2023-02-01 Wed

塵壺379号
御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行
戦国期の田村領では、平姓田村氏の一族である「御家門」を中心とした地域的な家臣団を形成し、それぞれの所領と城・舘を持ち、その土地の土豪・地侍いわゆる「在家」を配下として半自立的な立場であったとみられます。
このことは、室町時代末に記された『田母神氏旧記』や『田村家臣録』をみますと「田村四十八舘」と称された領内の東西南北に配置された各々の城舘、そして駐留する与力の騎馬武者衆やそれらに付随する小者の数、さらには、城(舘)下に整備された町並み等からも見て取れます。
また、田村領(田村庄・小野保)は、田村庄司家御代の室町時代中期に結ばれた一族一揆録「仙道国人一揆(応永十一)」の記名人を母体として形成され、田村荘(庄)を中心に小野保を含んで編成され、白川氏に大きく依存していた篠川・稲村両公方という鎌倉府体制下で、関東管領や奥州探題との関係でバランスをとりながら田村庄司家の田村氏は独立を保ち、後の戦国大名平姓三春田村氏へとつながっていきます。

「常葉城」 別名「旭城(朝日舘)」
常葉伊賀守・東方与力四十騎 常葉彦右衛門・東方与力四騎
戦国期天正年間の常葉城主には、播磨国主赤松円心の孫の赤松越前守顕則から常葉氏に改名した5代常葉甲斐守貞久まで居城して三春田村氏に属し常葉地方を治めていました。
戦国時代真っただ中の常葉甲斐守定貞之の頃に、東の相馬義胤の田村攻略の際に常葉城は相馬勢の猛攻を受け落城し常葉勢は敗走してしまいます。
後に常葉氏は会津蒲生氏郷に仕え会津に居住、その子孫は会津に在りましたが現在は北海道に移住したと伝わっています。
常葉氏敗走後に常葉城を田村勢が奪い返し、岩井沢舘主(後に再記載)石澤(赤石澤)修理亮が城主となって常葉城を預かります。
「岩井沢舘」 舘主 石澤(赤石澤) 修理亮
天正17年6月10日、 相馬義胤は田村家の内紛に乗じて岩井沢舘(都路) に侵攻して攻め落とします。
さらに、相馬義胤は岩井沢舘を拠点として稲ヶ瀬舘、そして常葉城を攻めます。
石澤(赤石澤)修理亮以下田村勢300 人、伊達政宗からの援軍として桑折摂津守以下伊達勢300 人が加わり常葉城を守備、数日にわたり攻防を繰り返したのち相馬勢は外郭を落とし、三ノ曲輪をも破ります。
二ノ曲輪も危うく思われたころに田村宗顕は橋本刑部、田村宮内大輔に500の兵を差し添えて常葉城に駐屯させたので、本丸は堅固に持ちこたえました。
天正17年6月、会津の本城黒川 (後の若松) に入った政宗は、この報に接して伊達成実 、白石宗実、原田宗時、平田周防守に3千の軍勢を援軍として三春に派遣、さらに伊達郷、信夫郷、刈田郷、柴田郷の軍勢約150騎を二本松の塩松に布陣させて迎撃態勢を整えます。
佐竹氏、岩城氏、相馬氏の軍勢は7月まで対陣しますが、結局三春を攻められずに、ついに帰陣します。
「西向舘」 常葉町西向 三善中納言常光居住、千二百石 後舘主 新城宮内
・常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳
「関本舘」 舘主関本太郎右エ門 大字関本上野(田村市常葉町山根)にありました。
後に青山忠興が居舘していました。
天正年間、岩城城主岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。
青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森舘の戦い」で伊達政宗勢に属した三春城主田村清顕公に従い参戦し、大内定綱勢と戦い負傷。
「古道舘」 都路町古道字舘ノ腰に在り、北畠勝光の居舘。
津島・葛尾・古道・岩井沢の4か村は、戦国時代に相馬顕胤の娘・喜多姫が三春2代城主田村隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りした際に相馬氏より田村氏へ喜多姫の化粧代として田村領に編入されています。

蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:40 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
2023-02-01 Wed

塵壺379号
御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行
戦国期の田村領では、平姓田村氏の一族である「御家門」を中心とした地域的な家臣団を形成し、それぞれの所領と城・舘を持ち、その土地の土豪・地侍いわゆる「在家」を配下として半自立的な立場であったとみられます。
このことは、室町時代末に記された『田母神氏旧記』や『田村家臣録』をみますと「田村四十八舘」と称された領内の東西南北に配置された各々の城舘、そして駐留する与力の騎馬武者衆やそれらに付随する小者の数、さらには、城(舘)下に整備された町並み等からも見て取れます。
また、田村領(田村庄・小野保)は、田村庄司家御代の室町時代中期に結ばれた一族一揆録「仙道国人一揆(応永十一)」の記名人を母体として形成され、田村荘(庄)を中心に小野保を含んで編成され、白川氏に大きく依存していた篠川・稲村両公方という鎌倉府体制下で、関東管領や奥州探題との関係でバランスをとりながら田村庄司家の田村氏は独立を保ち、後の戦国大名平姓三春田村氏へとつながっていきます。

「常葉城」 別名「旭城(朝日舘)」
常葉伊賀守・東方与力四十騎 常葉彦右衛門・東方与力四騎
戦国期天正年間の常葉城主には、播磨国主赤松円心の孫の赤松越前守顕則から常葉氏に改名した5代常葉甲斐守貞久まで居城して三春田村氏に属し常葉地方を治めていました。
戦国時代真っただ中の常葉甲斐守定貞之の頃に、東の相馬義胤の田村攻略の際に常葉城は相馬勢の猛攻を受け落城し常葉勢は敗走してしまいます。
後に常葉氏は会津蒲生氏郷に仕え会津に居住、その子孫は会津に在りましたが現在は北海道に移住したと伝わっています。
常葉氏敗走後に常葉城を田村勢が奪い返し、岩井沢舘主(後に再記載)赤石澤修理亮が城主となって常葉城を預かります。
「岩井沢舘」 舘主 赤石澤修理亮
天正17年6月10日、 相馬義胤は田村家の内紛に乗じて岩井沢舘(都路) に侵攻して攻め落とします。
さらに、相馬義胤は岩井沢舘を拠点として稲ヶ瀬舘、そして常葉城を攻めます。
赤石澤修理亮以下田村勢300 人、伊達政宗からの援軍として桑折摂津守以下伊達勢300 人が加わり常葉城を守備、数日にわたり攻防を繰り返したのち相馬勢は外郭を落とし、三ノ曲輪をも破ります。
二ノ曲輪も危うく思われたころに田村宗顕は橋本刑部、田村宮内大輔に500の兵を差し添えて常葉城に駐屯させたので、本丸は堅固に持ちこたえました。
天正17年6月、会津の本城黒川 (後の若松) に入った政宗は、この報に接して伊達成実 、白石宗実、原田宗時、平田周防守に3千の軍勢を援軍として三春に派遣、さらに伊達郷、信夫郷、刈田郷、柴田郷の軍勢約150騎を二本松の塩松に布陣させて迎撃態勢を整えます。
佐竹氏、岩城氏、相馬氏の軍勢は7月まで対陣しますが、結局三春を攻められずに、ついに帰陣します。
「西向舘」 常葉町西向 三善中納言常光居住、千二百石 後舘主 新城宮内
・常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳
「関本舘」 舘主関本太郎右エ門 大字関本上野(田村市常葉町山根)にありました。
後に青山忠興が居舘。
天正年間、岩城城主岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。
青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森舘の戦い」で伊達政宗勢に属した三春城主田村清顕公に従い参戦し、大内定綱勢と戦い負傷。
「古道舘」 都路町古道字舘ノ腰に在り、北畠勝光の居舘。
津島・葛尾・古道・岩井沢の4か村は、戦国時代に相馬顕胤の娘・喜多姫が三春2代城主田村隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りした際に相馬氏より田村氏へ喜多姫の化粧代として田村領に編入されています。

※訂正です。塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。
奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照
蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
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