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塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7




塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7


「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 




「奈良の大仏さま」と小野町赤沼の御縁を耳にして、どうしても大仏さまに御目にかかりたくなり「大人の修学旅行」と洒落込み奈良観光に行ってきました。

高校の修学旅行以来の法隆寺、薬師寺、そして、東大寺。

当時とは違う?同じか?あまりに遠い記憶で忘れかけていた感動が倍増して蘇ってきました。





事前に小野保旧赤沼村金屋の鋳物師遠藤家に「奈良の寺に先祖が造った梵鐘が在った」、そして、「先祖が奈良大仏修理に参加していた」などの話が伝わっているなど、大仏さまとのご縁があると“レクチャー”を受けていましたので、より身近に感じていました。


実際に、東大寺大仏殿に赴き、大仏さまの慈愛溢れるそのお姿を拝観するだけで涙が溢れ時の経つのを忘れてしまいました。






現存されている「奈良の大仏さま」、正確には毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は、創建造立当初のものではなく、2度の戦火のため罹災しています。

最初は1180年の「源平合戦」というもので、平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。

この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)が、後白河法皇の使者となる「藤原行隆」に東大寺再建を進言するなどして全国より寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。

この修復に際し、後白河法皇や鎌倉殿・源頼朝といった様々な当代の権力者が造営に寄進したといわれています。







次は、室町末期・戦国時代の1567年の「永禄の兵火」。

東大寺は興福寺などと共に畿内の利権争い戦場と化しました。当時の将軍足利義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀が主導権を巡って、南大門付近にて武力衝突・戦乱が繰り広げられました。その際に松永久秀が大仏殿に火をかけ、東大寺の伽藍が全焼して大仏さまも頭と首が焼失し、後に大仏さまの頭部を仮修復して周りを覆い仮の仏殿としましたが、大風によって大破してその頭も取れてしまいました。

その後、大仏さまは首がない状態のままで100年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。






1709年の徳川時代にようやく大仏殿と大仏様が再建されます。

この時の復元修復は、三輪僧公慶が貞享元年(1684年)から大仏さま修復・復元のために広く全国に赴いて庶民に大仏さまの功徳を説き、多額の喜捨を集めて大仏さま修理の費用を捻出・確保しました。






元禄4年(1691年)から、鋳物師・広瀬弥右衛門国重らを中心として約5年の歳月を要して、やっと3度目の大仏さまが完成し、翌年には一か月に亘って盛大に開眼供養が行われたと記録にあります。これが現在の奈良の大仏さまとなります。


大仏さまの頭部は江戸時代。体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代の部分も残っています。

台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画も、天平時代のもので大変貴重です。

この大仏修理に赤沼の遠藤氏が鋳物師として参加していたと伝わっています。

後に鋳物師遠藤氏の一族は、当時白川(白河)藩十五万石の領地であった小野保仁井町の赤沼へ移住して小野保、三春領の田村庄をはじめいわき・須賀川などのお寺の梵鐘や半鐘を精力的に製作しています。





その高い技術力は大仏修理の鋳物師のなせる業で、赤沼金屋の鋳物師として現代風に言えば「ブランド」として引く手あまたの受注があったと想像されます。

惜しくもその作品の大半は先の大戦で供出され現存していませんが、供出を免れた梵鐘や半鐘などからもその技術力の高さを垣間見ることが出来ます。

末裔となる遠藤貴美様は、祖先の鋳物師としての作品があるお寺の梵鐘を県内各地に尋ねて丁寧に調べ上げ「赤沼村の鋳物師」を著わしています。


“確かに東大寺には「兜率天(とそつてん)」がある” 司馬遼太郎


       蒼龍謹白  田村に来てみねぇげ!  拝










遠藤先祖の奈良での行動はあくまでも確証の無い、遠藤家の言い伝えです。

昔、父や縁者から聞いていた先祖に関した言い伝えと、実際に先祖製作の梵鐘や半鐘を調べている中で私なりに総合的に判断した推測です。

日本の歴史上、寺の鐘が一番多く製作されたのは江戸時代中期で、二番目は昭和の戦後です。昭和については戦時中に失われた鐘の復元のため、全国で多くの梵鐘や半鐘が製作されました。



一番多い江戸中期については、・・・・江戸初期の島原の乱の後、江戸幕府は徹底したキリシタン禁令政策を施行。「宗門改制度」、「寺請制度」が実施、国内の隅々に寺が創建されたことにより、部落単位に必ず寺が設けられた。


全ての人々が、いずれかの寺の檀家になり、寺からは(寺請証文)なる身分証が交付されることで、檀家住民の動向や戸籍を管理。このシステムから「宗門人別改帳」や「檀家台帳」が作成された。
・・・現代の市町村の役場機能を寺に行わせていた。


この様なことから布施や寄進等で財政的に潤い、寺も梵鐘や半鐘を持つようになった事が、江戸中期に梵鐘や半鐘が多く製作された要因となっている。

江戸中期初頭の地域(現在の福島県)での鋳物師は、会津、梁川、安積日和田、須賀川本町、棚倉、岩城、相馬に存在した。当時奥州地方の鋳物師は多くなかったと思える。


私の推測では、ビジネスチャンスの奥州は先祖にとって魅力の地であったのではないか? 当時の田村地方に先祖以外の鋳物師は存在しておりません。


  「赤沼村の鑄物師」遠藤貴美著 あとがきより


| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |