2025-11-03 Mon

令和7年度 樋渡熊野神社 秋季例大祭 樋渡神社
三匹獅子舞奉納
開催日
11月3日(月・祝) 午後1時より
イベント
かつては、それぞれの地域の鎮守様に奉納されていた、滝、そして蛇石集落の三匹獅子舞のDVD上映会
樋渡三匹獅子の特製缶バッチプレゼント
在方の三匹獅子舞は、太郎と次郎の雄獅子 2 頭と雌獅子 1 頭が、腹に抱えた太鼓を両手に持った撥で敲きながら舞う鞨鼓獅子舞です。
富沢(火雷神社と天日鷲神社)、実沢(高木神社)、庄司(三輪神社)、滝(稲荷神社)、蛇沢(王子神社)、樋渡(樋渡神社)に伝わっていましたが、現在、多くの演目を継承して演じているのは樋渡だけです。
そして、秋祭りといえば各集落に伝わる「太々神楽」
江戸時代後期から明治時代頃に流行し、御祭(厳島神社)、富沢(愛宕神社、天日鷲神社)、実沢(高木神社)、北成田(成田神社)、庄司(三輪神社)、貝山(白山比咩神社)、斎藤(見渡神社)、上舞木(直毘神社)などで演じられてきました。
現在は、御祭、庄子、斎藤、上舞木で継承しています。※直毘神社は春だけの奉納

三春城下の南東、一里余に旧樋渡村があります。
この集落の鎮守、樋渡神社
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。

熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
また、境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。

三春を中心とする田村地方一帯は平安期から室町初期まで「田村庄」と呼ばれ荘園制度の中で熊野本宮大社の荘園とされてきました。
その関係でしょうかここ田村地方には熊野神社が多く建立されています。
奈良・平安の頃には、紀伊国牟婁郡(現和歌山県)東部にある"熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)"は"黄泉ノ国"とされていました。
当時の人々は、都(奈良や京都)を昼の国とし都からずっと南の方には夜の国があると考えられていたようです。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と荘園制度の確立で隆盛を極めていきました。
しかし、中世熊野詣を担った荘園制度という経営基盤や都からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになります。
鎌倉中期以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いたとされています。
後に熊野信仰を盛り上げていったのは、先日の観蓮会で賑わった荒町の法蔵寺の宗旨である時衆(のちに時宗)でした。
時衆とは、一遍上人(いっぺんしょうにん)を開祖とし、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教で、この熊野の本宮が、時衆の開祖とされる一遍上
人が悟りを開いたとされています。
時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、説経『小栗判官』などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。
この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立したと考えられています。

熊野信仰は、古くから人々の熱い信仰に支えられた聖地であり、『伊勢へ七度、熊野へ三度』とさえ言われ、人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野詣は難行苦行の連続であり、苦行の果てに自らが体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれています。
また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉など、この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土を見た思いだったのかもしれません。「熊野権現」
は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄を問わず、なんびとも受け入れたことであると考えられて、人々は絶望の淵から再生を念じて熊野を目指したのでしょう。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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