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「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」 奈良 吉野郡東吉野村




そういえば、さきの伊勢神宮から高野山へ向かう途中に吉野の山中で「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」をお参りしてきました。

「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」とされる慰霊碑が、大きな岩(残念岩)の前に玉垣に囲まれ安置されていました。

寅太郎はこの大きな岩の裏手にて藤堂藩の手により討たれたといいます。(※自刃とも、銃弾によるとの説があり)







吉村寅太郎は、土佐在高岡郡の代々庄屋を務めた吉村家の惣領息子で、後に土佐脱藩。
 
土佐勤王党四天王の一人と称され、文久2年(1862)3月、長州に脱藩し、主に長州・京都を往来して諸国の勤王の志士たちと交わり、尊王倒幕に傾倒していきます。

 文久3年8月13日、孝明天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が下ります。

翌14日、同志と共に中山忠光を主将に奉じ、松本圭堂、藤本鉄石、吉村虎太郎が総裁に就き、同じく土佐脱藩那須慎吾らと大和行幸の先がけとなるため京都を出陣。







寅太郎は、後に「天誅組」と呼ばれる統幕集団の総裁の一人として、天誅組を率いて大和で挙兵し17日、大和の五條代官を襲撃します。


しかし、挙兵直後の8月18日、、「七卵の都落ち」に象徴される京都で尊攘派の主だった公卿や長州藩が公武合体派の薩摩藩、会津藩によって追放されるという事件が起こります。世にいう「八月十八日の政変」です。

長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止。


挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となります 。








京都守護職より天誅組追討の命令が近隣諸藩に出され、吉村は、十津川郷兵一千人余りを募って高取城を攻めたとき追討諸藩の猛攻撃を受け戦闘中に銃傷を受け敗走します。

敗走した残党狩りの追討探索が厳しくなり、27日早朝、鷲家と鷲家口の村境の籠屋畑にある薪小屋に潜んでいるところを発見されて、藤堂兵の銃撃にあい無念の最期をとげます。享年27歳
 






 辞世「吉野山風に乱るゝもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙とみよ」








明治16年(1883年)5月、靖国神社合祀。


明治24年(1891年)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られ、後に「土佐四天王」と称されることになる。


「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」案内板参照




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |