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「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5





「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。







「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。


「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝







先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。


「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。


訂正いたします。


| ryuichi | 03:04 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
塵壺377号 「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5 




「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。


「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。







「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝






先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。

「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。

訂正いたします。


| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |