2023-03-15 Wed
中郷の高齢者学級さくら学級でお話をさせて頂きました。お昼まで呼ばれまして〜♫
幼き頃より見知っている先輩方ですっかりご馳走になり、いい心持ちのよき日となりました。
先の講演会には、おたり婆さんの出宿の当主さんも出席されてました。お話をしたました際に、「自分の家出身のその末裔が頑張って繁盛してる。これは嬉しいことだぞなぁ!と知り合いに言われたんだ、本当にそう思う、ありがとな!」と言う言葉をいただきました。
こんな嬉しい言葉はありません。
がんばって商売をやって良かったなぁ〜って心より思いました。
「中郷の歴史 田村四十八舘」
中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一
於三春の里 令和5年3月14日(火)
はじめに
・柳作髙橋 根本近内 込木見渡様 笠石八幡宮
・滝桜散歩 ゴミ拾い
・テレビ 滝桜
・中郷は、戦前には一時教化村に指定され、多くの人材を輩出。
昭和60年代末より平成2年桜中学校創設にあたって、三春瞬教育委員会「子どもの夢の育つ学校造り」「教科教室形の学校運営方式を採る中学絞」の研究校
1.戦国時代舘跡探訪
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。
「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせると百以上の舘が存在しています。
時代に前後しますが、確認されている田村領内の館跡だけでも、三春町内で二十五カ所、旧三春藩領(田村郡及び郡山市東部)を含む全体では百十三カ所にのぼり、他に、場所のわからない館や郡外に田村氏が築いた館をあわせると三百カ所以上になります。
これらの館跡から、江戸時代に、選りすぐったのが「田村四十八館」です。
全国の戦国武将の領内でも「~四十八舘」と称されています。
この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。館(たて)とは、小規模な城のことですが、実際には、軍事施設もあれば、地主・領主の居宅、村の集会所や避難施設などの様々な用途があります。
◎ 過足舘址 木幡氏
過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。将門が反乱して亡んだ後、その一族千葉氏、後の相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。
その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。
◎ 「柴原館」
城将は、橋本助右衛門、禄高450石。
館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、
本丸は南北28間、横18間。
この橋本氏は、下枝城主、木村城主(刑部舘)で、田村四天王の一人橋本刑部少輔顕徳の一族と伝えられているが、記録が少く地方の人にも余り知られていないようです。
尚、田村氏の一族も橋本姓を名乗っています。
芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本、田母神橋本、中津川橋本・・・
◎「貝山館」
舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢の軍勢の為に軍勢の主力を臨場させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、伊達に組する三春の領主田村宗顕を攻めます。
この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。
2・中郷今昔物語の巻
中郷の昔は、滝外18ヶ村戸長役場が行政区となっていた。
その後、滝、柴原、込木、楽内、芹ヶ沢、貝山、蛇沢、春田、狐田、過足、根本、樋渡、蛇石が合併して中郷村となったのである。
これは明治20年町村制実施以来のことである。
初代村長は田村謙次郎、次に御代田勝弥、木幡文多郎、橋本喜四郎、木幡文忠と続き、三春町に合併したのである。
◎ 芹ケ沢
津島神社(旧神号天形星王社)
※天形星は天刑星(てんけいせい)ともいわれる道教の神で「木星」を意味するという。
この天形星が陰陽説で牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王が素戔嗚(須佐之男命)と習合する、という複雑な過程を経てこの社名
三春城下の西、旧小野海道芹ヶ沢村の入り口を見下ろす小高い丘に、鎮守津島神社、芹が沢稲荷神社、見渡神社が合祀された社があります。
かつて、春と秋の祭礼には、「お人形祭り」として、三春領五人形様の一つ「天形星王のお人形様」のお衣替えという行事がありました。
祭礼前日に、氏子が社殿に集まり、大人形を作ります。
まず、大きな樹の柱を胴骨にして、コモを巻き頭部に篭を被せて紙を貼り、顔を描きます。
胴体には、杉の葉をたくさん差して着物にします。
これを「お衣替え」としていました。
この人形を押し立てて、神官の祈祷の後に氏子一同で拝みます。
そして人形様は、神精霊の形代として、村に入り込む厄や流行病除けとされてきました。
その偉容は、厄病を威嚇するに相応しい中国・朝鮮調の鬼面のような人形であったと伝えられています。
この津島神社の「お人形祭り」は、春秋の二回欠かさず行われてきましたが、近世に発生した社殿の焼失で現在は行われていません。
◎ 楽内
三春城下磐城海道境の旧楽内村に鎮座する「金比羅様」です。
かつては、農家方々からは繭の神様として信仰を集めていました。また、山一つ隔てた弓町遊廓、庚申坂新地のお女郎たちからは、年期が早く明ける祈願所として信仰を集めていました。
◎ 込木
三春城下の南に、くぐりきと読みます”込木”の宮ノ下に見渡神社があります。
江戸期は、「飯渡大権現」権現さまと呼ばれ、古くからトリケの神と称して、百日咳にかかったときは鳥居の石を削って呑めば治ると云われていて拝殿には鶏の絵馬が多数奉納されている。
三春昭進堂の創始者高橋民四郎の本家も、込木柳作です。
かつて、十月の祭礼には、民四郎の妻おタリや、その子で当家先々代の傳造が饅頭を台八車に乗せて、社殿下で売っていたと聞き及んでいます。
◎ 柴原
・「柴原日枝神社」江戸期までは、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「柴原山王社」などと呼ばれ、旧柴原村の産土神として崇敬されていました。景色がいい
・「柴原神社」
三渡大明神として村の鎮守していました。現在でも、秋の祭礼時には柴原の若衆が「お籠もり」をして夜明けの神事を行っています。
◎ 滝
・稲荷神社
・田村三十三観音三十番札所 大霊山龍光寺、馬頭観音堂
三階滝(三界滝) 古銭
◎根本
・笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。
笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。
・根本神社 根本八王子神社
三春城下の南四里、滝桜南の根本村旧鎮守です。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社とされています。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
根本神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。
◎過足
・「鎮守仁渡神社」
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。
・過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。
・「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
日本にある江戸時代前に建立された有名な神社仏閣
その7割が、空海、田村麻呂そして徳一が創建
◎ 樋渡
・樋渡神社です。
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。
熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。
境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。梅も咲きます。
◎ 蛇石
「蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。
◎ 狐田稲荷神社
三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就した。
大晦日、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
享保三年に、家老職連名で奉納した鳥居です。
◎ 貝山村
・白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
柴田勝家 与力 織田信長重臣佐久間氏末裔由来 佐久間氏の氏神様
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。我が子の無事帰還祈願でしょか?
◎ 「春沢見渡・日枝神社」
春田集落の見渡・日枝神社は、三春ダムの完成により、旧蛇沢と春田の住民がこの地に移転してきました。
蛇沢郷鎮守見渡神社は、天之村雲命を祭神として蛇沢村にありました。
関東より移住した先祖が分霊し勧請したと伝えられています。
また、日枝神社は、春田鎮守山王権現として大山祇神を祭神として春田村に鎮座していました。日枝神社の神の使いは猿といわれています。
| ryuichi | 03:53 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::地域貢献 歴史講話 |
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