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塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行




塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行


田村大元神社の祭礼執行役・別火講中に在講中、2泊3日の夏季例大祭・御籠(おこもり)や、正月別火講祭の後片付けの際に境内を探索して明治維新廃仏毀釈以前の太元帥明王社及び別当泰平寺の遺構探しをしていました。






地中からは、梵字のような文字が刻まれている石や太元帥明王の罹災した記録を記した石板、そして、多数の束石等々…。

そのまま埋め戻すのも忍びないので、境内の隅に置いておきました。








まだまだありそうで、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。







古い資料があります。

明治初年の旧三春藩領三春町の「寺社明細帳」。

その中の旧三春藩領内総鎮守「太元帥明王社」の記載があり、社名は「大志太神社」、祭神は国常立命と記されています。そして、社殿の項を見ますと・・

「神殿(現・拝殿)」縦に尺三寸、横に尺八寸。「窟(現・本殿)」縦二間、横二間。

「随神門(現・仁王門)」縦二間半、横六間半。そして、「額殿(現社務所付近か?)」縦七間、横二間との記載がありました。

「額殿」とは、奉納した額を納めた社のことを指しますが、大きさからして神仏習合の「拝殿」に相当する建屋があったと思われます。そして、政府教部省の教導職道場「小教院」の記載もありました。






さらに、もう一つ。廃仏毀釈の混乱を現す記載がのこっています。


太元帥明王山内(境内)にあった記録が残る「愛染塔」が一部の過激な神道崇敬者によって境内から崖下へ投げ落としたというのですが、現在も同神社の真下にあるお宅の裏庭にひっそりと鎮座しています。

石碑の表中央には「愛染塔」、右側には「再建昭和6年・・・」と刻まれています。

そして、左側には再建・奉納者のお名前が揮毫され刻まれてあります。
また、裏面には、本来の建立した年号「丑月庚申」が読めます。

庚申の丑月で1月、庚申の年といえば60年に一回です。








永正子年間の田村義顕公による三春築城太元帥明王社の勧請(建立)、そして、会津蒲生代官期や会津上杉代官期、秋田候三春入城の正保2年などを考慮して愛染塔(愛染明王堂?)の建立時期を庚申年に合わせて設立された年を推察してみました。

永禄3年1560年 この前年の永禄2年10月に義顕公が太元帥明王に大般若経二百巻を奉納しています。

永禄4年3月25日に義顕公が死去しています。

元和6年(1620)蒲生代官時代の寛文10年(1670)に伽藍が炎上により焼失。

延宝8年(1680)4年前の延宝4年には三代藩主盛季公大阪勤番中に同地で死去、輝季公が家督相続しています。 

元文5年(1740)10年前に享保14年(1730)~15年 三春藩騒動「享保騒動」  

寛政12年(1800)15年前の天明五年(1785)には「天明の大火災」発生、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め城下六町のほとんどを消失し、藩主御座所を真照寺に移すほどの災害から復興した頃か?

安政6年(1860)「安政の大獄」があり、三春にも幕末風雲の声が聞こえ始めています。

これらを鑑みるに、大般若経二百巻奉納と義顕公死去の間となる永禄3年か?はたまた寛文10年の「明王社伽藍炎上」?もしくは天明5年の「天明の大火災」で愛染明王堂が焼け落ち、その代わりとして「愛染塔」の石碑を建立したか…?謎が深まります。







この石塔には「愛染塔」との揮毫の刻印があります。石碑単体として祀っているのであれば「愛染明王」と刻まれているのではないかと思います。

もしかしたら、明治以前に宇内(境内)に設置されていた時には、この石塔の他に「愛染明王」を祀る本来の仏塔(堂)があったのではないかとも推測しています。

場所は、この巨大な石を人力で落とせる場所ですので、現在の手水社の後ろ側か宝物殿附近かなともあれこれ想像するだけでワクワクしてきます。







       蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |