2024-04-13 Sat
「小さな城下町三春」に春の訪れを告げる、八幡神社の参道に祭堤燈が並び始め、桜の開花が気になる季節になりました。旧三春秋田藩五万石の城下町、三春の入り口にある八幡神社(明治初期の神仏離反により、村社格にて旧八幡大菩薩宮を改名)の縁起は、「田村郡神社明細」によれば、戦国期の天文年間に京都岩清水八幡宮よりの勧請(分霊)したとあります。
また「田村郡郷土史」には永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあり、現在も田村大元神社の境内には八幡神社の末社が熊野神社の末社と供に本殿の左右に祀られてあります。
後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。
八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。
この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。
後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりましたが、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、三春藩秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。
境内には一対の苔むした石灯篭がありますが、これはその昔山賊に襲われた下総結城の商人が、八幡様のご加護により助けられ、そのお礼に寄進した話は有名です。
春の祭礼は、4月の第三日曜日に行われます、神輿還御は、満開の夜桜並木と祭堤燈のかもし出す幽玄な雰囲気の中で、神輿還御の先祓いとなる八幡町若連の勇壮な「長獅子」が供奉奉納され、三春の春を彩ります。
蒼龍謹白 合掌
塵壺平成15年4月号より
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