城勢に組した元船引城主田村清康、飯豊舘主郡司某(敏良?)など多数の田村家旧臣が討ち取られています。







「下枝脇舘」旧御舘村下枝 三春田村氏没落後に廃城。

三春城主田村氏の重臣、横田盛尊・平内左衛門の居舘

横田盛尊は、会津城主芦名盛實の二男綱實で、安積郡横田城に在って横田氏を名乗ります。

その五世の孫にあたる盛兼の代に、須賀川城主二階堂遠江守に攻められ横田城は陥落、平姓田村満顕に属します。

以来、代々田村氏に仕え金屋平舘に居住します。

盛兼の孫、盛尊になって下枝脇舘に移居し、後の綱晴の代、天正十八年に三春田村氏の没落により帰農し、柳橋村字篠坂(現中田町柳橋字篠坂)居住します。

以来、その子孫が継承して十四代(明治期)当代の朝右衛門まで横田氏伝来の寶を伝承していると伝わっています。




   

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| ryuichi | 04:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |