2025-10-03 Fri
塵壺411号 「明治からのメッセージ! 田村大元神社随神門(ずいじんもん)」 令和7年10月発行
子供の頃より、遊び場や祭礼奉仕などで慣れ親しんだはずの田村太元神社境内の社殿。
その入り口である随神門をよくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に、走り書きされたような何やら明治の年号や名前、文字、田村大元神社の名称などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“へのへのもへじ”の顔、そしてローマ文字などが見え、小若連の文字や大世話人以下、別火講中の講員の名前と思しいような文字も見えます。
チョット見には落書きのように見えますが、これは明治期に書かれたメッセージのようにも思えます。かれこれ50年以上は参内しているはずなのに、これには驚きました。
仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へお戻りになったのが昭和36年ごろですので、明治21年からおよそ80年の間に何のために書かれたものなのか、さらに、深く推察するにこの右大臣、左大臣の場所には、何が収まっていたのかははっきりしません。
もしかしたら、この落書きが残る場所には何もなかったのか?とも考えられます。
そして、記載された年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは、旧郷社格となったことや、田村大元神社の祭礼復活の記念等々、自称“歴史オタク”の想像は膨らみます。
空白の80年の穴を埋める貴重な資料として、150年の時空を超えた“明治からのメッセージ”には、何か意味がありそうです。
田村大元神社(太元帥明王)は、長い歴史の中で、火災や政治的混乱などによって度々罹災しています。
田村大元神社の創建は、永正の子年としていますので、元年(1504)か13年(1516)に、田村義顕が三春に移城するに際して仮殿を建て大元明王を勧請。天文年間(1532-1554)には伽藍を創建となっています。
後に、豊臣秀吉の田村仕置きによって田村氏改易後、歴代の三春城主を経て江戸期の秋田氏になっても、田村氏配下の御春輩衆の力が侮れず、領民の人心掌握のために秋田氏の守護「古四王」ではなく、田村氏の守護「大元帥明王」をそのまま領内鎮守の守護神として歴代藩主は太元帥明王奉行を置いて領民の尊祟をあつめていました。
三春藩二代藩主・秋田盛季(もりすえ)公代の寛文10年(1670)7月、晦日に発生した火災により伽藍も罹災、炎上消失して、後に再建しています。
さらに七代倩季(よしすえ)公代、天明5年(1785)、そして八代謐季(やすすえ)公代の寛政10年(1798)の城下の大火災により、大元帥明王社の山内も罹災し焼失します。
後に再建し、境内に再建を記念して町衆と戦国武将田村氏の配下である「御春輩」北方在郷衆(青石、實沢等)から文化11(1814)と翌12年(1815)に奉納された石灯籠と、罹災した詳細を記した石板(埋設されていたものを発掘!)が残っています。
明治維新後の明治2年、廃仏毀釈、神仏混淆の禁止により、学頭坊泰平寺は廃棄され、太元帥明王本殿・拝殿、額堂や小教院などの仏教色の濃い施設を改築や取り壊しをして、太志田神社と改称。明治12年、さらに祭神を国常立命として田村大元神社と改称します。
その際、神社の仏教守護の阿吽仁2躰の仁王様金剛力士像は不当ということで、仁王様を別当職だった真照寺に移設して、随神を収めた同社の随神門としました。
この随神門は、慶応3年(1867)、仁王門として新建しました。幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて完成した入母屋造り八脚門です。これが秋田三春藩としては最後の建築工事でした。
竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇しますが、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されました。
随身とは、御随身(みずいじん)と称し、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。
以後、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神様)を左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ刀と弓矢をもって「門守神(かどもりのかみ)」として鎮座していました。
時代は下って、終戦間際に行われた帝国軍国主義の後始末等の困難を乗り越えて、昭和36年6月、新町住民の要望と奉仕によって真照寺軒下より阿吽の金剛力士仁王像二躰が田村大元神社随神門に戻され、新町では再び“仁王門”と呼ばれるようになりました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 20:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
2025-10-03 Fri
塵壺411号 「明治からのメッセージ! 田村大元神社随神門(ずいじんもん)」 令和7年10月発行
子供の頃より、遊び場や祭礼奉仕などで慣れ親しんだはずの田村太元神社境内の社殿。
その入り口である随神門をよくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に、走り書きされたような何やら明治の年号や名前、文字、田村大元神社の名称などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“へのへのもへじ”の顔、そしてローマ文字などが見え、小若連の文字や大世話人以下、別火講中の講員の名前と思しいような文字も見えます。
チョット見には落書きのように見えますが、これは明治期に書かれたメッセージのようにも思えます。
かれこれ50年以上は参内しているはずなのに、これには驚きました。
仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へお戻りになったのが昭和36年ごろですので、明治21年からおよそ80年の間に何のために書かれたものなのか、さらに、深く推察するにこの右大臣、左大臣の場所には、何が収まっていたのかははっきりしません。
もしかしたら、この落書きが残る場所には何もなかったのか?とも考えられます。
そして、記載された年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは、旧郷社格となったことや、田村大元神社の祭礼復活の記念等々、自称“歴史オタク”の想像は膨らみます。
空白の80年の穴を埋める貴重な資料として、150年の時空を超えた“明治からのメッセージ”には、何か意味がありそうです。
田村大元神社(太元帥明王)は、長い歴史の中で、火災や政治的混乱などによって度々罹災しています。
田村大元神社の創建は、永正の子年としていますので、元年(1504)か13年(1516)に、田村義顕が三春に移城するに際して仮殿を建て大元明王を勧請。天文年間(1532-1554)には伽藍を創建となっています。
後に、豊臣秀吉の田村仕置きによって田村氏改易後、歴代の三春城主を経て江戸期の秋田氏になっても、田村氏配下の御春輩衆の力が侮れず、領民の人心掌握のために秋田氏の守護「古四王」ではなく、田村氏の守護「大元帥明王」をそのまま領内鎮守の守護神として歴代藩主は太元帥明王奉行を置いて領民の尊祟をあつめていました。
三春藩二代藩主・秋田盛季(もりすえ)公代の寛文10年(1670)7月、晦日に発生した火災により伽藍も罹災、炎上消失して、後に再建しています。
さらに七代倩季(よしすえ)公代、天明5年(1785)、そして八代謐季(やすすえ)公代の寛政10年(1798)の城下の大火災により、大元帥明王社の山内も罹災し焼失します。
後に再建し、境内に再建を記念して町衆と戦国武将田村氏の配下である「御春輩」北方在郷衆(青石、實沢等)から文化11(1814)と翌12年(1815)に奉納された石灯籠と、罹災した詳細を記した石板(埋設されていたものを発掘!)が残っています。
明治維新後の明治2年、廃仏毀釈、神仏混淆の禁止により、学頭坊泰平寺は廃棄され、太元帥明王本殿・拝殿、額堂や小教院などの仏教色の濃い施設を改築や取り壊しをして、太志田神社と改称。明治12年、さらに祭神を国常立命として田村大元神社と改称します。
その際、神社の仏教守護の阿吽仁2躰の仁王様金剛力士像は不当ということで、仁王様を別当職だった真照寺に移設して、随神を収めた同社の随神門としました。
この随神門は、慶応3年(1867)、仁王門として新建しました。幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて完成した入母屋造り八脚門です。これが秋田三春藩としては最後の建築工事でした。
竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇しますが、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されました。
随身とは、御随身(みずいじん)と称し、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。
以後、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神様)を左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ刀と弓矢をもって「門守神(かどもりのかみ)」として鎮座していました。
時代は下って、終戦間際に行われた帝国軍国主義の後始末等の困難を乗り越えて、昭和36年6月、新町住民の要望と奉仕によって真照寺軒下より阿吽の金剛力士仁王像二躰が田村大元神社随神門に戻され、新町では再び“仁王門”と呼ばれるようになりました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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