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塵壺376号 令和4年11月発行 「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4




塵壺376号 令和4年11月発行

「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4

戦国期に書かれた伊達、片倉、田母神等の文書に「田村四十八舘」舘主(城主)が記載されています。
これらの舘には、新舘、古舘、オチ舘またはオツ舘と呼ばれる舘跡が付随し、”舘之腰”や“馬場”“的場”など城郭にちなむ地名が今も残っています。

また、時期の推移や戦況により築城や廃城があり、舘主の移動も見て取れます。


「木村城(舘)」旧逢隈村(現郡山市西田町)大字木村に在り「舘山」と呼ばれています。

木村越中守、木村内記(天正年間)が居舘。口伝では、木村越中守の先祖木村内記は、当初は同村の古舘に居住していましたが、後に「木村城」に移ります。

室町後期の永亨年間、田村庄司田村満顕の組下木村左京之介忠高の築城で”木村(城)舘”と呼ばれています。

以後、木村氏は忠高以来子孫子の9代に亘って栄え、天正10年迄150年間居城しています。

7代清慶木村右馬之介は永録六年の春、三春城主田村隆顕に従って二階堂信濃守輝行と石川郡江持で戦っています。

この時、敵将渡辺刀称外一将の首を討ちとり武功を立てた勇将と伝わります。

8代の信常左京之介英太郎は、永録8年2月18日田村清顕公につき石川小平大膳を攻めて敵将本田太郎右工門親子を討取りたる名将でしたが、天正10年に至って田村氏と不和を生じ、密かに会津芦名氏と親交を結んだことが露見して清顕公の怒りをかいます。

同年春には清顕公自らが軍勢を率いて木村氏を攻め、信常は戦いに利なく、田村の将鬼生田弾正(鬼生田舘主)勢及び前舘主水(前舘舘主)勢と戦って討ち死、その子信光も一族郎党と共に戦死して木村城は落城しています。

この時、信光の妹“鶴姫”は大隈川(阿武隈川)に身を投げて自害し、この淵は今でも「鶴ヶ淵」と呼ばれています。

尚、鬼生田の廣度寺に伝わる「鶴姫の鐘」は鶴姫供養に由来します。





木村氏滅亡後、この城は田村本家の持城となり、天正14年(1586)に田村清顕が没した後は、根木屋・宮田をふくむ木村郷は伊達政宗の命によって田村月斎・橋本刑部少輔顕徳らが統治しています。

木村城には橋本刑部が城主となり、城代として橋本太郎佐衛門(刑部弟)、橋本孫左衛門(刑部娘婿)が居住しています。

この時期は、伊達氏による奥州征覇の時期と重なり、田村家の内紛に係る「田村仕置」などの政治的な背景から、阿武隈川を望むこの本城跡が田村家伊達方の軍事的な最重要拠点として田村家重鎮の橋本刑部を配して城郭を現在の形に改築されたと思われます。

 後に橋本刑部は、田村家中伊達派の重臣として太閤秀吉による「田村仕置」田村家改易に異を唱え、豊臣の中枢大阪へ出向き五奉行筆頭石田三成に“田村家改易取り消し”を訴えたがその甲斐がなかったとの記述が残されています。「一関田村家田村系譜」


「三城目舘」旧逢隈村(現西田町三丁目)舘主今泉主水
三城目には「穴沢舘」舘主穴沢新助、「桜内舘」、「西田山王舘」が支舘として構築され防御を固めていました。

「前舘舘跡」 三城目(西田町) 舘主 前舘主水

「鬼生田舘(おにゅうだたて)」舘主 鬼生田弾正顕常

田村家一門 東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 「田村家臣録」(片倉文書) 田村家改易後、伊達家に仕官した鬼生田氏は伊達藩から分藩した宇和島藩藩士(江戸勤番)となっています。(田母神家旧記)

「大田村上舘」(現西田町)舘主 村上刑部之介の居舘と伝わっています。

「黒鹿毛山舘」旧丹伊田村にあり、田村月斎頼顕の二男・新田土佐守顕成(顕輝?)が与力三十五騎と新田内蔵助とその配下足軽五十人を従えて居住。

「阿久津舘」 田村月斎頼顕の六男・阿久津右京亮顕義、阿久津左京 田村家御家門衆

尚、月斎の息子は、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)は上宇津志城主、三男・新田民部顕輝は新田城主、四男・石見守顕朝、五男・湊川右馬助顕純、七男・木目澤善五郎顕継、八男・大槻内蔵頭顕直。(仙道表鑑参照)






「御春輩」とは、室町初期に記された「沙弥宗心書状」(結城古文書写)に表記された田村地方の武士衆を示す名称です。


蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝 


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塵壺376号 令和4年11月発行 「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4




塵壺376号 令和4年11月発行

「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4

戦国期に書かれた伊達、片倉、田母神等の文書に「田村四十八舘」舘主(城主)が記載されています。
これらの舘には、新舘、古舘、オチ舘またはオツ舘と呼ばれる舘跡が付随し、”舘之腰”や“馬場”“的場”など城郭にちなむ地名が今も残っています。

また、時期の推移や戦況により築城や廃城があり、舘主の移動も見て取れます。


「木村城(舘)」旧逢隈村(現郡山市西田町)大字木村に在り「舘山」と呼ばれています。

木村越中守、木村内記(天正年間)が居舘。口伝では、木村越中守の先祖木村内記は、当初は同村の古舘に居住していましたが、後に「木村城」に移ります。

室町後期の永亨年間、田村庄司田村満顕の組下木村左京之介忠高の築城で”木村(城)舘”と呼ばれています。

以後、木村氏は忠高以来子孫子の9代に亘って栄え、天正10年迄150年間居城しています。

7代清慶木村右馬之介は永録六年の春、三春城主田村隆顕に従って二階堂信濃守輝行と石川郡江持で戦っています。

この時、敵将渡辺刀称外一将の首を討ちとり武功を立てた勇将と伝わります。

8代の信常左京之介英太郎は、永録8年2月18日田村清顕公につき石川小平大膳を攻めて敵将本田太郎右工門親子を討取りたる名将でしたが、天正10年に至って田村氏と不和を生じ、密かに会津芦名氏と親交を結んだことが露見して清顕公の怒りをかいます。





同年春には清顕公自らが軍勢を率いて木村氏を攻め、信常は戦いに利なく、田村の将鬼生田弾正(鬼生田舘主)勢及び前舘主水(前舘舘主)勢と戦って討ち死、その子信光も一族郎党と共に戦死して木村城は落城しています。

この時、信光の妹“鶴姫”は大隈川(阿武隈川)に身を投げて自害し、この淵は今でも「鶴ヶ淵」と呼ばれています。

尚、鬼生田の廣度寺に伝わる「鶴姫の鐘」は鶴姫供養に由来します。





木村氏滅亡後、この城は田村本家の持城となり、天正14年(1586)に田村清顕が没した後は、根木屋・宮田をふくむ木村郷は伊達政宗の命によって田村月斎・橋本刑部少輔顕徳らが統治しています。

木村城には橋本刑部が城主となり、城代として橋本太郎佐衛門(刑部弟)、橋本孫左衛門(刑部娘婿)が居住しています。

この時期は、伊達氏による奥州征覇の時期と重なり、田村家の内紛に係る「田村仕置」などの政治的な背景から、阿武隈川を望むこの本城跡が田村家伊達方の軍事的な最重要拠点として田村家重鎮の橋本刑部を配して城郭を現在の形に改築されたと思われます。

 後に橋本刑部は、田村家中伊達派の重臣として太閤秀吉による「田村仕置」田村家改易に異を唱え、豊臣の中枢大阪へ出向き五奉行筆頭石田三成に“田村家改易取り消し”を訴えたがその甲斐がなかったとの記述が残されています。「一関田村家田村系譜」






「三城目舘」旧逢隈村(現西田町三丁目)舘主今泉主水
三城目には「穴沢舘」舘主穴沢新助、「桜内舘」、「西田山王舘」が支舘として構築され防御を固めていました。

「前舘舘跡」 三城目(西田町) 舘主 前舘主水

「鬼生田舘(おにゅうだたて)」舘主 鬼生田弾正顕常

田村家一門 東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 「田村家臣録」(片倉文書) 田村家改易後、伊達家に仕官した鬼生田氏は伊達藩から分藩した宇和島藩藩士(江戸勤番)となっています。(田母神家旧記)

「大田村上舘」(現西田町)舘主 村上刑部之介の居舘と伝わっています。

「黒鹿毛山舘」旧丹伊田村にあり、田村月斎頼顕の二男・新田土佐守顕成(顕輝?)が与力三十五騎と新田内蔵助とその配下足軽五十人を従えて居住。

「阿久津舘」 田村月斎頼顕の六男・阿久津右京亮顕義、阿久津左京 田村家御家門衆

尚、月斎の息子たちは、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)は上宇津志城主、三男・新田民部顕輝は新田城主、四男・石見守顕朝、五男・湊川右馬助顕純、七男・木目澤善五郎顕継、八男・大槻内蔵頭顕直。(仙道表鑑参照)






「御春輩」とは、室町初期に記された「沙弥宗心書状」(結城古文書写)に表記された田村地方の武士衆を示す名称です。


蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝 


| ryuichi | 03:46 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |