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三春舞鶴通信第20号寄稿 「三春産馬」三春町×montbell×おたりまんじゅう×サライ 



三春舞鶴会機関紙「三春舞鶴通信第20号」 令和4年10月2日発行


三春舞鶴通信の第20号に寄稿いたしました。


「三春産馬」三春町×montbell×おたりまんじゅう×サライ 

三春は「東北の小鎌倉」と呼ばれる小さな城下町です。三春滝桜のお陰で毎年春の開花の時節になると全国、近年では世界中から“紅枝垂れ桜の綺麗な小さな城下町”と脚光を浴びています。

その三春城下で小さな饅頭屋「三春昭進堂」を営んでいますが、当店の知名度を全国区にするのは途方もないお金と労力が掛かります。

しかし、三春滝桜という最高の広告塔のお陰で「三春」をメインに宣伝・案内すれば「三春の饅頭屋」ということで全国区に近づけると考えて「三春の宣伝9割、饅頭の宣伝1割」の情報発信を続けています。

毎年、春先になるとテレビ雑誌等のメディアの方々からの当店へ問い合わせや取材依頼が多数寄せられるのもそうしたことからだと思っています。

それに則って、私も小さな営業マンとして微力ながら各種メディアやホームページ、そして毎月発行の新聞折り込みチラシ「塵壺」(旧三春藩領内1万5千部発行)などを通じて「小さな城下町三春」を自分のスタンスで宣伝しています。






昨年の夏から地元テレビ局KFB福島放送の番組「シェア」に出演(月一回程度)して三春昭進堂や滝桜はもちろん田村大元神社や真照寺等々の寺社仏閣、そして、若松屋旅館や三ツ美屋旅館などの繁盛店を案内してきました。

“三春が好きで三春の歴史の興味を持ち楽しんで生活しています!”と、三春の小中学校や高齢者学級などから講話依頼を受けた時には塵壺を元に三春の歴史を中心にお話をしています。






お陰様で、東日本大震災や昨今の新型コロナウイルス蔓延の中にあっても順調に商いを続けることが出来ているのも故郷“三春”に護られているということなのかもしれません。

また、三春の歴史や歴代三春城主のお名前を広告や講話の中で一番使わせていただいていると思っていますので、御礼の意味も込めて伊勢神宮参詣の折には伊勢朝熊にある永松寺(實季公の幽閉草庵)の三春藩主初代秋田俊季公実父、高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にて手を合わせ、宮城は白石市では片倉家廟所の近くにある田村清顕公の墓前にも参ります。






先には、小学館発行の人気雑誌「サライ」(令和4年10月6日発刊)へ三春町の特集が4ページにわたって掲載され当店も取り上げられています。

この特集は、三春町と連携協定が締結されたアウトドア用品メーカーのmontbell(モンベル)、そして、サライも加わっての「三春特集」です。

三春を掘り下げて紹介するという企画の中で、三春滝桜はもちろん三春出身のアウトドアの第一人者である故田部井淳子氏と共に「三春産馬」が取り上げられ、「三春産馬」や通称“せり場”と呼ばれる「旧三春家畜市場」、そして、そのせり場に隣接する三春昭進堂と“歴史に詳しい饅頭屋店主”として担当の記者から引き合いがあった次第です。





以下は、小学館「サライ」の取材時に説明した内容です。

三春城下旧磐城海道沿いの水芭蕉の咲く寺として知られる藩主祈願寺真照寺の門前、そして三春駒の名で知られる三春産馬や牛の「競り市場」の目の前に立地しています。

明治の終わり頃、私の曾祖父の初代民四朗の妻おたりが、競り市に集まる博労(畜産農家)達に買い求めてもらおうと作った素人饅頭が美味いと評判になり、“おたりさん”が造る
三春名物「おたりまんじゅう」として現在でも三春内外の方々に親しまれています。

三春産馬(三春駒)の起原は古く、歴史をたどってみると坂上田村麻呂伝説から始まり、 安倍貞任を八幡太郎源義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと記録さす。

更に戦国大名三春城主田村義顕公の頃、三春城下荒町と堂坂(現郡山市西田町堂坂)に馬頭觀世音を建立、信仰したといわれています。

天正年間、渡辺助左エ門が徳川家康小山陣の折に黒駿馬14匹を奉献したと伝えられ、江戸時代に入って秋田河内守俊季公の三春入府後には、ますますその増殖がはかられています。

秋田藩政では「馬奉行」を設けて産馬殖産され藩主参勤交代の際には黒毛駿馬を献上するなど、坂上田村麻呂の三春駒伝説以来、全国有数の農耕馬や軍馬の産地として知れ亘る様になりました。


 三春産馬競り市場は通称「せり場」と呼ばれ、旧三春藩領の馬・牛の競り市は、現在と同じ城下新町の真照寺下の広場で盛大に行われてきました。

新町は、江戸期より三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城海道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りなど藩の政策が明治期以降も生かされ三春の自由民権運動を資金面で支えるような大商人や庚申坂(後弓町新地)に遊里が軒を並べていました。







明治維新後から昭和初頭にかけては農耕馬、そして陸軍納入軍馬のせり市場として最盛期を迎え、雌馬の市が五月、雄馬の市が十一月に大々的に開かれ全国の馬喰たちが多数来町して三春城下は馬市一色の賑わいを見せたと云われています。

 競り市の開催時に新町筋には、茶店や露天商の屋台が大元帥明王下の山中まで建ち並びました。

夜ともなれば遠来の馬喰や馬を売買に来た農家たちが繰り出す「旧庚申坂遊郭弓町新地」からお囃子の太鼓が鳴り響き、この界隈は祭礼のごとき賑わいでごった返しの人出があったといいます。

今でも、新町筋で「相模屋」「長門屋」「仙台屋」「谷屋」などと屋号で呼ばれている家がありますが、当時の馬喰宿時代の名残でそれぞれに庭先に馬小屋をおいて宿としていました。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春舞鶴会 |