2024-12-06 Fri
塵壺401号 春陽ノ郷 「三春花の丘」 三春楽しい地域づくりの会 令和6年12月吉日発行
三春町にご縁のある首都圏を中心とした県外在住者の会「三春舞鶴会」(八木沼今朝蔵会長・過足出身)。活動としては、年2回発行している会員向け機関紙「三春舞鶴通信」(菅野吉雄編集長・常葉出身)に於いて会員や三春在住の方の寄稿によって会員同士の情報交換や親睦を図り、三春のホットな話題も提供しています。
さらには、年1回開催される総会に於いて来賓として三春町長はじめ主だった役職の方々にご臨席を賜って今の三春の現状を伺ったりして交流を深めています。
先ごろ、東京麹町に於いて三春舞鶴会第13回総会があり、私も三春在住の三春舞鶴会幹事として出席しました。
総会での八木沼会長の挨拶では、今春に春爛漫の三春へご友人を招待した際に「本当に良い町ですね」との言葉をいただいたこと。そして、パリ・パラリンピックの車いすラグビーで、初の金メダルを獲得した日本代表の橋本勝也選手のこと。さらにもう一つ『てっぺんの向こうにあなたがいる』と題して三春出身の登山家田部井淳子さんの生涯を吉永小百合さん主演で映画化されるなど、郷土
三春に関する話題を話され、臨席された会員の皆様も大変喜んでいました。
懇親会では三春町長はじめご来賓の方々のそれぞれの立場から現状紹介や三春甚句などが披露され盛り上がっていました。
また、会員の三春町(旧御木沢村)出身の洋画家後藤茂樹先生より、当会の關マサ副会長(会計)へ絵画「富士山」の寄贈式、そして臨席された方々へ手書きの絵ハガキの贈呈がありました。
日本洋画界を代表する画家で齢90を超えても尚、創作意欲みなぎる生涯現役の洋画家の後藤先生から「三春に生かされている」との御言葉に皆さん感動されていました。
後藤茂樹先生のプロフィール。
1931年生まれ、陶芸、水墨画、油絵を学びます。フランス ル・サロン展:銅賞(1978年)や国際大賞を受賞するなど、国際的に活躍する世界洋画界の第一人者です。
そして三春町文化功労賞(1981年)も受賞されています。
総会には、三春からも来賓として三春町長はじめ多数の参加をいただきましたが、その三春からの出席者の一人で、NPO法人「三春楽しい地域づくりの会」(内藤忠会長)の副会長で「三春花の丘」実行委員の城下荒町光善寺(浄土真宗本願寺派)の井上広志住職と後日、今後の三春舞鶴会と三春の具体的な交流やその方法などについて話をする機会がありました。
その中で、江戸時代の相馬中村藩への越中富山から浄土真宗門徒が多数移住した話を伺いました。天明3(1783)年、「天明の飢饉」が発生して数年に亘る飢饉と疫病で相馬藩では多くの人が死亡、さらに逃散・失踪者も多く出しました。その結果、何十年もの間、人手不足で農地が荒廃していました。
その復興策として、時の相馬藩の殿様が江戸城登城の際、控えの間が同じ北陸富山の砺波藩の殿様に人口減の話をしたところ、仏の教えから間引きの悪習のない北陸の真宗門徒の村は人口過多でしたので真宗門徒の村ごとの移住を快諾したと聞きました。
移民の真宗門徒の方々は、相馬藩の「入り百姓」の政策として、年貢の軽減などで優遇されたこともあり、北陸各地からの移住民は最終的には1万人前後になり開墾新田も石高3万石余りが計上されています。
さて、井上和尚が実行委員を務める「三春花の丘」公園計画は、城下の中心部の紫雲寺山散策路の一帯で、臥牛丘、刑部舘跡と称される丘で行われている植樹事業で、未来へつなげる郷土の美しい景観づくりの一環となっており、地域住民の皆さんとともに長期的に植栽に取り組みながら「三春花の丘」の整備と完成を目指しています。
井上和尚は「紫雲寺散策路は、今は何もない丘です。この先、何年先になるかはわかりませんが、三春小学校、御木沢小学校の児童や三春中学校、田村高校の生徒たちが植樹した桜、花桃、レンギョウ等々の苗木がいつか立派に生長し、何もないこの丘をやがては三春の名所として三春町民の憩う場に、そして訪れる者の心を癒やし、和ませる、美しい三春花の丘へと変えてくれることでしょう」と話されていました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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